第11話 まよいの宿にとまるとき
Z市の駅に着く。津田さんが言っていた通り、ローカルバスで沢玉森村入口まで向かうことになった。
タクシーは? と聞いたけれど、津田さんは無言で僕を見つめるばかり。乗りたくないというのは充分に伝わってきた。もっとも、駅前のタクシー乗り場には、客待ちの車は一台もなくて、僕が乗りたくても無理だった。
変わった名前の目的地のバス停に行けるバスは一日三本しか出ないようだ。
本日二本目のそのバスが来るまで三十分ほどの空き時間ができた。その間、津田さんは僕を一人、バス待合室に置き去りにして、駅ビルの中の、小さいショッピングモールに出掛けていた。
バスが来る直前に戻ってきた津田さんの黒いリュックが膨らんでいる。手袋をした左手には何故か、赤いデイパックまで持っている。さっきは持ってなかったのに、わざわざ買ってきたのか。リュックを背負っているのに何でまたリュックを買うかな。
乗り込んだバスはがら空きだった。市街地から遠ざかる経路だからだろう。二人で一番奥の長い座席に座る。ひょいと赤いデイパックを渡される。チャックに結わえられた小鈴がちりちりと鳴る。
「キミの宿泊セットだ、とりあえず2泊分。……術はかけてある」
「え?」
思わず聞き返したのは、話の内容に頭が追いつかなかっただけではない。津田さんの声が聞き取り難かったのだ。列車にいた時よりも、更に声が悪くなっている気がする。
術をかけたって何だろうと思いながら、あえて訊かずに僕はお礼を言った。
「あ、そっか、僕の荷物……ありがとうございます。あの、本当に……いっぱいお金、」
「僕は院生だけど、仕事もしている」
生活に困らない収入があるのか。失礼だけど、びっくりした。
「ねぇ、喉、どうしちゃったんです? 風邪ですか?」
「……あの後、頭痛はすぐに良くなったか。会話が成立していないことは分かっている」
うん。とりあえず、津田さんの声がれはただの風邪ではないらしい。
なんか、言えない理由でもあるのかな。
「えっと、津田さんが出ていって、ドアが閉まって部屋が暗くなって、……頭痛と金縛りになって、ゴミ箱が揺れて津田さんの声がして……マグカップの包みが燃えました。そのあと、体は楽に」
「そうか、そこまで起きたか」
津田さんの声が固い。
「どういうことですか?」
それには答えず、津田さんは窓にもたれると帽子を顔に乗せて眠ってしまった。
気付けば乗客は僕達だけになっていた。誰も乗らないまま、バスは走る。
目的地は、3つ先のバス停か。あとどのくらいかかるかなとぼんやり考えていたら、
『お客さん方、どこまで行きます?』
バスの運転手がマイクで話しかけてきた。
僕達しか乗ってないからって、何やってるんだ。津田さんが起きちゃうじゃないか。それに、答えようにもここからではちょっと遠い。
僕が運転席の真後ろの席へと移動している間、運転手は僕が転ばないよう、バスの速度を落としてくれた。
『お兄ちゃん、まさかと思うけど、あの村入り口まで行くんですか』
「はい。えっと、さったのもりとかいう村まで。……どうして?」
「このところまた、村と山で神隠しが起きてるんですよ。都会の人は知らんでしょうけどねぇ。先週末に、大学生のグループが登って、山で一人居なくなり、下りてきた残り三人も村ん中で消えたし。一昨日には、どっかの大学だが大学院だかの先生とゼミ生さんってのが、五人だか六人だか、山ぁ入ったきり下りてこないんですわ。警察が探してるんですがねぇ」
それって。つまり……。
震えている僕の後ろに、津田さんがやって来た。やっぱり、話し声で目が覚めちゃったんだ。
「教授とゼミ生五人。まだ下山していないんですね」
津田さんが確認する。
「はぁ。少なくとも今の時点では」
目的のバス停が見える。バス停に待つ人は居ない。
「僕らは今日のうちに入山します。……もし、4日経っても下りなければ、◎◎大学G学部と同大学院の、渡会研究室に連絡をして下さい。僕のことは言わなくていい」
