Ⅱ 生

 大回りの螺旋らせん階段を最後まで下りきると、空気が滞留しているのか、死体と汚物の混ざった臭気が鼻をついた。辺りはしんとしていた。ところどころに浮かぶようにろうそくの火が揺れ、灯りと呼ぶにはあまりにも頼りない光を石壁の表面に塗りつけている。

 サンは広い廊下をゆっくりと歩いた。右手のランプが歩くたびに揺れ、左手に持った鍵の束がジャラジャラとぶつかる音だけが聞こえる。異国人だらけの雑用係の仲間の中に居づらく、違う持ち場に行けると聞いて飛びついてしまった。だが、初めて来る監獄の地下はやはり心細い。

 ギルコートス監獄はアリスクワイアで唯一の重罪人たちの収容所である。幽閉されるのはぎりぎりで死刑を免れた罪の重い者か、ウィンダリオンで暮らしている間に犯罪を重ねた者。一番大きな建物は囚人たちの棟で、五層からなり、下に行くほど罪の重い囚人が収容されている。それは、親から聞かされた地獄に似ているとサンは思った。

 この地下層は最下階にあたる。つまり、死の方がましだと噂されるギルコートス監獄の中でも最悪の場所だった。少なくとも今はそうだ。元々この地下一層だけだったのが、上に上にと増築を繰り返し今に至る。それだけ、囚人の数が増えているということだ。

 通路の両側にはアーチ型の入り口をもつ狭い独房が並んでいた。扉側には地上階の集団房と同じ縦の格子だけでなく、横にも格子がめぐらされ、網目のようになっている。

 腐臭が強くなった。鉄格子の下と石床の隙間から一匹のねずみが飛び出してきた。ねずみは壁伝いに走り、奥の暗闇へと消えていく。彼はねずみが出てきた房の奥を覗き込む。右奥の壁際には木の板でできた簡素な寝台があり、足に鎖をつけられた一人の男の体が横たわっていた。

 サンは持っていた鍵の束から牢屋の扉の鍵を探し、房の中に入った。そのまま寝台の前まで進み、男を見下ろす。

 脈を確かめるまでもない。はえがたかっている。サンは憐れみの目で遺体をひとしきり眺め、手を合わせると、冷たい体を引きずって牢を出た。

 隣の房の囚人も、うつ伏せで床に倒れ息絶えていた。向かいの牢は空だったが、その隣の囚人も寝台に丸まって死んでいた。獄中死を見ることは珍しくなかったが、このように一度に大量の死者が出るのはサンが知る限り初めてだった。間違いない。伝染病である。働き手が足りず、衛生管理がずさんになっているのだ。

 陰鬱な思いを振り切って、サンは廊下の端に次々と死体を積み上げた。

 彼らの罪状が何なのかをサンは知らされていない。汚れ仕事のために安い人手として連れてこられただけだからだ。一日一度、粗末な食事を運び、排泄用の桶を交換する。掃除をすることもある。話しかけてくる囚人もいるが、サンは囚人のほとんどが話すフリージス語が上手くないため、つい愛想笑いをして誤魔化してしまう。

 だが、彼らへの愛情がないわけではなかった。サンはフリージス王国に征服された遊牧民族出身の奴隷で、何もしていないのに自由を奪われた身。同じように、この中にも無実の者がいてもおかしくない。それに、罪を悔いている者もいるだろう。サンが見ている限りでは普通の人間にしか見えない彼らが、再び自由を得ることのないまま、劣悪な環境で死んでいくのを眺めているのは辛い。

 今までこの地下ではなく、一階を担当していてよかったとサンは思った。もしこの死者たちが顔見知りの人間だったら、もっと苦しかったに違いない。

 三十ほどの遺体が積み上がった頃、彼は廊下の先から人間の声のような音を聞いた。手を止め、声のする方へ慎重に歩く。看守や刑吏けいりではないだろうと思った。彼らは病の伝染を避け、地下には滅多に足を踏み入れないからだ。囚人の中に生存者がいる可能性がないわけではなかったが、これだけ死体を多く目にしていると気になって仕方がなかった。

