第12話 その最奥に潜むもの
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僕は狭くて暗い場所でじっとしている。
目を瞑って、耳を両手で塞いで
それでも切れ切れに聞こえてくるのは、
人の悲鳴。怒鳴り声。
なんて言っているか聞き取れないぐらいに、
大きな声で大人たちが喚いている。
辺りが静まり返っても
僕はひたすらに息を殺している
まだ、動いちゃだめだ
敵は、そこにいるかも
恐怖と、警戒とで
静かに気を昂らせたまま
僕はそこに居た
ちりりん、と優しい鈴の音がして、顔を上げれば
目の前に細く差し込んだ光と、黒い影法師
「おいで、☓☓」
震える僕を、その人は呼んだ
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りぃんと鈴が鳴って、僕は目が覚めた。
僕は津田さんにぎゅっとくっついていて、津田さんが大変に渋い顔つきで僕を見ていた。
そうだ、神隠しの山の古い旅館で、僕は津田さんと一夜を過ごしたんだ。
変な夢を見たけれど、不思議と怖くはなかった。
「やっと、起きたか。……おはよう」
「おはようございます」
二人揃って起き出して、並んで洗面台で洗顔と歯磨きを済ませる。
そういえば、旅館についてからずっと、津田さんは眼鏡を外している。
「あぁ、視力に問題ない。見え過ぎて困る」
……見え過ぎるって何だろう。これも聞いたらダメな気がする。
部屋に戻り、津田さんが、てきぱきと着替えていく。
緩やかにウェーブのかかる髪を梳いて、項で括る。
全身黒い服を着て、左半身には、ボレロみたいな丈の短い革の上衣を身に着け、ベルトで留める。
右手には手甲と数珠、左手には手袋を嵌める。
他にも色々と小道具を身に帯びていく。
僕が津田さんの着替えをじっと見ていたら、
「この出で立ちを、依頼者以外に見られるのは初めてだ」
津田さんが言った。
これがその、祓い屋の仕事着? と聞けば
「ここまで装備することは滅多にない」
という返事。
……いや、何か無事で済まない事態に備えているみたいで怖いよ。
最後に、ばさりと黒い外套を羽織る。
中身がすっかり空いたリュックを背負い、
「さて、隠された人々を探しに行こう」
津田さんは言った。
旅館の裏手から出て、霧深い山中へと津田さんは歩いて行く。
足元は、登山道から完全に外れた獣道だ。
僕は、津田さんのリュックに結わえたロープを左手に巻いて進んでいる。
少し離れただけで、霧が立ち込めてきて、相手の姿が隠れてしまうのだ。
迷子にならないようにと結んだロープ。とても心強い。
朝早くから登り続けて、もう昼を過ぎている。
……この山、標高、そんなに高かったっけ? 未だ見つからないあのガイドブックには、初心者でも数時間で登れますって書いてあった気がする。
津田さんは、迷いなく登り続けているけど、どこに向かっているのだろう。
今、僕らはどこに居るのだろう。
獣道を過ぎ、見覚えのある崖の際の山道へと踏み込んでいく。
激しい水音がかなり近くから聴こえているのに、どこにも滝も川の流れも見当たらない。
喉が無性に渇く。
濃い霧は消えることがなく、ずっと身体が冷え続けて寒い。いつの間にか時計が壊れて、もう何時間歩いているのかも分からなくなった。
足元の道が、登りなのか下りなのか、その感覚もとうに失って、ただただ僕は、津田さんと繋がるロープに縋るように、歩き続けた……。
「隣においで」
少し先で津田さんが立ち止まり、僕を呼んだ。
気が付けば、すぐ目の前に小さな鳥居が建っていて、その先に津田さんは居るようだ。霧で姿は見えないけれど、張ったロープが、津田さんの居場所を教えてくれる。
鳥居の内側に足を踏み入れた途端。霧が晴れた。
しかし妙に暗い。見上げた空は、どす黒い雲に覆われていた。
ひと雨来そうな空模様。雷も落ちても不思議はないな、この天気。
なんて僕がぼんやり思っている間に、津田さんがロープを解き、リュックにしまう。
津田さんと僕を繋いでいたものがなくなり、急に心細くなる。
「あれ?」