そして津田さんは、自分の大学院の名刺の裏にゼミの五人と教授と僕の氏名を書きつけ、表おもての自分の名前を念入りに塗り潰した。その名刺をバスの運転手に渡す。
津田さんは、右手首に数珠のようなものをかけていて、水晶だろうか、透明な石がきらきら光った。
小銭を運賃箱に入れて降りようとする津田さんを運転手が引き止める。
「お兄ちゃん、あんた、何もんです? 坊さん?」
「◎◎大学院、渡会研究室所属……個人的に依頼を受けて祓い屋を」
「お祓い⁉ じゃぁ、祟りとか神隠しとか、何とかできるかね?」
祓い屋って何?と考えている僕とは正反対の食いつきようだ。
この地域ではそういうのが身近なのかな。
運転手の勢いに、津田さんもたじろいで半歩退いている。
「手に負えないこともありますが、調べるくらいは」
「じゃぁ、じゃぁ、うちの妹、探してやって下さい‼ 頼んます。頼んます。……若いほうの学生さん達を案内して山に入ったきりなんです」
運転手の亀井さんが、津田さんに懇願した。
地元民まで行方知れずということが明らかになったら、この一連の事件は、曰く付きの山に部外者が勝手に入って迷っただけでは済まされない。
そんな酷い理由で、亀井さんの妹で隣村にすむ彼女のことは警察に全く扱ってもらえなかったという。そもそも警察でさえあの山には入りたがらず、先に起きた行方不明の学生達の件についても、形だけの捜索で既に打ち切られてしまったそうだ。
「心に留め置きます。妹さんのお名前は?」
ポケットから変わった紙質の小さなノートを取り出し、運転手の妹の名を筆ペンで記す。
続けて、ゼミ生五人と、先に行方知れずとなった誰かの弟の名前を。
「……なんとも、すごい面々だな」
ノートをしまいながら津田さんが呟いたけど、何がすごいのか、僕にはさっぱり分からなかった。
村の中は、田畑を貫いて道が続いている。そこから件の山までは本当に、この道を延々と歩くより他無いようだ。バスを降りてからの津田さんは一言も喋らない。村の人にも車にも全く遭遇せず、真夏の炎天下の道を歩き続けた。
一時間半ぐらい歩いただろうか。山の麓の雑木林に漸く到着した。
舗装もされていない、ただの踏み固められた土の道が、そのまま山へと続いている。
『登山道入り口』を示す矢印の案内板の下に小さな祠がある。
それをじっと見ただけで、手も合わせずに津田さんは通り過ぎた。
「津田さん、良いの?」
僕はちゃんとお参りしておこう。皆が見つかって、無事に帰れますように。
登山口を塞ぐように規制線が張られ、その傍らに警官が一人だけ立っている。
あの人に事情を話して通らせてもらおう。
「ちょっと、君ね、立ち入り禁止だよ、大学院の先生と学生が迷子なんだ」
迷いなく規制線の真ん前まで歩いてきた津田さんを警官が止める。
「あ、あの、僕たち、その教授の」
その後ろから僕は声をかけたけど、津田さんに遮られた。
「彼が僕に助けを求めているんだ――僕の父が」
え?と警官と僕が聞き返す。
津田さんは、警官をぐいっと僕の方へ押し退けると規制線をくぐり、そのまま駆け出した。すぐにその姿が木立に隠れ、見えなくなる。
「待ってよ津田さーーん‼」
僕もその後を追って走った。警察の方、本当にごめんなさい!
山に入ると、下草が疎らに生えた土の道が緩やかに上り坂となって奥へ続いていた。整備された登山道だ。津田さんの姿は既にどこにも見えない。
「津田さーん!」
何度も呼んだけれど、返事がない。
あぁ、大声を出しすぎて喉が渇いた。
デイパックの中には衣類の他に、水とスポーツドリンクのペットボトル、飴、それからクッキーなんかもたくさん入っている。
レモン飴を口に含んで、僕は山道を登り続けた。
――彼が僕に助けを求めているんだ
――僕の父が
津田さんの言葉が気にかかる。本当に?親子なの?
