君の箏を聞かせて

佐渡 寛臣

君の箏を聞かせて

 少年がいた。白のタンクトップに継ぎはぎの半ズボン、汚れた学生帽を被った少年が木の枝を拾って振りながら、帰り道を一人歩いていた。

 名をおうという。央は素行の悪い少年であった。やれ、喧嘩があれば我先へと飛び込んでいき、畑に野菜を見つければくすねて食べるような悪がきであった。


 央は小さな町で母と二人で暮らしていた。父と兄は戦争へ行き、生まれた土地から追いやられるように疎開して、この町へとやってきた。央は足元の石を蹴り飛ばし、唾を吐き、血のにじむ口元を拭った。今日も喧嘩をしてきたのである。


「みんなうるせぇんだよ」


 独り言ちる。この町は嫌いだった。細い背中を丸めて小さく身を隠すようにする母も、よそ者だと陰口で母を虐める連中も、何もかもが嫌いだった。

 父が居ればよかった。兄が居ればよかった。そう考える日もある。けれどお国のために戦う二人を頼ってはいけない。


 央は帰る気にもなれずに、ぶらぶらと歩いていると、ピンと糸を弾くような音色が響いた。重なるように音が広がり、連続する音の連続が琴声きんせいであることに気付いた頃には、足がいつの間にかそちらへと向いていた。

 

 竹の格子に絡まる生垣の向こうに、立派な庭が見えた。央は音に導かれるようにこっそりと覗き込むと、学生服にもんぺをはいた少女が一人、箏を弾いていた。白く細い、小さな手が弦を摘まむように弾いて、音を鳴らす。また少女は身体に対して大きな箏を、美しい姿勢と所作で、一音ずつ綺麗に音色を響かせていた。


 央は気が付けば、その姿に見入っていた。二つ結びの三つ編みが揺れる。少女が指を動かすたびに、美しい音色が響く。央の指が自然とそれを真似るように動く。遠くでよく見えないから、央は生垣に顔を突っ込むようにみていると、不意に顔をあげた少女と目が合った。


「――あら、お客さん」

「うわっ」


 驚いて央は尻もちを突く。それで驚いたのは少女の方で、目を開いて口元に手を当てた。


「いててて」


 尻を擦って立ち上がると、少女はくすくすと笑って、小さく手招きをした。


「――ねぇあなた。こっちへいらっしゃいな」


 央は少女に招かれるままに庭へと入り、傍へ行くと少女は縁側にまで出てきてにっこりと笑った。


「私は詩音。ねぇ、あなたお名前は?」

「央……雨照あまてる……央……です」


 央は何故か緊張していた。こんな綺麗なお嬢さんと話をするのが始めてだったからだろうか、思うように声が出ず、もごもごと口淀んだ。


「あめてる……?」


 詩音は聞き取れず思わず聞き返した。


「あまてるです」


 央がそうはっきりと言い直すと、詩音はどこか楽しそうににっこりと笑った。

 それが、央とお嬢さん――詩音との出会いだった。




 それから央は時折、詩音の庭先に忍び込むようになった。

 詩音はよく央に言った。


「央のように、野山を駆けまわってみたい。家から出られない生活はとても退屈だわ」

「詩音は身体が弱いからな。調子のいいときがあれば、抜け出して山にでも連れてってやるんだけどな」


 央の言葉に詩音は微笑む。優しい瞳だけれどそこに期待は込められず、どこか物憂げに思えて、央は一人しくじったな、と思った。

 連れ出してやれたらいいなと央は思う。央が縁側に座ると、詩音は立ち上がり、また箏を弾く。央は目を閉じて聞き入り、身を委ねる。


「ねぇ、央」


 詩音が箏を弾く指を止めて言った。


「戦争が終わったら、一緒に箏を習いましょう?」

「俺が? できないよ」

「いつも指運び、真似してるじゃない」


 央の頬がぽっと赤くなる。ふふふと詩音は目を細めて微笑む。


「ね。いつか君の箏を聞かせてよ」

「…………いつかな」


 目を逸らして央は鼻先を掻いた。詩音はにっこりと笑って手のひらをぐっと握り込んで小さく跳ねた。

 