 声は思っていたよりも遠かった。途中、再びねずみが走っていくのとすれ違う。先ほど見たものだろうか。

 奥の右側の独房から、おおい、と声が聞こえた。急いで駆け寄れば、四十手前くらいの汚れた男が手を振っている。

「腹が減って仕方がないんだ。何か持ってきてくれないか」

 闇の中、胡座あぐらをかいた男の友好的な笑顔がランプに照らされる。浅黒い肌とは対照的な白い歯を見せて男が言った。これほど元気な囚人がいるとは思わなかった。差し出された木の椀を取り、サンは何も言わず頷く。それを見て彼は「ありがたい」と言った。その言葉を最後まで聞かず、サンは廊下を来た方向と逆に走り出す。

 サンには彼がひどく憐れに思えた。どのくらい食べていないのだろうか。病気が蔓延まんえんしてから看守にも刑吏にも見捨てられ、餓え死にした者もいるのかもしれない。サンはもどかしさに唇を噛み締めた。彼は螺旋階段を上って厨房に行くと、杓子で麦粥がゆを掬い、椀に咎められない程度に多く盛り付けて地下への道を急いで引き返した。

 レオと名乗った生き残りの男は、サンが持ってきた粥を大喜びで平らげた。

「うまい。ありがとう、少年」

 監獄で調理される麦粥は囚人だけでなく奴隷も食べる。水分が多くほとんど味のしないものだったが、レオは精悍な顔に屈託のない笑みを浮かべて言った。

「久しぶりの飯だ。見ての通り、変な病が流行り出してからは飯をくれる人もいなくなって、このまま死ぬんだと思ってたんだ」

 返す言葉が見つからず、サンはそうですかと短く返事をした。

「病気、あなたにだけうつらなかったんですか」

「病気で死ぬのは嫌だからな」

 レオは平然と答える。そういうものなのだろうか、とサンは思ったが、口には出さなかった。

「まだ、持ってきますか」

 代わりにサンは空になった椀を指さして問うた。

「いいや」とレオは頭を振り、「その代わり」と付け加える。

「明日も明後日も、毎日来てくれ。俺はお前が気に入った」

 一回食事を運んだだけで、なぜ気に入られたのかは分からなかった。ただ、彼はきっと悪い人ではないのだと思った。


 アリスクワイアの夏は蒸し暑い。それゆえ、遺体が腐るのも早かった。もう一年以上ギルコートス監獄で働いているサンは死臭には慣れているが、不快なことには変わりがない。遺体を積み込んだ荷車を押し、彼は敷地の裏庭に出た。

 サンはあらかじめ掘った巨大な穴に遺体たちを投げ込んだ。土を被せ、臭いが漏れてこないことを確認すると、座り込んで心を整え、手を合わせる。

『命を助けられなくて、そして手荒な葬り方をしてごめんなさい。どうか、天国では安らかに眠ってください』

 サンは母国である大陸東部の言葉で祈りを捧げた。厳しい陽射しがむき出しの腕や脚をちくちくと痛めつけてくる。彼は立ち上がって詰所に戻る道すがら、何度も振り返って手を合わせつつ、あの人は絶対に死なせまいと心に誓った。



 *



 長い夏が終わり、アリスクワイアにも秋の気配が近づいた。その間にもサンは毎日のようにレオの元へ通い続けていた。地下で死体の処理にあたったことから、伝染病を恐れた看守たちからはあからさまに遠ざけられ、食事も寝所も別にされてしまっていたが、サンは全く寂しくなかった。

 仕事内容は相変わらず食事の運搬と排泄物の処理、そして掃除。一日一杯の粥はやはり大人の男には少ないようだった。日に日に痩せていくレオを見て、サンは自分の食事を分け与えようとしたこともあったが、レオは「子供から食べ物を取れるかよ」と笑って拒否するのだった。