木立の向こうに灯った篝火に、旅館によく似た建物がぼんやりと照らされている。
「異界側の旅館だ」
津田さんが答えた。暗い中で津田さんは何やらリュックをごそごそと漁っている。
その手元で、ぽっと灯りが点いた。四角い囲いの中で蝋燭の火が揺れて、きれいだ。
「僕らが宿泊したのは表側、現世の旅館。あそこは裏との境界が曖昧だから、直にこっちに行けないかと期待したが、守りを固めすぎて失敗した」
いや、津田さんの話、分からないよ。
「常に、現世と鏡のように隣り合わせに異界は存在する。異界に入れる明確な条件は分からない。今回は、霧が出ていることが条件の一つのようだけど……昨日も異界に入ったと思ったら、現世に引き戻された」
ごめんなさい、やっぱり理解できないです。
「ここは本来、現世の神域のはずなんだがな……歪みが生じている」
津田さんは話す間も、手持ち灯籠の灯り一つで、さくさく歩いている。
というより、灯籠が照らしているのは僕の足元で、津田さんは灯りの前を進んでいる。ここの地形を知っているような足取りだ。
旅館の裏手にたどり着く。
「……戸が、開かないな、これは」
扉を睨んでいた津田さんは、そう呟くと、外套の内ポケットから、黒い刃の懐剣を取り出した。
……何でそんな凶器持ってるんですか。
その剣を振るって躊躇いもなく扉を突き破り、むりやり開ける。
「ぎゃあああああ」
「うわぁぁ!?」
突然上がる悲鳴に僕も思わず叫んだ。
一人だけ落ち着いている津田さんが、なだめるように言った。
「十郷、僕だよ」
あ、ほんとだ。
「津田? 本当に津田なのか? どうしてここに?」
十郷さんは懐中電灯を手に体を起こし、津田さんの顔を見上げながら訊いてくる。
津田さんが肯く。
「千萱に呼ばれた」
「津田、来てくれてよかった、助けてくれ! 皆、あの部屋から出られないんだ、何とかして!」
困ったときの神頼みならぬ、津田さん頼みなのか、このゼミは。教授も院生も、何かと津田さんを呼びつける。それこそ、プロジェクターの操作からプリンターのインク切れまで、津田さんに助けを求めている。……今は、それどころじゃないけれど。
この旅館は、僕の居たところの建物とは内装が違った。天井の高い平屋で、2階はない。十郷さんの話では、奥に座敷のような大部屋があって、そこに、ゼミ生と教授がいるらしい。
「僕だけその部屋から出られるんだけど、この建物から外には行けなくて」
十郷さんが腕の切り傷を見せてくる。赤い傷口が痛々しい。
「若い男の人が来て、皆の腕を切って、血を取って行った……それで皆で部屋に逃げ込んで、そしたら、」
「出られなくなったわけか。採られたのは君ら5人の血か?」
「えっと、教授以外の。僕らと、幸虎くん、あと漆原さん。それから一人、女性が居る」
「分かった。だいたい見当がついた……その部屋に案内してくれ」
今のやり取りで何の見当がついたんだろう。津田さんは灯籠の火を吹き消してリュックにしまうと、土足のまま、屋内に上がった。僕もそれに倣って靴を履いたままにした。
玄関を過ぎ、板張りの長い廊下をゆっくり進む。廊下はところどころ朽ちて、穴も開いている。右手はざらついた砂地のような壁が続き、左手は壁はなく開放されていて、鬱蒼とした森がすぐそこまで迫っている。一度角を曲がると、左手の森はなくなり、代わりに、がらんとした平らな地面が広がっていた。
ざぁぁ、ざぁぁ、と何処からともなく水音が聴こえてきた。ぱらぱらと、小石が屋根に当たるような音もする。
「皆、津田が来たよ!」
大蛇と青海波の絵の描かれた襖を開けて、十郷さんが大声で言った。座敷の内は四隅の柱がぼんやりと光っている。その薄明かりのなか、ぐったりと座り込んでいた人たちが、十郷さんの声にはっと顔を上げる。
あぁ、本当に、ゼミの皆さんが居る。教授と、一度だけ会ったことのある幸虎くんも。あと、僕の知らない男性が一人と女性が一人。
「みっ君‼」
足をもつれさせながら教授が駆け寄ってくる。なのに津田さんは敷居の手前にじっと立ったままだ。
「千萱。遅くなってごめんなさい」
