Ⅰ 祈り

 エルドは十七歳で従騎士として初めて戦場に赴いた。彼が奉仕する主人グレニア・バルトロンスはフリージスの国王に忠誠を誓う騎士であり英雄だった。その主人が王政をないがしろにする教皇に反発し、騎士たちと連帯して内乱を起こしたのだ。

 当時の国王は欲深い教皇に実質的な政権を奪われて没落しつつあり、先を憂いて職を辞する者も多い中、彼はあくまで忠義を貫いていた。神の教えに従い弱者や異邦人を受け入れていた国王とは対照的に、教皇は自らが信仰するはずの神の律法を歪めて解釈し、彼らを徹底的に排除する政策へと舵を切った。反感をもったグレニアは大胆にもそんな教皇を打ち倒すため、王に罪を着せぬべく職を辞してから教皇に反乱を起こしたが、教皇の圧倒的な防衛体制に阻まれ戦況は芳しくなかった。矢の雨の中、勇敢に突撃を繰り返していた騎士団は次第に壊滅し、陣形が乱れてきた。

 巨大な城壁に真正面から挑む本隊を率いるのはグレニアだ。馬上から槍を振り上げ、兵たちを鼓舞する。翻る軍旗には鳥の羽があしらわれた紋章。グレニアは槍の穂先と小盾を頭上で激しく打ち鳴らし、傷つき疲れ切った仲間たちを激励した。

「我らは神の戦士!」

 英雄の声は騒がしい戦場によく響き渡った。数十人が呼応するように一斉に雄叫びをあげる。

 エルドはグレニアの背中を追い、降り注ぐ矢を槍でぎ払いつつ駆けた。恐怖と興奮に心臓が早鐘を打つ。死ぬわけにはいかなかった。生きて帰れば夢である叙任じょにん式が待っている。正式に騎士になれる。尊敬してやまなかった主人の姿に一歩近づくことができる。

 斜め前から飛んできたやじりが当たり、グレニアの馬が倒れた。彼はくらから飛び降りながら長剣を抜いて、ここぞとばかりに打ちかかる敵に応戦する。

 突風が吹き荒れ、主人の姿が砂塵さじんの向こうに消えた。彼だけではない。敵も、味方も、馬も何一つ見えなくなる。

「エルド、来い!」

 前方からグレニアの叫ぶ声がした。エルドは声のする方へ飛び出そうとして、ほんの一瞬踏みとどまった。

 剣や槍が荒々しくぶつかる音がいまだに四方から聞こえる。無闇に飛び出せば巻き込まれるかもしれない。死ぬかもしれない。

 それは生への執着による、判断の遅れだった。

 エルドの腕が強く引かれた。前のめりに転びそうになるエルドと入れ替わりにグレニアは身体を後ろへ引き、エルドを目掛けて降ってきた斬撃を肩当てで受けようとした。

 素早く受け身をとって槍の柄で防戦するエルドは、噴き出す血しぶきを横目で捉える。怒涛のように込み上げる後悔に絶叫しそうになった。

「主人!」

 グレニアは兜の下に苦痛の表情を浮かべ、しかしすぐに立ち上がった。剣を短く持ち、低い構えをとる。士気を上げた敵の兵団が一斉に彼へと襲いかかった。

 だが、グレニアは傷を受けてもなお強かった。鎧の隙間を正確に射抜く剣技。針ほどの隙も見逃さない冷静さ。彼の剣の一振り一突きが、研ぎ澄まされるように閃いて、濃い敗色の霧を晴らしていく。エルドはれそうになる思いを打ち消し、一心不乱に槍を振るった。今度は怯まない。主人のように戦いたい。その衝動だけが彼を突き動かしていた。

