第14話 会いたいのは



音が軋む。

光が霞む。


『遺体は──』


(何……?)


何を言っているのか。

だって、真梨枝はそばにいたじゃないか。



目に見える景色が、ぐにゃぐにゃと歪んでいる気がした。


「雪見ちゃん!?」


口を抑えてしゃがみこんだ雪見に、誰かが声をかけている。


「おい、しっかりしろ!?」


──誰かが。


「近藤、保健医呼んでこい!!」


何もかも、耳に入っては素通りする。

なぜ? どうして? 頭を占めるのはそんな言葉ばかり。



『雪見、見て見て、可愛いでしょ?』


お気に入りのワンピースをヒラリとなびかせて、くるりと回った真梨枝。


『雪見ぃ……数学わかんない……』


問題集を広げて突っ伏した真梨枝。


(真梨枝……誰が?)


──本当に真梨枝?


だって。



『遺体は都内に住む女子中学生の桜木真梨枝(13)さんのものと確認が取れました』



再び脳裏に浮かんだ言葉は、雪見を暗闇に突き落とした。






台所で料理をしていると、親友が入ってきてクリームを指でひとすくい。そのまま口に入れた。


「んー! 秋は最高!!」


「こら、つまみ食い禁止」


「えへへ」


文句を言えばペロッと舌を出して、いたずらっぽく笑う。





部屋で座って本を読んでいれば、背後から覗き込むように親友がやってくる。


「また難しい本読んでるねぇ……」


後ろから文字を追っているようだが、その眉が段々寄せられていく。


「んー、まあ、ちゃんと学校行けてないからさ。一緒に読む?」


振り返って笑えば、親友は硬直する。


「え」


「ん?」





何気ない会話も思い出も、全て親友の顔が黒塗りになったように何も見えなかった。


足元が崩れるように奈落へと放り出されて、雪見は目を開けた──。






シミひとつない天井に白い蛍光灯。

ぼんやり眺めていると、声がかかる。


「あ、目が覚めた?」


ゆるゆると視線を向けると、スクールカウンセラーの本郷先生が濡れタオルを持って困ったように微笑んでいた。


「……先生」


「うん」


「……保健室?」


「そうよ。あなたを心配した探偵クラブの子達から頼まれてね」


ふと横を見れば、窓から夕暮れ時の赤い日差しが差し込んでいる。


「私……どうしてここに?」


呟くような、虚ろな問いに本郷先生は曖昧に微笑む。


「部室で倒れたの、覚えてない?」


「……」


覚えているともいないとも、言いたくなかった。


──思い出したくない。


ただただ、赤い陽の光を見つめて口を閉ざした。


本郷先生は黙って濡れタオルを雪見の目の上に載せる。それはほのかに暖かく、雪見のぐちゃぐちゃになった心と思考を解してくれた。


「……桜木真梨枝は……死んでたんですか?」


「そう聞いてるわ」


「桜木真梨枝って……誰なんですか?」


息を飲むような、躊躇うような気配のあと、本郷先生はやや硬い声で雪見の問いに答える。


「それは私にはわからない」


「……そうですか」


ただ淡々と、静かな返事が滑りでていく。


心をどこかに置き忘れたような、酷く現実味がないような感覚。

水に浮かんでいるような、溺れているような感覚。


「先生」


「何かしら?」


「私の友達は」


躊躇うように言葉を止め、逡巡したあと口を開く。


「ちゃんといましたよね……?」


息を飲むような気配のあと、本郷先生は静かに頷く。


「……ええ、ちゃんといたわよ」


「……」


(そっか、夢ではないんだね)


死んでいたというのも、隣にいたというのも、夢ではないのだ。


雪見はタオルの下でギュッときつく目を閉じ、そして起き上がった。

タオルがスルリと膝に落ちる。


「大丈夫?」


「……わかりません」


「ん、そっか」


本郷先生は、タオルを持つと静かに頷く。


「どうしたらいいか……わからない」


ポツリと小さく呟いた声が、静かな保健室に消えていく。


再び目に入ってきた夕陽は、酷く目に染みるものだった。

赤々とした色が、彼女と一緒に帰った道をと笑顔を思い出させる。


本郷先生はそんな雪見をじっと見たあと、そっと雪見の手を握った。


「探すしかないわ」


「え?」


「ちゃんと探して、見つけて、話を聞かないと」


大好きと笑っていた真梨枝。

……ではないかもしれない誰か。


「じゃないとあなた、先に進めない。大丈夫、みんなあなたの力になってくれる」


もちろん、私も。

そう言って本郷先生は優しく微笑んだ。




誰が。

どうして。

こんなことをしたのか。


(なぜ、私の親友だったの)


いつから別人だったのか。


──最初から?