「よしっ」


 やめろよ、と子どものようにはしゃぐ詩音を央は嗜めた。


 そんな逢瀬を重ねるうちに、央は次第に苛々する日が減っていった。喧嘩をする日もめっきりなくなり、背を丸める母を慰めることもできるようになっていった。

 誰かを思うとき、いつも詩音の箏の音が響いた。央の怒りの心が鎮められているような、そんな気がした。




「あんたなんか変わったねぇ。なんかええことあったんか?」


 母親がそんなことを口にした。雑炊を口に運ぶ手を止めた。


「なんでもなかよ。――なんやつっぱるのもあほらしなっただけや」


 ふふん、と母が笑う。央はどこかむず痒い視線を誤魔化すように雑炊をかき込む。


「どないしたらおとうちゃんらみたいに強くなれるんやろか」

「おとうちゃんはなぁ。そない強くはない人よ」


 母は懐かしむように遠くを見るような目で言った。

 


 

 国の戦況は次第に悪化し、同じくして詩音の病状も少しずつ悪くなっていった。


 生垣から庭を覗き込む。いつも箏を弾いていた部屋の襖が少しだけ開かれている。その隙間からは布団が見えて、白く細い手だけがちらりと見えた。

 詩音の細い手。咳き込むときに口に添えられていた、白い手。

 央は道端で摘んできた花を束にして、そっと庭へと忍び込み、いつも二人が話した縁側に置いて、立ち去った。




(――ほら、お屋敷のお嬢さん、結核だってね)

(サナトリウムに入ったって……まだ若いのに可哀想に)


 警報が鳴り響いていた。

 央は走っていた。焼夷弾が降り注ぎ、機銃掃射がすぐそばを撃ち抜いていく。央が畑へと飛び込み、身を屈める。町は燃え、爆弾があらゆるものを壊していく。


(はよぅいけ)


 耳に残る、母の声。倒壊した家屋の下敷きになった母を置いていきたくはなかった。近所のおやじに引き剥がされるように連れて行かれ、訳もわからず走るしかなかった。

 

 焼け焦げた匂いに、激しい爆発の音。央はただ身を隠して震えるしかなかった。


「坊主! 大丈夫か?」


 音が止んで、顔を上げると近所のおやじがいた。空を見上げるとあちらこちらから煙の筋が立ち上っていた。


「あ、待て!」


 止める言葉も聞かずに駆け出した。見慣れたはずの道は家々が燃え、地獄の様相であった。

 央は息を切らして走り抜き、たどり着いた住処は火に焼け落ち姿を無くしていた。



 母を見捨てて、母を焼いた帰り道。

 央は言葉なく道を歩いた。夕焼けに沈む砂利道、あの日木の棒を振って歩いたその道を進んで、央は詩音の屋敷を訪れていた。綺麗だった庭は荒れ、大きな穴が空いていた。

 二人で話した縁側は黒く焼け落ち、詩音のいた部屋には、箏だったものの残骸がかろうじて見つけられた。


 央はその場に座り込んでぎゅと膝を抱いて震えた。ぐずぐずと啜る鼻音だけが響いていた。


 悲しみに、怒りに身が震えた。央はただそこで怒りのままに叫ぶことしかできなかった。

 ――すべてを嫌って生きてきた代償か。

 それが母を奪い、詩音を奪うのか。もう何も残らぬのなら……。それならば。


 白い指が、弦を弾く音が響いた気がした。

 央がハッと視線向けた先、央がよく覗いていた生垣に1通の封筒が差し込まれていた。



 



 壮年の男が箏の手入れを終えて、窓から空を見上げて目を細める。窓際のデスクには一枚の手紙がある。



 

 ――約束を守れずにごめんなさい。

 手紙が最後の挨拶になるなんて、こんなにも寂しいことなのね。

 央にこの手紙が届けばいいけれど、届かなければいつかどうか遠い日に、天国のあなたに渡れば嬉しいかな。


 あの日、ひとりぼっちの私に出会ってくれてありがとう。

 

 もしいつかどこかで君が箏を弾いてくれるなら、私は必ず聞きに行くから。


 それまでは私の音色を思い出していて。

 央が覚えている限り、私はあなたと生きていけるから。

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