 サンの属するタバナ民族は傾向として体が小さく、西部の人に比べて幼く見えると言われている。だがサンはもう十七だ。子供と言われるのは少し癪だったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 ある蒸し暑い夕方、レオは自分がギルコートスに閉じ込められることになった経緯を話してくれた。

「あんたが生まれた年に、フリージス王国の教皇家に対して反乱があったのは知っているか?」

 フリージスは王国と名前がついているが、王家の権力はあってないようなもので、代わりに教皇が実質的に政権を握っていたという話だ。時の教皇ラウール六世は戴冠たいかん後、異邦人や異教徒への弾圧をますます強めたせいで、サンの両親のようなタバナ民族やそれ以外の外国人は排斥される一方だった。

「俺が所属していた王家直属の騎士団にグレニアっていう英雄がいてな、俺はそいつの戦友だったんだ。教皇が王より善い政治をしてくれるのなら、王さまも俺たちも仕方なく従うつもりだったんだが、教皇のやり方は聖典を無視したひどいものだった。だから俺たちは神の名にかけて教皇を倒すことにした。旗上げをして反乱軍を主導したのがグレニアで、俺はその補助と前線での指揮を執ったんだ」

 だが、結局反乱は鎮圧されてしまった。ラウール六世は今でも王国で政権の座に就いていると、サンは聞いたことがある。

「グレニアの奴は無謀な突撃をして戦死した。俺はすんでのところで生き延びて、その結果が島流しさ。途中で船が難破して大体の奴は死んだが、俺は運がいいのか悪いのかここでも生き残った」

 この地獄で生きるくらいなら死んだ方がよかった、と吐き捨てるのを、サンは必死で聞いていないふりをした。


 数日後、レオの様子が明らかに変わっていることにサンはようやく気づいた。頬はけ、初めて会った時とは見違えるほどに笑顔がぎこちなくなっている。座るのをやめて横になる頻度が増え、声にも何だか覇気がない。

 サンは看守や他の奴隷たちの目を盗んで、こっそり監獄の敷地を抜け出し、平原に出るようになった。少しでも滋養のつく効果のある薬草を摘み、手の届く範囲で木の実を採取した。監獄を抜け出しているのがばれないよう、調理は深夜に厨房に忍び込むしかない。料理などしたことがないサンだったが、寝る間も惜しんで作った食事を持っていくと、レオは大袈裟に喜んだ。だが彼の努力も虚しく、レオは日ごとに弱っていった。

 会うたびにレオは苦しそうだった。手足の痙攣や頭痛を訴えるようになり、会話の合間に見せる朗らかな笑みも冗談も減った。

「ああ、早く死ねねぇかな」

 おどけているとも本気ともつかない口調でレオは言った。死ぬことは怖いが生きていても希望はないのだと、ここ最近は口癖のように繰り返している。

 サンは半分も粥の残った椀を握りしめ、思い切って言った。

「僕も死にたいです」

 向こうを向いて横たわっていたレオが、意外そうにサンを見上げる。

「だから、一緒に死にませんか」

 衝動的に口をついた言葉だったが、後悔は湧かない。本心だ。レオは格子越しにサンの目を見つめたまましばらく固まっていたが、やがて咳き込むような笑い声をあげた。

「そんなことをしたらお前が罪に問われるぜ。やめときな」

 掠れた声で言いながらごろんと仰向けに転がり、サンから目を離して天井を見上げる。骨と皮ばかりになった彼の顔には、しかし初めて会った日を思わせる笑顔が浮かんでいて、今度はサンがレオを見つめてしまう番だった。

「生きているっていうのはいいもんよ。仕事とか、恋とかさ。せっかく自由の身なんだから、もっと生きることを楽しんでみてもいいんじゃねぇかな」

 サンは一瞬押し黙った。さっきと言っていることが違う。

「僕、自由ですか」

「自由だよ。俺からしたらな」

 確かにレオからしたらそうかもしれない。だが、ちっとも自由なんかじゃないとサンは内心で反発した。仕事はきついし、勝手に外に出てはいけないし、レオがいなければ全くの孤独だし、恋は――まだよく分からない。