握られた暖かい手を、雪見はぼんやりと見つめていた。


「あの子を……探します」


「ええ、それでいいと思う」


本郷先生の言葉に、雪見はこくりと頷いて目を閉じた。


瞼の裏に夕陽の赤い色が映る。

胸の痛みを押し殺すように、一度大きく息を吐いた。


「……帰ります」


「送ろうか?」


「いえ、大丈夫です」


心配そうに雪見を見つめる本郷先生の言葉を丁寧に断り、雪見は保健室をあとにした。






電車で最寄り駅まで移動する。

いつも二人で帰った道。一人は酷く違和感だった。


車窓から流れていく景色をぼんやりと見ながら、何かが思い出されそうになるたびにそれを見ないようにした。


赤い陽の光が、段々と薄闇に変わっていく。


(探さないと)


いつもは通らない繁華街に近い道を選ぶ。家までは少し遠回りだけど、真梨枝がどこかにいるかもしれない。


繁華街は段々とネオンが灯り、昼間とは違う表情を見せる。


(あっちの道ならいるかも)


ざわめく人々を避けながら、家に近づいては別の道を歩く。そうして遠くなり近くなりを繰り返して気づいた。


「……そっか、私……帰りたくないんだ」


現実を突きつけられたくなくて。

彼女を失うとともに、帰る場所も見失ってしまった気分だった。


気づいてしまったら足が止まる。

今、自分がどこにいるのかすらわからなくなった。


(怖い……)


帰ったら、彼女の不在を突きつけられる。

それが雪見は心底怖かった。


手足が冷たくなって、震えそうになる。

一歩も動けなくなって、雪見は俯いた。


「城井さん?」


聞き覚えのある声に、雪見はビクリと肩を震わせ顔を上げる。


(どうして……)


どうしてこんな時に限って。


「こんな所でどうしたの?」


私服になっていた凌は、困惑したように雪見を覗き込む。


雪見の頬を、熱いものが落ちていく。


「っ」


声を殺して泣き始めた雪見に、凌は戸惑いを見せたあと、誘導するように背を押した。


「……こっちおいで。大丈夫だから」


暖かな声に、涙が零れるのを止められなかった。






案内されたのはバーのようだった。

まだ開いていないのか中は無人で、薄明かりに照らされた店内はどこまでも静かだった。


「ここは知り合いの店だから、落ち着くまでいても平気だよ」


「……うん」


勝手知ったる店なのか、凌は冷蔵庫からレモン水を取り出してグラスに注ぐ。

そしてタオルを絞って持ってきてくれた。


「擦っちゃダメだよ」


彼はそっとタオルを雪見の目元に当てる。

ズキズキと頭まで痛み始めた雪見は、されるがままに目を閉じる。


「……どうしたのか聞いてもいい?」


音楽もない静かなバーで、穏やかな質問が雪見の耳に染みていく。


「帰るのが……」


「うん」


「帰るのが、怖くて」


「……」


音のない空間に、震える声が落ちていく。


「いないのが、怖いの……! もう全部わかんなくて、いないって突きつけられるのが……」


それは悲鳴に近い声だった。


「……」


「こっ、こわくて……!!」


「うん」


凌はそっと雪見を抱きしめ、ただ静かに頷いた。


泣きながら、支離滅裂な言葉で心の内を零していく。

凌はその都度頷いて、雪見が泣き止むまでそうしてくれていた。





どれくらいそうしていたかわからない。


「……」


全部吐き出したからか、痛みが引いてきたからか、雪見はだいぶ頭が動くようになった。


「……ごめん」


冷静さが戻り、恥ずかしさに顔を覆う。


「いいよー、別に」


そんな雪見にクスクスと笑いながら、凌は氷の溶けたレモン水を雪見に差し出す。


「……ありがと」


「どういたしまして」


受け取ったレモン水はまだ冷たく、喉にスっと落ちていく。

ささくれた心に染みるように、爽やかな香りが広がっていく。


雪見は深く息をついた。





「有瀬君はさ……今回の話をどう思う?」


「ん? 桜木さんのこと?」


「うん」


氷の溶けたレモン水をじっと見つめたまま、窺うように聞いた雪見に凌はうーんと軽く首を傾げた。


「まあ、普通に考えて、誰かが成りすましていたんだろうね」


「……」


ギュッとグラスを握ると、グラスの結露がツーっとその手に落ちていく。


「でもまあ、だからと言って何か変わるものでもないんじゃない?」


「え?」


「違うの?」


凌は雪見の反応に首を傾げる。


「え、と。偽物だったんだよ?」


「んー。でもさぁ、君にとっては本物でしょ?」


凌の言葉が理解できず、雪見は反応を返せなかった。

すると凌は少し眉を下げ、困ったように苦笑する。


「数年前に亡くなったってことなんだから、君と一緒に転校してきたのはあの桜木さんでしょ。仲良かったじゃない」


「……」


「君が今、会いたいのは誰?」


「会いたい……の、は」


「桜木真梨枝さん? それとも君の親友?」


「っ」


(私の親友……あの子は──)


