第一章 黎明 後編

“皇紀2682年2月18日”

“一平が、件の本は漢字が読めないため内容が理解できない、漢字を読めるようになって本の内容を理解したいと訴えてきた。これまで一平が人生で一度も感じたことのない学習意欲を見せたことに感動し、涙が出てきた。これほどまでに劇的な効果があるとは信じられない。早速一平を連れて本屋に向かった。ひらがな・カタカナもまだ怪しいため、未就学児向けのひらがな・カタカナの勉強用テキストから小学校1年生〜6年生までの漢字ドリルを購入した。また、四則演算もできるようにと算数ドリルも合わせて購入。一平は、小学生の勉強などと文句を言うことは一度もなく、期待に満ちた表情をしていた。ようやく一平が人間らしい知識を得ることができる。こいつの幼少時にこのような治療があればと思わずにはいられない。”


一平

“2月20日”

“お父さんにかってもらったドリルでかん字のべんきょうをはじめた。むかしいちどは小学校でべんきょうしたはずなのに、まるではじめて見るようにおもえる。あのころは一体なにをやっていたんだろう。とんでもなくじかんをむだにしていたようで本とうにくやしい。ぼくはもうすぐ40才になる。いまからのべんきょうで35年ぶんのおくれをとりかえすことなんてできるんだろうか?”


“同年2月26日”

“一平は漢字の勉強を意欲的に進めており、既に小学校で学ぶ漢字はほぼ読み書きできるようになったようだ。それでも釈迦の本を読むには足りず、漢和辞典を与えたところ、部首で検索して読み方を都度調べながら読み進めているようだ。物覚えもよくなり、以前とはまるで別人になった。明らかに社交的で人当たりも良くなり、一人で出かけても近所の人に挨拶すらできるようになった。親としては嬉しい限りだが、あまりの効果に空恐ろしさも感じる。”


一平

“2月28日”

“漢字を読めるようになって、おシャカ様の本もある程度内容が分かるようになってきた。おシャカ様の考えはとても難しくてまだぼくには理解できないが、そのうち分かるようになるのだろうか?勉強といえば、苦手だった算数もだいぶん理解できるようになった。7÷7=1という非常に単純な理屈が、なぜ分からなかったんだろう。足し算、引き算に加えてかけ算(九九)と割り算も出来るようになって、買い物に行く時には会計金額をあらかじめ暗算で計算してからレジに向かっている。答えがあっていると、嬉しい。ささいなことでも楽しくて仕方がない。点滴は嫌だけれど、世界の見方が一気に明るくなって良かった。”


 苧ヶ瀬は2月の日記を読み終えた。ほんの二週間の変化とは思えない一平の劇的な変化に、ページをめくる手が止まらなかった。

「あの一平君が、ここまで学習に喜びを見出していたなんてな……それにしても、覚えるペースも速ければ日本語の上達ぶりも凄まじい。失われた30年以上を一気に取り返していた感じかね……」

 それだけに、一平が亡くなったことが惜しくてならなかった。これだけの成長を見せた一平であれば、過去の行動を顧みて被害者への謝罪や社会貢献も十分に出来たであろうに。そう思って苧ヶ瀬はある事に気づいた。

「いや、そういえばこの年の3月後半からは一平君に関する通報が徐々に減り出したんだっけな……その頃、何かあったのか?」

彼は日記帳の中から皇紀2682年の3月の日記を探してページをめくった。


一平

“3月3日”

“僕の部屋の向かいには、妹たちが使っていた部屋がある。もう10年くらい前に、妹2人とその友達が乗っていた観光バスが高速で事故を起こし、運転手を含め乗員全員が帰らぬ人となったそうだ。けれど少し変だと思う。なぜなら、我が家の仏だんには妹たちのいえいが飾られていない。祖父母の写真はあるのに。そういえばお位はいもない。不思議に思って父に尋ねたが、『お前が知る必要のないことじゃ』と怒鳴られた。自分の家族の事なのに、なぜ。様子を見てまた聞いてみようと思う。”


“皇紀2682年3月3日”

“今日、一平が娘たちの遺影が無い事を不審に思ったのか、その理由を聞いてきた。今までは『あの子らは死んだ』と言っても大して興味なさそうな返事しか返って来なかったのが、自分から興味を持ってきた。何と答えるべきか分からず、いつもの癖で怒鳴って追い返してしまった。真実を伝えるべきだろうか。今の一平であればすべて理解できるかもしれない。それだけに、あいつを傷つける事になるだろう。”


 その後しばらくは、一平も父も当たり障りのない内容の日記を書いていた。一平は一平で、ただならぬ様子の父に聞きづらかったのだろう。だが、先に動いたのは一平であった。それは、苧ヶ瀬が最後に一平の顔を見た皇紀2682年3月12日の日記であった。


一平

“3月12日”

“今日の父はなぜだか機嫌が良かった。僕がいつもの刑事さんに挨拶できて、楽しくお話で盛り上がれたからだろうか。この前結局聞けなかった妹たちの話を聞いてみる事にした。父は、最初はしぶっていたけれど、何度も頼んだら、ついに観念したのか話してくれた。その内容は、僕にとっては非常にショックの大きいものだった。つまり、僕という不出来な兄がいると妹たちの将来の結婚相手に迷惑がかかるから、うちと縁を切るために子供のいない知人夫婦のもとに養子に出した、ということだ。父の言葉はかなりオブラートに包んだ表現で、僕に気をつかっているのがわかった。当時の僕はそんなに迷惑な男だっただろうか。何をしていたんだろうか。父に聞くと、少し時間が欲しいと言われた。また明日聞いてみる事にしよう。”


“同年3月12日”

“今日は一平が最近明朗になったと、苧ヶ瀬さんからお褒めの言葉を頂いた。あとは仕事も見つけられたらと思っていたら、先日はぐらかした娘達の事を聞いてきた。今の一平なら理解できると考えて真相を話すと、私を責めるでもなく深く考え込んでいる様子だった。しばらくして当時自分が何をやっていたのか、妹たちにどんな迷惑をかけていたのかと聞いてきた。本当に当時悪い事をしている自覚がなくあれらの異常行動をとっていたのだとしたら、いくら叱ってもやめないわけだ。当時家に届いたハガキやら示談の証明、一平の代わりに簡易裁判所まで出廷した裁判の訴状の控えや判決文なども見せる時が来たようだ。覚悟せい、一平。”

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