――俺は、あいつと同棲してたんだぜ
悪戯っぽく笑って佐倉教授は言ってたっけ。津田さんも表現に文句を言いこそすれ、一緒に住んでいた事実を否定しなかった。
何かにつけ、教授を“千萱ちがや”と名前で呼び捨てる津田さんに、“みっ君”と愛称で呼びかける佐倉教授。確かに、赤の他人ではなさそうだけど、親子にも思えない……。
それに祓い屋って何さ。不思議な呪文や柏手で何か色々やってのけちゃう人ってこと?
などと物思いに耽っていたら、いつの間にか、細く続く、ただの踏み固められた土の上を歩いていた。
おかしいな、ちゃんと木の杭とロープで手摺が張られた登山道を歩いていたはずなのに。斜面も急になってきた。
木の幹に手を添えて、道と思しき地面を探して、その上を進む。
――本当にこの道でいいのかな
そもそもこれは道だろうか。心配になってきた頃、道が二股に分かれた。
右手に伸びる道には、朽ちかけた木の階段がはっきり見える。きっと登山道の続きだ。階段の下には山の麓にあったのとよく似た祠が建っている。
そうだ、飴を1つお供えしておこう。もし津田さんが飴を見つけたら、僕がこっちの道へ行ったって分かるだろう。津田さんが僕の荷物に入れた飴だもの。
その時、
「道を外れてどこへ行く」
怒っているような怖い声がした。声のした方へ振り向くと、今来た道の先に、サングラスを掛けた津田さんが立っている。
この薄暗い森の中でサングラスをする意味が分からない。
「津田さん! 一人で先に行っちゃうなんてひどいや」
「その斜面を行くつもりか?」
また、会話が成立していない自覚はあるんだろうね?津田さん。
僕が肯くと、津田さんは少し迷う素振りを見せた。
サングラスをおもむろに外してリュックにしまう。
「分かった、キミに道案内を頼む」
「え?」
僕に先に道へ入るように言って、自分は立ち止まって振り返り、祠の手前に黄色のロープを架け渡している。
これでは後から来る人が、祠とその奥、この階段のある道に立ち入れないじゃないか。
「興味本位に部外者が立ち入るのを牽制する。……本当に用があれば、強行突破するさ。僕みたいに」
自嘲気味にそう言った津田さんの声はまだ少し嗄れている。
僕は階段と黒土の道をどんどん登った。
ムカデみたいな虫がたくさん這っていて、気味悪いけど、山の中だもの、仕方ないよね。
後ろを遅れてついて来る津田さんは、おっかなびっくり足場を探しているように見える。こんなに分かりやすい道なのにな。
やがて霧が出てきて、肌がしっとりと湿る。
道が緩やかに曲がった。
そこから先、右手は崖になっていて、手すり代わりのロープが張られている。さすがに疲れ、一足ごとに重くなる体を叱咤し階段を登る。
濃い霧に隠されて、もう道の先は見えない。ロープを探りながら進むしかない。
――この階段はどこへ続いているのだろう
「あれ?」
ロープの支柱の杭の上に何かある。
手にとって引き寄せてみれば、よく知った校章の描かれたペットボトル。
うちの大学オリジナル天然水だ。一本百円。
「あ、津田さ、……ちょ、……えぇぇ……」
足早に津田さんが近づいてきて、その飲み差しのペットボトルを僕から奪い取って、迷いなく口を付けた。
「うそ、飲んじゃだめでしょ」
「飲み口に触れただけだ。……唾液と残された気配でこれが誰のか分かる」
平然と変なこと言わないで……。
「あの祠に祀られたものが神であるとは限らない」
津田さんがぼそっと言った。
「この朽ちた階の誘う先に待つものが人に寛容とは限らない……ここは既に異界だ」
津田さんの言葉に、僕の背筋が寒くなる。