殊勝に詫びる津田さんに触れようと、佐倉教授が手を伸ばした。でも、その手は見えない壁に弾かれた。
「無理に出ようとしないで。結界の中に居て」
がっかりする教授にそっと話しかける津田さんの声は、しゃがれたままだけど、とても優しい響きを含んでいた。
「おまえ、その声どうしたんだ」
「遠隔で術を発動した時に潰しました」
「無理しやがって」
津田さんが少し笑った。
それから、あのノートを取り出して、例のページに名前を一つ書き加えた。
漆原壱矢
そのページを破り取って僕に渡しながら、
「キミ、座敷に入れるか試してくれ」
津田さんが言う。邪魔だからと津田さんのリュックも預かった。敷居を跨いだ時、一瞬、何かの抵抗を感じたけれど、僕は部屋に入ることができた。
今度は津田さんが僕を手招くので座敷を出ようとしたら
「出られない……‼」
慌てる僕に
「キミは皆と居てやってくれ」
なだめるような口調で言い、津田さんは優しく微笑んでくれた。
……津田さんの頼みだ、仕方ない。おとなしくこの座敷の中にいよう。
「それから、その紙に名のある人の血を一滴ずつ垂らしてくれ。自分の名のところに」
続けて津田さんが無茶な頼みをする。
紙に名のある人。それは、誰かに腕を切り付けられた人たちだった。彼らが顔を見合わせて、悩んでいる。
「それで上手くいく保証はない。でも、試す価値は大いにある」
津田さんが静かに告げる。
「分かった」
十郷さんが手始めに、腕の傷に爪を立てた。ぷつっと浮かぶ血の玉に、紙に書かれた自分の名を押し当てる。紙にじんわりと血が滲む。それを皮切りに皆が自分の名前に血を含ませた。
指定された全員の血のついた紙を、十郷さんが津田さんの手元へ持っていく。
十郷さんはまだ結界を出入りして、津田さんのところへ行けるようだ。羨ましい。
「十郷、君は念の為、此方で手に入れたモノを飲み食いするなよ。特に、水は」
津田さんに言われ、十郷さんが首をひねりつつも肯いた。十郷さんから懐中電灯を借り受けながら、
「ここがカガチダイラであること。100年前に生贄が捧げられたこと。全員の名前で一から十まで揃うこと。それらが君たちが神隠しにあった理由だろう」
津田さんは言う。
どういうことかいまいち分からないけど、なんか理由があってこういうことになったようだ。
ごうごうと鳴っていた滝の音が、ふっつりと途絶えた。
突然、かぁん、かぁんと半鐘の音が響き渡った。がたがたと地面が激しく揺れ、建物が森の方から薙ぎ倒されるように崩れていく。
津田さんは開けた方へと出て行き、姿が見えなくなる。
やがて、結界で守られた座敷を除いて全てが瓦解した。
辺りは真っ暗でしぃんと静まり返っている。
やがて、ぽつんと明かりが一つ付いた。津田さんだ。瓦礫の向こう、懐中電灯の光の中に立ち上がった津田さんは外套の埃を払い、髪を括り直している。しゃんと背筋を伸ばすその立ち姿は、さっきまでと、纏う雰囲気がまるで違う。
どこか神々しささえ覚える。……これが、術者としての津田さんなのか。
津田さんは、数珠を鳴らしながら数歩歩んだ。
「アシキキシントナリタモウタモノニコウ、ソノスガタアラワセトコウ」
唱える声は、ますます苦しそうだ。
突然、周囲の松明に次々と火が灯りはじめた。全部で十本の松明が円形に並び、煌々と、辺りが照らし出される。松明の炎に照らされた地面は、今の地震で僅かに隆起して、その盛り上がった部分を広く囲うように太い縄が張られていた。ちょっと土俵みたいにも見える。
津田さんは懐中電灯を僕らの方へ投げてよこし、自分は松明と縄で作られた二重円の内側に踏み入った。隆起のてっぺんにはもう一つ小さな塚のような盛り土があって、津田さんはその前に立ち止まり、数珠をじゃらじゃらと打ち鳴らしている。
「あーぁ。呼んでないのに、君のことは」
白い和装の男が、どこからともなく、ふっと現れて、津田さんを睨む。
その男を見て、教授もゼミ生の皆さんも色めき立った。
「津田、そいつだ、僕らの腕を切ったのは!」
十郷さんが叫ぶ。
でも津田さんはこちらを見もしない。
あのままじゃ、ツダが危ないね
十郷さんはその言葉に押されるように結界を出て行った。