 レオは震える体を起こしてサンに向き直った。

「今までありがとう。明日から俺のところに来るのはやめな。仕事が嫌だったらバックレちまってもいいし、その先の人生はお前が選ぶんだ」

 格子の隙間から痩せ細った毛深い腕を伸ばし、サンの背中を叩く。全く力が入っていないことに気づいた瞬間、目の奥がかっと熱くなった。

 勝手なことを言わないでください、とサンは叫びそうになった。その衝動を何とか喉の奥に押し込み、彼はぶっきらぼうに告げる。

「明日も来ます」

 レオの返事を待たず、サンは全速力で駆け出した。



 *



「よう少年。来たのか」

 レオは怒るかと思ったが、何事もなかったかのように迎えてくれた。サンは鍵を開けて房の中に入る。震える両手で、サンは持ってきた食事を差し出す。レオは軽く礼を言い、骨の浮いた手がいつも通りにそれを受け取った。

 サンはひどく緊張していた。自分の心臓の音が聞こえてきた。外から胸を締め上げられているみたいで、呼吸もままならないほどに苦しくて仕方がない。

「なぁ、一つ頼みがあるんだが」

 椀に口をつけないまま、ひどく掠れた声でレオが言った。

「アンジェリカという娘がいるんだ」

 レオには獄中に妻がいたが、彼女はずいぶん前に亡くなった。一人娘であるアンジェリカも監獄のどこかで保護されているはずなのだが、面会することすら叶わず、ずっと気を揉んでいたのだという。

「この島には悪い男が多い。だが、お前はいい男だ。もしもお前がいいなら、娘を守ってやってくれ」

 それだけ言って、レオは粥を煽った。なぜ今そんな遺言のようなことを僕に言うのだろうか。怯えるサンをよそに、レオは唇が震えるせいでこぼれた粥を、長さの足りない袖で拭った。

「あの、レオさん、ごめんなさい。僕……!」

「どうした?」

 鈍い金属音を立て、石床に何かが落ちた。サンが持っていたナイフだ。驚いてサンとナイフを交互に見つめるレオに、サンは涙を流しながら謝罪を繰り返した。

「僕はあなたと一緒に死のうとしました。でもできないんです。僕はやっぱり死ぬのが怖かった」

「そうか」

 レオは小さく呟き、しばしのためらいの後、落ちているナイフをゆっくりと手に取った。サンの服の肩を掴んで引き寄せ、ナイフの先端を顎先に当てる。

「だが残念だったな。俺たち騎士に二言はなしなんだ」

 レオは含み笑いを浮かべる。サンは驚きのあまり声が出せず、彼の目を呆然と眺めた。

「警備の少ない出口を教えろ。でないとその喉をかき切るぞ」

 凄みのある声で言い、サンを突き飛ばす。サンは思い切り尻餅をついた。開きかけになっている格子戸を蹴飛ばしたレオは、廊下に回り込んで立ち、サンを見下ろす。その目にはぞっとするほど冷酷な色が浮かんでいた。