 どれくらい戦っていただろう。遥か前方から鐘が鳴り、それを合図に敵は撤退していった。残ったのは二十名ほどの兵だった。

「勝てる――」

 滴る汗を拭い、エルドは主人を振り返った。

「この調子なら勝てます」

 足下には先刻まで隣で戦っていた者たちの死体がいくつも転がっていた。軍旗も泥にまみれ、踏み荒らされて力なく地面に張り付いている。その状況が見ていられず、わざと楽観的な言葉を口にするしかなかった。

 グレニアはしばし黙っていた。返り血を浴びた鉄の鎧が斜陽に当たり、鈍い黄金に染まっている。

「お前は神を信じるか?」

 唐突にグレニアはそう問いかけた。

「我々の使命は、神の教えに従い弱者を救済することだ。国や大陸にはいまだに排除され抑圧される人々がいる。その者たちを救い守ることが騎士の存在意義だ」

「……はい」

 エルドはどう答えてよいか分からず、ただ返事をした。グレニアから再三聞かされていることだった。だから、その言葉の重みは知っている。

「神は、短期的には残酷なことをなさるように思えることがある。だが、長い目で見れば全てのことを善いことに繋げてくださる。たとえ回り道のように見えても、神は誰一人としてこの地上からお見捨てになったりはしないのだ」

「はい」

「善をなし、義のために戦え。そして祈りを忘れるな。誰かを守れ」

「はい!」

 致命傷を負った騎士は、刃こぼれした剣を静かにエルドに向ける。何をしようとしているのか、エルドには分かった。

「お前を騎士にしよう」

 グレニアは凛と言い切った。それが意味するのは、王宮ではなく戦場で叙任式を行うということである。

「主人、私は――」

 エルドは言葉に詰まった。砂の上に一度視線を落とし、言い淀みながら続ける。

「私にはまだ正式な騎士になる資格はありません。敵を前にして怯み、あなたに怪我を負わせてしまった。だから、私にはまだあまりにも早いのです」

 グレニアは微笑し、黙って首を横に振った。

「お前は勇敢で、私が信頼するに値する。十分だ」

 そう言ってグレニアは剣を持ち上げようとしたが、肩が上がらない。悔しそうに顔を歪める彼はしゅの祈りを唱え、死んでいった味方と敵のための祈りを唱えた。エルドはひざまづき、共に祈った。

 全てが終わり、グレニアは両手で剣を取ろうとした。そこで糸が切れるように崩れ落ちた。

「主人!」

 そこから先の記憶も、共に崩れてしまったかのように、もやがかかって思い出せなかった。勝利を確信したのも束の間、反乱は失敗に終わった。主人を失ったエルドは教皇から罪に問われ、拘束されてアリスクワイアへの船に乗せられた。

 流刑地へ向かう船には、エルドと同じく反乱に関わった者も数名乗っていた。島に到着したばかりの罪人は、各々の罪状に応じて南部の市街ウィンダリオンと、北部の監獄ギルコートスに住処を分けられた。エルドは幸いにも前者に迎えられたが、後者に輸送されていく同士もいた。南北では人の行き来がほとんどないため、彼らがその後どうしているのかは分からなかった。



 *



 針葉樹林の奥にある鉱夫たちの寝所は、樹の間に布が張り巡らされただけの簡素なものだった。その夜、寝ているはずの鉱夫たちの姿はなかった。

 そこから少し北へ山道を登った先、開けた平坦な地にエルドは座り込んでいた。そばで沸き立つ仲間の祭り騒ぎには目もくれず、濁った緑青ろくしょうの目で虚空こくうを眺め、すすけた頬にはこの世の終わりのような表情を浮かべている。

 本来ならばここにいるべきではない。戦場にいるべきだった。華々しく戦って名を上げるつもりだった。それなのにいるのは、故郷を遠く離れた縁もゆかりもない地だ。

 周辺は墓地になっていた。墓地といえども、そこには墓石もしるべもない。雑に掘り下げられており、柔らかい土が被せられているだけである。穴の周辺には打ち捨てられた骨が残っていた。