「君らは祠の主に挨拶をしてしまったので道を示されたが、異界と現世の境の道は、僕の目には映らなかった。……山の斜面に朽木が疎らに埋まっているだけだった」
今はこの霧の道を以て、完全に異界に入ったから問題ない。
そう言われても、ハイそうですかというわけにはいかないけれど、訊く勇気もなかった。
「僕が先に行く。遅れず離れずついてきなさい」
津田さんがきっぱり言って、僕を追い抜いて行く。
僕は手を伸ばし、津田さんのリュックに触れた。ぎゅっと、肩紐を握る。
「こうしておけば遅れないし離れません」
僕の言葉に津田さんが珍しく微笑んだ。そして僕に合わせて歩調を緩めてくれた。
これだけ近いのに、互いの姿もはっきりしないほどに濃くなった霧の中、僕らは黙々と登り続けた。霧の中、崖のどこかから時々、ざぁぁぁ、ごぅごぅと水の流れるような音が聞こえてくる。
「滝ですかねぇ、水が湧いてるんですね、この辺」
僕がペットボトルのスポドリを飲みながら何の気なしに言うと
「あれは飲み水には適さない」
津田さんはそう答えた。そのまま口数少なく山を登り続ける。
さらに行く先々で大学のペットボトルを見つけ、津田さんは全てに口を付けた。
「十郷のボトルが無い」
5本目の大学のボトルを呷って、津田さんがそう呟くのが聞こえた。もう何も突っ込まないでおこう。
突然、霧が晴れた。目と鼻の先に建物が現れる。二階建ての古い木造家屋だ。
「……これ、もしかしてガイドブックに載ってた旅館?」
びっくりして僕が聞くと、津田さんが頷いた。
「ここに泊まろう。さすがにそろそろ日が落ちる」
津田さんに、ぐいと背を押される。
え、僕に先に行けと?
恐る恐る、旅館の引き戸を開け、
「ごめんくださーい‼ 今晩泊まりたいんですが……」
僕は中へ叫んだ。がた、ごとん。物音がして、長い白髪を背に垂らした小柄なお婆さんが出てきた。
津田さんと僕を代わる代わる見て、軽く僕らを手招きした。そのまま、ぎしぎしと階段を上がっていく。
僕がその後に続くと、お婆さんは階段の正面の洗面台と右手の襖を指しただけで、何も言わずに僕の脇をするりと通り抜け、階下へ戻って行った。
津田さんは下で、丁寧にお辞儀をしてお婆さんを見送ってから、階段を登ってきた。示されたふすまを開け、部屋に入る。
「ここ、一人部屋?」
その和室は、広さはあるけれど、布団や座布団が一組しかない。
「全てキミが使え。少し内部を見てくる」
津田さんは荷物も降ろさずに部屋を出て行った。
掛け時計の秒針がカチコチ鳴る部屋で、一人、膝を抱えて津田さんの帰りを待つ。
さっき、リュックの中身を全部見てみた。
飲み物やお菓子のほかに、下着と靴下が2セット。スウェットと高校の体操着みたいなジャージの上下がそれぞれ1組。タオル数枚。あとは入浴セット。
なんだか修学旅行か林間学校にでも来ているみたいだ。
入浴セットや替えの衣類をリュックの外に出しておく。早くお風呂に入りたいな……。
教授から何か連絡が入っていやしないかと期待してスマホを開いたら、全然使っていないのに、充電が10%にまで減っていた。何で。昼には87%あったのに。
スマホの充電器、持ってない。
そういえば、部屋にコンセントもない。明かりは、行灯が一つ置いてあるきりだ。障子窓の向こうはだいぶ日が落ちて、部屋も薄暗い。何だかとても不安になってきた。
そこへ、からりと襖を開けて津田さんが帰ってきた。ほっとする。
「津田さぁん」
つい甘えた声で呼んでしまった。
「どうした」
卓袱台に片腕をおき、疲れたようにどっかりと座り込む津田さん。その向かいに僕も腰を下ろす。
「今は、ここは現世だ、安心していい。……霧に覆われたら異界に繋がる」