「急げ、早くこっちにつれて来い!」と佐倉教授も十郷さんに声をかけている。
皆、津田さんをその男から守りたいんだ。
「津田、早く逃げろ!」
十郷さんが縄の輪の内側に踏み込み、津田さんに手を伸ばす。
「来るな」
津田さんが一言告げる。
「うるさい虫だね」
男が片手をさっと薙いだ。
それだけで土埃が舞い上がった。
津田さんが十郷さんの前に飛び出し、そのまま前のめりに崩れた。
「よくまぁ、今の風刃を受けて体が繋がってるね……」
感心したようにその男が言った。
十郷さんにしがみつくようにして立っている津田さんの、左胸を覆う丈の短いあの上着が裂けている。
その足元に、どす黒い水溜りができている。
違う。水じゃない。あの滴りは。
津田さんは十郷さんの胸倉をつかんで、ぐいぐいとこちらへ押しやってくる。結界の中に十郷さんを突き飛ばし、早口に何か唱えた。
跳ね起きた十郷さんが伸ばした指先は、壁に弾かれた。
「津田、すまない、津田……」
自分のしでかしたことに慄き、十郷さんは津田さんに謝り続けている。
十郷さんを突き動かしたのは、教授や皆と同じ思い。
津田さんをあの男から守りたい。
それだけだ。
だから誰も、津田さんに大怪我を負わせた十郷さんを責めなかった。
でも、その行動が裏目に出たことは紛れもない事実。
皆、ただただ苦い表情を浮かべて、胸元を押さえて蹲る津田さんを見つめている。
……皆の耳に聞こえたあの声は、いったい何だったんだ。誰の声でもない、あれは。
「そんな怪我した体で、そっちに居るな、とっとと安全な結界の中へ来い!」
佐倉教授は津田さんにそう呼びかけたけれど。
津田さんは僕らが見ている前で立ち上がり、和装の男がいる縄の円陣へ戻ってしまった。僕らの方を振り向きもせずに。
「彼らの名のもつ力を借りて、神に捧げられた生贄の女性を取り戻すつもりか」
津田さんがいつもの淡々とした声で、その白い和装の男に問いかける。
声も届く、姿もはっきり見えるところにいる津田さんを、僕らはただ見ていることしかできない。
僕らを助けようとしてくれている津田さんを。
「そうだよ。だって、僕の唯一を……愛する人を奪われた。取り返して何が悪い」
開き直る男に、津田さんが真っ向から立ちむかう。
「そのために他を生贄にするのか」
「一つの願いの前に、取り返したいもののほかに、何が大事だと? 君だって自分の大切なものを……知人を取り返そうとしているじゃないか。僕の願いを無視して」
じりじりと津田さんに近づきながら、その男が言う。
「ここにいるのが誰であろうと、反魂の術に使わせない。……誰にも禁術など行わせない」
津田さんは僕らを背に庇うように立ったまま、はっきりと言い放った。
そうか。僕らだから助けたいんじゃないんだ。
祓い屋の仕事だから、津田さんはここに来た。
それだけなんだ。
その男が、大仰に肩を竦めてみせる。
「そこにいるのが誰であっても、君は僕から奪うというのか? 大事な人をこの手に取り返したいという、僕の気持ちを踏み躙って。愛する人に再び会いたい、君は一度もその想いに駆られたことがないのか? 君にだって、どんな形でも帰ってきてほしい人があるだろう」
「いや」
耳の奥底にずんと重く届いた津田さんの答え。
決して大きな声ではないのに、はっきりと僕の耳にも届いた。その呟きにも近い答えが僕に圧し掛かる。
「あぁ、そうか、君には僕の気持ちなど理解できないんだ。愛のために全てを擲つ僕が、分からないんだ。彼らの犠牲の上に生き延び、そこに悠然と胡座をかいていられる君には!」
白い和装の人は高笑いで津田さんを指差す。
この男は何者なの。
さっきから津田さんを、心のない人みたいに言っている。
津田さんの右手が戦慄きながら、いつものように指を組む。
「ふふ、そうやって印を結ばないと気が乱れるんだね……痛いところを突かれたかな? そうだ、皆の前で暴露したら、君、どうなる?」
白い服の男が大声でいい、僕らを見やる。
一体何の話をしているんだ。
津田さん、何かを隠しているの。
僕らに暴露されたら困ることがあるの?