 王国本土の良識ある人々は遺体を焼くことは絶対にしない。肉体が灰になれば、来たるべき日の復活への希望が絶たれ、すなわち永遠の滅びを意味する。だが、冷酷な官吏は罪人が死ねば容赦なくその肉体を焼き払う。神に忘れられた地ではもとより救いなど望めない、残しておくだけ土地と労力の無駄だからである。

 エルドが骨の一本を手に取ろうとすると、触れたそばから崩れ落ちてしまった。エルドは歯噛みした。このような所業を平気で行う教皇が許せなかった。彼は本気で神の教えを理解しようとしていない。我々の信じるべき神は、誰一人のことも忘れたりするような方ではないのだ。

「神は罪人を見捨てるような方では――」

 自分の声が周囲に響き、思考がよりにもよって声に出ていたことに気づいた。

 辺りがしんと静まり返り、エルドに注目が集まる。

「お前さんなぁ」

「まだ教皇の考えに同調するっていうのか?」

 その時、場違いな明るい声が響いた。

「明日も仕事なんだし、険悪になるのはやめようぜ。せっかくの楽しい葬式なんだからさ」

 全員が声のした方を向く。酒瓶を大量に抱えた男が坂を上ってやってきた。それを見て鉱夫たちの野太い歓声があがる。

「盗んだのが知れたら、最悪監獄行きなんだぞ。フィリック」

 エルドは酒瓶を配り歩く男に言った。彼はエルドを振り返り、分かりやすく顔をしかめてみせる。

「ギルコートスは勘弁」

 頬に走る生々しいむち打ちの痕をねじ曲げて、男は気障きざな笑みを浮かべた。ギルコートスとは山地の向こうの監獄のある地域の名だ。噂によれば、島政府の掟に逆らった奴隷が収監され、想像したくもない罰を受けるという。

 酒瓶の最後の一本を持って男はエルドの隣に腰かけた。男が木栓を抜いた途端、甘い香りが漂ってくる。盗んだ酒を飲めば自分も同罪である。そんなことは分かっていながら、今日も今日とて誘惑には逆らえない。エルドは差し出された瓶を一気に煽った。

 まどろむ頭の中で、意識が飛びそうになるのを彼は得がたい快楽のように感じていた。この監獄島に来てからというもの、毎日休みなく馬車馬のように働かされ、何度懲罰を受けたか分からない。心地よい酩酊めいていに逃げるしかなかった。ひとたび酔えば鞭の痛みも重労働の疲れも忘れ、泥のように眠ることができた。

 自分はもう騎士などではないのだ。神の従者である資格すらない。

 エルドは何度か浅い眠りと覚醒を繰り返した後、ふらふらと人混みから歩き出て、水晶樹の森に分け入った。いつの間にか森の奥までたどり着いていた。さっと冷たい風が通り、一気に酔いが覚めた。

 自分は何をしているのだろう、と思った。盗みを働き、酒に溺れ、ここから逃げる気力も失っている。

 手を伸ばしかけていた、誇り高き騎士の姿とは似ても似つかない。

 水晶樹は一見するだけでは普通の樹と変わらないが、わずかに幹が白く光っている点で見分けがついた。群れをなす水晶樹は、幹の太さも高さもさまざまだった。葉脈だけでかたどられた葉の一枚一枚が、わずかな光を透かして、呼吸するように揺れている。豊満に茂った葉のざわめきは時々、人の声に聞こえることがある。歩くたび、土を踏む音がこだまとなって消えていく。

 王国にいた時から、このような現象が存在するとは聞いたことがない。水晶樹も亡霊も、聖典を何度捲めくったところでどこにも書かれていなかった。

 人目につかないところまで来ると、エルドは一息に駆け出した。

「ああ、主よ!」

 倒れ込むように這いつくばり、天に向かって哀哭あいこくする。傾きかけの月が葉の隙間を縫ってなお強く降り注ぐ。

「あなたは全てを知っておられる方。この地をお忘れになることなどありましょうか」

 否、否。そのような問いをすること自体が不信である。エルドはむせぶように泣いて、心の中で自問を繰り返した。湿った土についた両手に涙が落ちる。神はいないのかもしれない、封じていた疑念が再び目を覚まし、心の中を荒らす。

