第9話 ホスピスでの日々
ホスピス「アーク・ヴェイル」につくと、この施設内での私の部屋に案内された。
個室になっていて、トイレや洗面所、バスルームも付いている。ベッドもダブルサイズ以上はありそうだ。
そして大きな窓が一つあり、その窓からきれいな湖とその周りの森と花畑が見えた。
まるで広いホテルのなかの一室のようだ。
「気に入ったか?」
ゼノが低い声で問う。
「そうね。私にはもったいないかも。」
美しい死に場所だ。線路の上で前世を終えたり、クローゼットの中でいつか死のうとしていた人間には、十分すぎるくらいに。
「毎朝晩診察があるが、それ以外の時間はここでは好きに過ごしてもらって構わない。医者が24時間常駐しているから、辛いときはそこのボタンで呼ぶといい。」
「外出したいときは?」
「受付に申し出てくれれば好きにして良い。でも、絶対にその日のうちに帰ってくること。」
「分かった。」
「やけに聞き分けがいいな。」
「ここまで来て天邪鬼でいてもね。」
「最初からそうしていれば良いものを。」
皮肉めいたゼノの言葉も、今の私には全く響かなかった。
ここまで来てしまって、綺麗な部屋を見て、窓の外の景色をみたら、今まで張りつめていた荒々しかった私の心は凪いでしまった。それは、死ぬことを許された安堵であり、もう誰にも、そして自分自身にも嘘をついて気を張る必要がなくなったことへの、深い解放感だった。
そうして私のホスピス生活は始まった。
最初は施設内やその周辺の湖をゆっくりと散策した。一通り周辺の散策をし終えると、バスで数分のところにある町に行ってみたりした。転生してもうすぐ十年になろうとしているのに、この世界にこんなに目を向けたのは初めてだった。
そして、なぜかゼノは毎日私のところへ来た。
朝に来て朝食を食べる私を眺める日もあれば、夜に来て私が眠るまで本を読んでいる日もあった。休日は1日私のところにいて、湖のほとりを散歩するのも、町に出掛けるのも隣を歩いてきた。体調が悪い日はベッドで1日過ごして、話すこともできない日があったのにゼノはそれでも毎日きた。彼は、もはや私への個人的な執着を『職務』という仮面で隠そうともしなかった。私は追い払う体力もなかったので、そのまま好きにさせた。
そのうち自分の足で歩くのがしんどくなった。
そのときはゼノが車イスを押してくれたので楽だった。
ある日、ゼノが湖畔まで車椅子を押してくれた。
湖の穏やかな水面を眺めながら、ゼノが不意に問うた。
「―――君は、この世界に来て、良かったと思っているか?」
私は息を深く吸い、正直に、独白のように語った。
「前の世界でもずっと、誰も知らないところで一人静かに消えたかった。でも、願わくば、価値のある人生だったと言って死ねたらいいとは思ってた。この世界にきてもそれは結局変わらなかったんだよね。だから良かったのかは分からない。死んだら証明できるかも。」
ゼノは車椅子を押す手を止め、背後から静かに、しかし重く、言葉を落とした。
「……君が、『価値のある人生』を望むのなら、私がそれを認めよう。」
その一言に含まれた感情の深さに、私は何も言い返すことができなかった。
ある日、一緒に町に出たときに文房具屋さんに様々な便箋が売られていた。
どれも可愛らしくて見ていたときにゼノにまた問われた。
「君はなにかを遺していきたいと思わないのか?」
「あまりないかな。遺していかなきゃいけない人もいないし。」
「素直になったんじゃなかったか?」
「だからこそそう思う。こういうのって中々会えなかった人に、言いたいことを伝えるためにあると思うんだよね。でも、ゼノは毎日会えちゃってるから。」
そう言うと二人の間に自然と笑いが込み上げてきた。
こんな日がくるなんて思ってもいなかった。
その日の夜に吐血をしたのを皮切りに、体調がいい日ばかりでは無くなった。
それでもゼノは飽きずに私の側にいた。
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