「良いね、その無表情。でも君の振る舞いも言葉も全て偽りだ……周りの人間に嘘をつき、無いものを有るように、有るものを無いように、見せかけている。あの日からずっと。……己の罪を、ひた隠しにして」
津田さんの心の奥に何があると言うのだ。
その過去に、何があったというんだ。
罪って、なんだよ。
津田さんが何をしたっていうんだ。
「カンジョウシタテマツル、カガミノタイラゲシナバリノサトニ、タダシク」
片手の指を解いて唱え始めた津田さんにうっそりと笑いながら男が、近付く。
「その喉で何を唱える。お前如きに神が応えるというのか」
「ァ、……」
声が出なくなった津田さんは、口をはくはくさせるばかり。男が、津田さんの喉にぴたりと人差し指を当てている。ただそれだけで喉を塞がれたようだ。
この男、とても強いし危ない奴だということは分かったけれど……、一体何者なの?
「君は、何も守れやしない。人から奪うことしかできない」
白い和装の男が、津田さんの首を片手で撫でさする。
その手首を津田さんの両手が掴み、引き剥がそうとする。
「その手で君が何をしたか、僕は知っている。君もこちら側の者だ」
男はにやりと嫌な笑みを浮かべて言った。
みっ君!みっ君を放せ、みっ君に触るな‼
佐倉教授が喚く。
「そんな愛称で呼ぶなんて、おかしいねぇ……貴方だって、こいつが憎いだろうに」
なおも津田さんを呼び続け、自分を怒鳴りつけてくる教授を見て、男は笑う。
「そうだ、貴方に還そう……タクマくんを」
佐倉教授が絶句した。
幾度か瞬きをして、か細い声で聞き返した。
「今、何て……」
「僕のあの人と、タクマくん。こいつ一人の命で、皆、還ってこられる。どうする? 貴方に選ばせてあげよう」
「タクが……?」
教授が聞き返した。
わずかに頬に血の色が差す。
期待に満ちた声。顔に生気が戻っている。
……教授? タクマさんって、いったい誰なの? 津田さんよりも大事な人なの?
声を封じられたままの津田さんが、佐倉さんを見た。じっといつもの無表情で。
佐倉さんは口を押さえ、目を逸らした。
「こいつを我が神に捧げれば、彼女の霊魂を呼び醒ませる」
男は嬉しそうに声を弾ませると、僕らの目の前で津田さんの胸に白い剣を突き立てた。
津田さん!
僕の叫びに男が笑う。
剣と男の服の白に赤い血が鮮やかに映える。こんなに悲しい紅白の取り合わせ、見たくなかった。
「これは僕がもらう……良い器だ」
倒れた津田さんを軽々と持ち上げた男は、円の中のあの小さな塚の前に、津田さんを横たえた。
白い和装の男は、徳利のような容れ物から黒ずんだ液体を塚に注ぎ、呪文を唱え始める。
今度は鉦の音が鳴り始め、塚が震えだした。
いやだ、この鉦の音。体をぞわぞわと舐められているような寒気がする。
津田さんが僕のリュックに結わえてくれたあの鈴はじっと押し黙ったままだ。今は、津田さんの鈴の音が聴きたいのに。いくら振っても鳴らなかった。
「ひとふたみよ……」
男の詠唱が進む中、皆の腕の傷が腫れ上がって、痛みに苦しみ始めた。特に、加賀美さんという女性は、金切り声を上げてのたうち回っている。首から下げた小さなメダルのようなペンダントが、ちゃらちゃら賑やかに鳴る。ちりんちりんと僕のリュックの鈴も震えだす。
そこへ、
「スベテアシキコトネゴウモノ、ワレモロトモニホロボサン、アシキワザワガミニウツシメッキャクセン。コノテンメイササグルカラニハコノチニマシマステンシンチギニカシコミカシコミモモウス、スベテアッキオンリョウノカゲミワザヲモテハラエタマイキヨメタマエトオツミオヤノカミゴショウランマシマセ」
津田さんの厳かな声が、僕らの居る座敷の内に染み渡った。座敷の四隅の柱が眩しいほどに輝き、皆の傷が治っていく。四つの柱が軋み、加賀美さんのペンダントが粉々になって壊れた。そして加賀美さんは、さっきまで苦しんでいたのが嘘みたいに、こてんと倒れて眠ってしまった。