「人を信じる純粋さは強みだが、そればかりじゃ死ぬぜ。ああ、とんだ僥倖ぎょうこうだ」

 サンは回らない頭を必死で冷静にする。この人は、この人はいったい何をしようとしているのだろうか。

「来い。道案内をしろ」

 レオは人が変わったように冷たく言い放ったが、不思議と恐怖はかき消えていた。ただ、わくわくした。どこに行くのか、何をするのかを見届けたいと思った。

「分かりました」

 サンは立ち上がる。ここから遠い方の廊下の突き当たりには非常用の隠し階段がある。それを上がれば、そのまま裏の扉から外に出られたはずだ。

 暗い廊下を先導して走りながら、周囲の様子を伺う。独房にはまだ囚人の姿はなかった。だが、もうじきに何十人もが新しく送り込まれてくるだろう。

「この地下牢にいた奴らは俺が呪い殺したのさ」

 レオは言った。サンは駆けながら振り返る。レオがなぜそんなことを言うのか、彼には分からなかった。

「あれは呪いではないはずです。不衛生が招いた伝染病でしょう」

「発端はそうだが、死に至らせたのは俺だ。呪いと病が組み合わされば、上手く行けば数日で逝く」

「どうしてそんなことを」

 サンの感情は悲しみとも憤りともつかなかった。嘘だとしたら下手すぎると思った。サンはレオのことを信頼しているが、今の彼の話を真に受けるほど子供ではない。

 突き当たりの壁は石を組んで均したものだった。その中の一つが引き抜けるようになっている。サンは手探りでその石を見つけ、隙間に指をかけて引いた。石が抜け、人が通れるほどの穴ができる。

 サンの心臓は激しく鳴っていた。

 今、僕は脱獄の手伝いをしている。刑吏の誰かに知れたら手厳しい罰を受けることになるかもしれない。それでも、レオのために何かをしたい気持ちが膨れ上がって、突き動かされるような感覚だった。

 穴を慎重にくぐり抜け、サンはその先の狭い空間に出た。そこは壁伝いに走る暗い廊下になっていて、奥に階段が見える。

「馬鹿なガキが世話係で助かったよ。最期に外の光を見られるんだからな」

 言いながらレオはサンを追い越し、非常階段を駆け上がる。サンは耳を塞ぎ、ひたすらにその背に追い縋る。監獄は慢性的に人手が足りていない。午前と午後の警備が入れ替わる今なら、本当に脱出できてしまいそうだ。

 裏口の引き戸の周辺には人影がなかった。すぐ左手に藁葺わらぶきの厩舎きゅうしゃがあること以外は何もない。崖の淵には高い鉄柵があり、その向こうの遠くにどこまでも伸びる水平線が見える。慎重に周囲を伺うサンをよそに、レオは大胆にも柵に向かって歩き出した。どこまで行くつもりなのだろう。

 柵はレオの身長の三倍はある。病魔に冒された身体で乗り越えるのはいくら何でも無理に思えた。だがレオは迷わない。厩舎の傍に置かれた木箱を踏み台にして跳躍し、屋根によじ登った。サンが続こうと木箱に足をかけた時、厩舎から人が出てきた。レオと同じくらいの歳の刑吏だ。サンが思わず硬直していると、レオがサンの腕を掴み、強引に屋根の上へ引き上げる。

「おーい、ポンコツ刑吏ども! 教皇様に大恥かかせた史上最悪の罪人に脱獄されたくなければ、ここまで来いよ」

「ちょっと、レオさん!?」

 腹ばいになって下を覗き込み、大音声で挑発を始めるレオに、サンはうろたえた。厩舎を出てきた刑吏が急いだ様子で監獄に駆け込んでいくのが見えた。

「降りるぞ」

「え」

 レオは手の脂汗と張り付いた藁を雑に服で拭うと、助走をつけて屋根から鉄柵に飛びつき、よじ登って向こう側に飛び降りた。サンも勇気を出して跳び柵を掴んだが、腕力が足りず登れない。試しに柵の隙間へ身体をねじ込んでみると、苦労して通り抜けることができた。

 久々に監獄の外の空気を吸ったサンは、晴れやかな気持ちで雄大な景色を眺める。崖の下には白い浜があり、その奥に海が広がっていた。沖では黒々とした枯れ樹の森が海面から突き出している。その先に目を凝らせば、弓なりになった水平線が見える。

 最後に海を見たのは、一年前、アリスクワイアに来た時だった。どうしようもなくひとりぼっちで、タバナの高原から見ていた広い海も、その時だけは自分を故郷に一生帰れなくするための巨大な檻のように見えた。