いつも隣りで笑って、真っ直ぐに大好きだと言ってくれた友達は。


「今まで一緒にいた……真梨枝」


「でしょ?」


凌は優しく微笑み、頷く。


「……会いに行っても、いいのかな?」


「君のこと本当に大好きって感じに見えたよ。嘘には思えなかった。きっと、探してもらうのを待ってるんじゃない?」


「あは、何それ……」


思わず苦笑すると、凌は微笑みを深くした。


「もう夜だけど、探す? それとも帰る?」


「もう少し探したい」


「いいよ。俺も付き合うよ」


「別に一人でも」


「ここで俺だけ帰ったら、ものすごく薄情なやつじゃん」


凌が肩を落としたので、雪見は思わず笑ってしまった。


(探そう)


真梨枝は、頑固な子だけど脆いのだ。

ニュースを先に見て姿を消したのかもしれない。


(拒絶されると思ったのかも)


雪見が真梨枝の拒絶を恐れたように。


雪見は濡れタオルで目を抑え、そうして顔を上げた。





「ああ、そうそう。クラブの方から連絡あってね」


「え?」


バーカウンターの椅子に座り、泣き顔を落ち着かせるためにタオルで冷やしていた雪見は思わず顔を上げる。


「目撃情報を精査したらしい」


「誰か真梨枝を見たの!?」


ガタンと立ち上がると、隣りに座っていた凌は真面目な顔でスマホを開く。


「とりあえず落ち着いて。昨日、大塚の姿で走り回ったろ?」


「うん」


促されるままに、雪見は再び腰を下ろす。


「だから街中には、大塚の目撃情報が山のようにある。というか、同じ姿があっちにもこっちにもいたら、みんな印象に残って覚えたってわけだ」


「あ、それじゃ……」


真梨枝を見たというわけではないということか。


「だから精査したんだよ。四条先輩達に協力してもらって、昨日の全員の配置や動きを洗い直してもらってさ」


「……」


(そこまでやってくれたんだ……)


『みんな貴方の力になってくれる』


本郷先生の言葉が過ぎる。

雪見は両手にギュッと力を入れた。


「で、鎮守の森知ってる?」


「ええと? 確か神社裏の山だよね?」


「そうそう。山道もあってさ、パワースポットって有名な森」


「そこにいたの?」


「そっちに向かっていたという話があったらしい。それと──」


凌が見せたスマホのチャット画面に、画像が貼られている。


それは少し画質は悪いものの、ふわふわの髪をなびかせて、山道へ入る真梨枝の後ろ姿だった。


「これ、たぶん桜木さんだよね?」


「この写真は?」


「山道前にあるコンビニの防犯カメラ。先生が入手してくれたって」


申し訳なさそうに頭を下げた先生が思い出される。

あの時はちゃんとした返事もしていなかったのに。


雪見は自分が倒れている間にも、必死に手を打ってくれた仲間と先生達に感謝した。




***




夜になるとまだ風が冷たい。


二人は鎮守の森へと足早に移動していた。


「私の方には連絡きてないな……」


「城井さんは倒れてたから。負担をかけたくなかったんだと思うよ」


「うん」


そういう人達だよね、ともう素直に信じることができた。

凌も含めて、みんな優しい。




「あとこれは俺の方で当たってみたんだけどね」


「?」


「桜木朋華さん」


「あ」


すっかり忘れていた。真梨枝の姉なのだから、真っ先に事実確認するべきだったのに。


「彼女いわく、二年と少し前から妹の雰囲気が変わったと。今回の転校の件もそうだけど、妹に頼まれたから手続きはしたものの心配していたみたいだね」


「そうなんだ……」


真梨枝の対応に困惑しているようだった姉。

同好会に顔を出したのも、様子を見る口実だったのだろう。




「あ、ここだ」


凌が歩みを止めた場所は、確かに先程の写真の場所だった。


「黄色いテープ張られてるけど」


「あー……そういえば写真にもあるね」


画質が悪くて背景に溶け込んでいたけれど、写真にもちゃんと写っているようだ。


そしてそこまで話してやっと気がつく。


「あ。ここって、この前ゲートが見つかった場所じゃ……?」


「ああ、言われてみれば」


山道へと続く暗い道を見つめる。

さっき見た写真が頭をよぎる。


──山道へと向かう真梨枝。


(まさか……ゲートに……?)


「っ」


雪見は思わず息を飲む。

嫌な予感がした。


「城井さん!?」


迷わず山道に駆け込んだ雪見に、凌が慌てたように声を上げる。

けれど雪見の足は、縺れるように山道へと進むのだった──。

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