男の詠唱が終わる前に、小さな塚が崩れた。辺りはふっと静まり返り、津田さんの声ももう聞こえない。
「なぜだ、なぜ失敗した‼ 貴様、何をした……!」
男が激昂して津田さんに詰め寄った。それを、身を起こした津田さんが数珠で払い除ける。数珠がその男の体に絡み、捕らえた。男は絶叫して身をよじる。
座敷の内に、わぁっと歓声が上がった。
津田さんが生きている。それにほっとした皆が結界の際に集まって、津田さんを口々に勝手気ままに応援する。
数珠で男を捕らえた津田さんは、呪文を繰り返し唱えている。数珠に絞められている男はますます苦しみ吼え続ける。
やがて津田さんが、
「たとえ、この手は何も生み出せぬとしても。奪うことしかできぬとしても、それでも」
淡々と言って片手を掲げた。
黒い刃の短刀を握るその手に、突如、真白の炎を纏った大きな剣が現れる。
「僕は、やらねばならないんだ」
その剣を見た佐倉さんの目が、驚愕に見開かれた。
「……今度こそ、君を、おくるよ。……深青」
津田さんが優しい声で言う。
その剣の炎が、白い和装の男をふわりと包み込む。男の姿がきらきら光る塵となり、消えていく。
「お前だって! 奪い返しただろう! 自分だけ、自分だけ、赦されると……!」
彼の最後の叫び声が嫌に耳についた。
「この
津田さんが彼にそう言葉を返すのが聴こえた。
小さな呟きのはずなのに。
どうしてか、はっきりと僕の頭の中に響いてきて、僕はぞくりとした。
津田さんはその場に片膝をつき、服の中から血に染まった紙片をいくつか引き出した。それらを口元に持っていくと、あの仄白い焔が生じた。その焔は円の内側を一舐めして、自然に消えてしまった。
津田さんはふらりと立ち上がった。そして、円の外、山際にひっそりと建ってかたかたと震えている祠の前に正座して、手を合わせた。
いくつかの道具を使い分けながら、長く何かを繰り返し唱えているようだ。
やがて、祠の周囲に張り巡らされた古びた荒縄がはらりと散り落ちた。それを見届け、津田さんは祠に向かって丁寧に一礼し、その前を離れた。
途端、津田さんは倒れ込んだ。もう立ち上がる力もないのか、こちらへずるずると、肘を使って半ば這うように進んでくる。
あの男が消えたのに結界はまだ残っていて、十郷さんも、僕も、誰も、その外へ出られない。
どうして。叶うことならここから出て、津田さんの傍へ駆け寄りたいのに。
ようやくここまで辿り着くと、津田さんは自分の血を指につけ、見えない壁に、星に似た印を書いた。
津田さんが結界にもたれて座り込み、僕らをぼんやりと見つめてくる。結界に触れたままの手。その指先がかすかに動いた。
「……みっ君」
佐倉さんが結界越しにその手を合わせる。佐倉さんは泣いていた。
「お前、二度も俺に息子を亡くさせる気か‼」
泣きながら、津田さんを怒鳴りつける。
「僕も、もう二度と……親を喪いたくない」
仄かに笑う津田さんの手が落ちる。
「アシキユメナラオイテユキ、オリナシツナグモノタドリ、タチカエレウツツノクニヘ……加賀美斎、漆原壱矢、三堀陸、八戸勇伍、四方田健、十郷龍玖、二木幸虎、二木鳴鶴、佐倉千萱、丹波雲斗……皆を、還し給えと祈る」
津田さんの優しい声に応えるように、あの小さな祠から一筋の光が天へ翔け昇る。それが黒雲を突き破るや、燦然と光が射しこんだ。目を開けていられないほどの眩しさのなか、僕らは空へ向かって落ちていくような感覚に襲われ
――気が付けば僕らは、あの旅館の一人部屋に折り重なっていた。
津田さんだけが居なかった。
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