 さわり、と何かが髪を撫でた。

 強い追い風が吹き、エルドは顔を上げた。彼の後方から順に、水晶の葉がざわめいた。風と共に淡い白のすじが緩く渦を巻き、獣道の向こうへ飲み込まれていく。

 エルドは立ちすくんだ。獣道の先から、誰かのつんざくような絶叫が聞こえた。

「我らは神の戦士!」

 はっきりとその言葉が耳に届いた。どこからの声かと見回していると、続いて数十人の雄叫びが地を揺らす。はっと気づけば、そこは夜の森などではない。一面、巨大な城壁に囲まれた戦場だった。目の前で数多の馬と兵士が入り乱れ、剣や槍が激しく火花を散らした。

 立ち尽くしていたはずの身体が勝手に動き、走り出していた。エルドは四方から降り注ぐ斬撃を掻い潜って駆け、砂煙の向こうへと急いでいた。

「主人!」

 そこに、先ほど雄叫びをあげた重装の男が膝をついていた。致命傷を負ったその騎士は、ひどく刃こぼれした剣を静かにエルドに向ける。腕は震え、上手く剣が持ち上がらない。

 何をしようとしているのか、エルドには分かった。

「お前を騎士に叙任したい」

 剣がエルドの肩当てに触れる寸前、騎士は崩れ落ちた。その瞬間、視界も崩れ落ちるように戦場から元の森へと返る。

「……、無念だ」

 悲痛に歪んだ呟きだけが、周辺にこだまする。エルドは「いいえ」と懸命に首を横に振った。姿の見えなくなった主人に向け、なおも語りかけ続ける。

「私は騎士にあるまじきことをしました。しかし、あなたはそうではない。私はあなたに肩を打たれるに値する者ではありません」

 騎士は職業であると同時に最上の名誉でもある。騎士道に反する行いをした者を待っているのは、名誉の象徴である紋章の剥奪はくだつと武器の破壊、そして死。グレニアは最期まで騎士として清く正しくあり続けたにもかかわらず、その不名誉を受け入れた。罰を受けるべきは、神を信じることのできぬ自分だったのだ。

「私もあなたの元に連れて行ってください」

「それはできない。自ら死を選ぶのは神を冒涜ぼうとくするのと同義、貴殿の天命を知るのは神だけだ」

「それでは!」

 エルドは顔を上げ、見えない主人の両目を睨みつけるように、何もない虚空を見据える。

「それでは教えてください。神は存在なさるのですか」

 言い切ってしまってから、素早くもう一度顔を伏せた。震える唇の間から苦悶の呻きが漏れる。目の奥が煮えたぎるように熱い。

 だめだ。どうして自分はこうなったのだ。

 このような不義、王都にいた頃なら即座に首をはねられてもおかしくない。

 騎士は何も答えなかった。困惑しているのだろうか、それとも怒っているのだろうか。表情が見えない分、緊張ともどかしさが募り、思わず奥歯をぎりと噛む。やがて、彼は言葉少なにこう答えた。

「祈りを忘れるな」

 もう一つ、と付け加えて、グレニアの気配が動いた。水晶樹に実る、雫のような青い実が不思議な弧を描き、ひとりでにエルドの手の中に滑り落ちてくる。

「花は儚いが、実は強い。何かを守れる男になれ。騎士に必要なのはそれだけだ」

 全ての幻が消えた後、エルドの手には一つの果実が握られていた。じわりと熱く、手の脈に合わせるように鼓動している。冷え切った身体に熱が回っていく。

 彼はその熱さをまるで心臓のようだと思った。

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