 だが、今は違う。隣にレオがいる。その横顔の向こうを名前も知らない鳥が一直線に飛んでいく。あの鳥みたいにどこまでも飛んでいけるような気がした。

「そうか、これが外か」

 レオは呟き、高笑いをあげた。しかし、無理をしているのだろうとサンにはすぐに分かった。意地の悪い笑いの合間に喘鳴ぜんめいのような音が鳴っている。

 サンはレオの死期が近いことを改めて悟る。それ以前に、レオは彼自身がもはや長くないことを悟っていたのだ。

「用済みだ。早く行け」

 レオは冷たい調子に戻り、サンの胸元にナイフを突きつけて怒鳴った。ナイフの先が激しく震えていた。

 サンは冷静にと自分に言い聞かせ、地面を踏ん張り、奥歯を噛み締めた。

 息が荒い。本当に苦しそうだ。サンは思う。最期の時である今、脱獄などをしても意味がないはずだった。

 そうだ。分かっていた。彼は僕を悲しませないようにするため、僕を自由にするため、わざと悪者になってくれたのだ。僕はそれが分からないほど子供ではない。

「お前の顔を見ていると苛々するんだ。消えろ」

 レオは凄みのある剣幕で低く怒鳴った。その額には一目で分かるほどの汗が滲んでいる。

「見くびらないでください!」

 堪えきれずサンは叫んだ。

「僕が悲しまないために悪役になってくれていることくらい、分かります。だからあなたがこのまま死んだって、悪者を演じたまま死んだって、僕の辛い気持ちは変わりません。きっと、あなたがいなくなったら僕は死にたくて消えたくて仕方なくなります。なら、最期くらいあなたらしいあなたで僕に接してください。いつもの優しいあなたでいてください」

 水を打ったような沈黙が訪れた。サンの荒い呼吸だけが聞こえる。潮の香りのする海上の強い風が、二人のいる崖の上にも猛烈に吹きつける。しばらくの後にサンを睨みつけていたレオの目が見開かれ、突きつけられたナイフが徐々に下ろされた。

「……、子供扱いしてすまなかったな」

 風にかき消されそうな言葉がレオの口から漏れる。力なく微笑んだまま、彼はその場に座り込んだ。呼吸が落ち着いたが、強風に紛れ、苦しそうな喘鳴はまだ聞こえている。

「実は、もうかなり限界が来ているんだ。痛いほどの痺れだ。息をしようにも、空気が少ししか通らない」

 浅黒かった顔には血色がなくなり、いつの間に吐いたのだろう、口の周りには血がこびり付いていた。呼吸がどんどん早くなり、そのたびに胸が激しく上下する。

 サンの目から、涙が溢れていた。死ぬことを確信したような台詞が彼の心をかきむしった。どうすれば助けられるのか、どうすれば楽にしてあげられるのか、もうそれしか考えることができない。

「サン、俺を見るな。今すぐに、逃げろ」

 レオは草の上に横たえられていたナイフを持ち上げたが、すぐに取り落としてしまった。もう一度ナイフを掴むと、自らの首に突き刺した。だが、脂汗に濡れた蒼白な手は震え、刃が少ししか入らない。

 サンは慟哭どうこくしながら、何度も何度もやめてと叫んだ。だが強く吹き荒れる潮風のせいで声に出ているのかどうかも分からない。

 どうすればいい。何ができる。そこで彼は思いついた。

 僕が刺せば、さらなる苦しみが加わるだけかもしれない。それでも、上手くいけば、上手くやれば、苦しさから解放してあげられる。

 サンはレオの懐に飛び込むと、震える手からナイフを奪い取り、引き抜いて、思い切り首筋に突き立てる。ほとばしる鮮血が、視界をどす黒く染めた。

 あなたのためならば、自分はどうなっても構わなかった。

 あなたのためならば、どんなことでもできた。

 亡霊になれますように。幸せになれますように。

 冷たくなった身体を抱き、サンは必死に祈り、願った。

 賞賛を送りたかった。そして、心臓を衝いて破るかのごとき強烈な憧れを感じた。レオは最期の最期に、大切なもののために命を燃やし尽くした。

 生きるとはあのような姿をいうのだ。

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