僕が口を開く前に津田さんは言い、ひら、と手を僕に向けた。
「何か言いたそうだ。今なら聞く余裕がある」
「ううん、……訊きたいこといっぱいありすぎて……」
分からないことがたくさんあるし、聴きたいことは山ほどある。でも、今はただ、津田さんと喋っていたい。
「答えられることなら」
僕の質問にもよるけど、答えてくれるつもりなのか。じゃぁ……
「髪型が違うのは何で。今は全然くるくるしてない」
僕の質問に、津田さんがきょとんとして、
「はい?」
と聞き返してきた。あんまりにとぼけた内容だからびっくりしたようだ。
津田さんもこんな顔するんだ。
マスクと眼鏡の無い、津田さんの素顔。細面で色白、少し彫りが深い。超絶美人だと思う。
眼鏡、真ん丸黒縁じゃなくて、もっと格好いいフレームにしたらいいのに。そのほうが絶対似合う。
「あぁ、髪の巻き具合のことか……これは“仕事用”。シャンプーで髪質が変わる。仕組みは知らない」
まだ声が辛そうだけど、僕の問いに答えてくれた。
「連絡先、教えてほしいです」
「……今は、教えられない。下山したら教授に聞いてくれ。メールも電話も……アプリも全部」
言いながら、津田さんは自分のリュックから電池式の充電器を取り出した。
「これはキミにあげよう。異界の霧が出ているときは通信機器の電源を切るように」
と言って、予備の電池も一緒にくれる。僕はスマホの電源を切って、充電器に繋いだ。
充電中の赤いランプがこんなに気持ちを和らげてくれるとは。
「下山したらって……、それは、教授とゼミの皆と一緒に下山できるってこと?」
「そのために僕が来た」
教授、ゼミ生5人。あと、二木さんの弟の幸虎くん。そして僕と津田さん。皆で帰れるって津田さんが断言するんだ。きっと大丈夫だ。
「祓い屋って何ですか」
「キミらの言う津田マジックが本業だ……祈祷師、呪術師、陰陽師……そういった類の職業だ」
うん。これ以上聴いても理解できそうにない。
ほかにも気になっていることがたくさんある。そちらを質問しよう。
「……佐倉教授は、本当にお父さんなんですか?」
「それは僕からは言えない。教授に訊いたらいい」
不意に、風もないのに僕のリュックの鈴が、りんと一つ鳴った。
ひっと僕は悲鳴を飲み込み、津田さんの腕にしがみついた。
怖すぎる。
「今のうちに体を清めておこう。洗面台の横に、トイレとシャワー室があった」
津田さんはしがみつく僕からひょいと腕を抜いて、リュックを手に出ていこうとする。
また、鈴が鳴る。
りん、りりん、りん。
……やだやだやだ、ここに一人でいるの嫌‼
僕は着替えのセットを引っ掴み、津田さんと一緒にシャワーに向かった。
津田さんがシャワーを僕に先に使えと譲ってくれたので、僕は急いで服を脱いで浴室に駆け込んだ。温いシャワーを浴びる。汗や泥で汚れた体が綺麗になって気持ち良い。
手早く体も髪も洗って、津田さんに交代する。腰にタオルを巻いただけの津田さんとすれ違いざま、僕は、津田さんの右腹の傷に思わず視線を向けてしまった。
不規則に体に刻まれた幾本もの太い傷痕。
津田さんも僕の視線に気づいたと思う。でも津田さんは特に何も言わずに浴室へ消えた。
一人で廊下や部屋で待つのは怖すぎるから、僕はそのまま脱衣所で津田さんが上がってくるのを待った。
十分くらい経って、摺りガラスの戸が開いた。津田さんが出てくる。湯上がりの津田さんなんて初めて見た。髪、そんなに長いの。真っ直ぐに下ろすと肩口まであるんだ。……シャンプーがすごくいい香り。
僕がぽかんとして見つめていると、渋面になった津田さんが黙ったまま脱衣所の戸口を指した。
あ、はい。失礼しました。
慌てて背を向けた僕の後ろで、がさごそと衣擦れの音がしている。
そりゃそうだ、僕が見ていたら、湯上りの津田さんは服を着れない。僕と津田さんは赤の他人だ。他人の裸なんて、いや、たとえ相手が家族や恋人だとしても、不躾にじろじろ見ていいものではない。そのくらいは
「もういいぞ」
後ろから声がかかる。今はもう服を着ているとはいえ、わざわざ振り返って見るのも、気恥ずかしい。そのまま脱衣所の戸を開けて廊下に出るなり、僕は何か踏んづけた。
「ぎゃっ」
よくよく見れば、リュックに付けてあった鈴だ。
「何でここに?」
怖がる僕をよそに、津田さんがそれを拾い上げ、目の前にぶら下げる。
振っても音がしない。
「ソノミニウツスモノスミヤカニタチキリセイジョウナルコエヲモテハライタマエ」
津田さんが何か唱える。
鈴に通された紐がぱっと燃え、ちりりんと軽やかな音が響いた。脱衣所のこもった熱い空気が冷えていく。
「さて、部屋に戻ろう」
リュックの肩紐を左肩に掛けて、津田さんはてくてくと歩いて行った。
待って、僕を置いていかないで!
ここは食事の出ない旅館だった。白湯とお茶しかない。昼にカツサンドを食べたとはいえ、僕はもう小腹が空いている。
クッキーやチョコで空腹を宥めようか。でも明日の食べ物をどうしよう。1日で帰れる保証はない。
僕が悶々としている間に津田さんは、自分の荷物から小さな保冷バッグといつもの水筒を持ってきて、黙々と卓袱台に並べている。
津田さんはシャワーの後からずっと、丸襟のTシャツに作務衣姿だ。普段からそんな寝間着なのかな。僕は津田さんが用意してくれたスウェットを着ている。少し厚手の生地だなと思ったけれど、山の夜は寒くて、この厚みがちょうどいい感じだ。
水筒の水を飲んでいた津田さんが、ふと僕を見た。
「キミも食べるか?」
保冷バッグから、きれいにラップで包まれたおにぎりを3つ出し、1つを僕の前に置く。
「いや、いい、いいです‼もらってばっかりなので‼」
勧められたおにぎりを断って、僕が飴を取り出そうとすると
「日持ちのするものはなるべく残しておけ。嫌でなければ、これを食べなさい」
津田さんは僕におにぎりを一個、押し付ける。……ありがたく頂戴しよう。
「はい……」
ラップを剥いて、ぱくりと一口食べる。ツナと山椒が混ぜ込まれた酢飯だった。旨い。
「もう半分、食べるか?」
津田さんがおにぎりを半分に割って、ラップごと僕にくれる。
こっちは押し麦入りのご飯に刻んだ梅干しが散らされている。どこから食べてもしっかり梅干しの酸味がきいていて美味しい。白いご飯が梅干しの淡い赤に彩られて、見た目にも綺麗だ。紅白で縁起も良さそうだ。
「これ、津田さんが作ったんですか?」
「あぁ。……ターミナル駅に向かう前に、家に帰ったんだ。荷物をまとめに」
それがなければ、あの列車で合流できなかっただろう。有り難い偶然だ。
津田さんは梅干しおにぎりを半分といつもの塩むすびを食べると、例の鈴に新しい紐を通して僕のリュックに結わえていた。
僕が物言いたげに見ていたら
「鳴っても気にするな」
と言い、あのブランケットを荷物から引っ張り出してさっさと横になった。
畳の上にブランケットを広げ、半分に折りたたんだ間に身を挟んでいる。……なんか柏餅みたい。
その晩、独りでに鳴る鈴が怖くて、僕は津田さんのブランケットに潜り込み、その度につまみ出された。
最終的に、津田さんを僕の布団に連れ込んで、朝まで一緒に居てもらった。
……絶対に佐倉教授には秘密だ。
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