Ⅲ エンゲージメント
父親の死を知った少女は、特別驚くこともしなかった。
「モルガン」
白髪混じりの短髪の男に呼びかける。部屋を出ていこうとして木製の扉の
「私は父さんよりあなたに興味があるの。あなたはどうしてこの仕事を続けているのかしら?」
寝台の厚い布団の上に座ったまま、モルガンの後頭部を見つめて尋ねた。モルガンはそっけなく返答する。
「このような日くらい、実の父親に思いを馳せるべきではないでしょうか?」
少女は鼻で笑う。しばしの沈黙に支配された部屋から彼が出ていかないのを見ると、彼女はくすんだ金の髪を手櫛で
「私が不自由な思いをすると分かっていながら、私を生んだりしたのよ。父さんも母さんも大っ嫌い」
でもね――と彼女は吹っ切れた笑顔を作る。
「親代わりのあなたがいてくれて、両親がいなくても寂しくないわ。私たちは家族みたいなものよ。だから、そろそろあなたのことを教えてくれない?」
モルガンは笑いともため息ともつかぬ小さな息をついた。
「私は単なる卑しい刑吏です。本来はあなたのような罪人でない市民と言葉を交わすことも許されぬ者。親代わりなど滅相もありません」
罪人でない、に念が宿っている。寡黙で愛想なしのモルガンがこうして時折見せる優しさが、少女には嬉しかった。
「十六になったら監獄を離れてもいいという約束でした」
「ええ、あとひと月でね」
髪を巻き付けていた指を離し、少女は寝台の横の小窓を見やった。荒れた大地を区切るように大きな鉄柵が並んでいる。彼女は生まれてこのかた、あの柵の外には出たことがなかった。
「でも、何をしたらいいか、どう生きたらいいか分からない。牢屋の使用人にも、刑吏にもなりたくないし――」
あまり率直に言うべきではない本音が漏れてしまった。誤魔化すために彼女は少し語調を強める。
「ないわ。やりたいことなんて」
「無理もありません」
モルガンは怒らず、淡々と呟いた。
その時、扉がコンコンと叩かれた。少女の元に来客があるのは珍しい。警戒する彼女をよそに、モルガンは閂を引いて、「誰だ」と言いながら扉を開く。
廊下に立っていたのは年若い二人の刑吏だった。
「ああ、モルガン殿も一緒でしたか。ちょうどいい。例の奴隷を連れてきたところです。アンジェリカ殿に話があると」
例の奴隷と呼ばれた少年が入り口の前に立たされた。歳は少女と同じか少し下だろう。俯いて小さく震える彼は、あちこちが破けたり汚れたりした布を
奴隷はアンジェリカの目を怯えた表情で見上げた。手首を背中で押さえている刑吏に促され、口を開く。
「僕がお父さんを殺しました」
奴隷は
「あの、僕が刺したんです。レオさんはずっと体調が悪そうで、あの時はどうしても苦しそうなのを見ていられなくて、それで――」
少年は深く頭を下げたまま、うわずった声で
「どうでもいいわ、あんな人。というか、私は父さんにあまり会ったことがないもの」
「えっ」
少年は間の抜けた声を発し、顔を上げた。頬に涙が伝っている。困ったように何度か口を開いたり閉じたりしたのち、彼は再び下を向いて話し出した。
「お父さんは……、レオさんは優しい人だったんです。あんなひどいところで死なせられるほど、悪いことをしたとは思えない。それに、あの人は僕に言ったんです。娘を守ってくれって」
涙が次々と床に滴り落ちる。
「でも、父親を殺した人に守られる筋合いはないですよね。僕はあの人を楽にするんじゃなくて、結局苦しませてしまったし――」
彼の言葉が途切れ、
「ねえモルガン、この子を許してあげて。悪意はなかったんでしょう? それに、娘の私が許してるんだから。お願い」
少年の腕を押さえていない方の刑吏がアンジェリカから布きれを取り、涙と
「それはできません。王国の法で殺人は罪と決まっています。事実関係を調べたのち、しかるべき罰を与えなければ」
「じゃあ、私が彼の世話に入るわ。どんな仕事でもやるから。それならいいでしょう?」
アンジェリカはモルガンの袖を掴んで迫る。険しい表情をしていた彼だったが、やがて気圧されたように黙った。
*
「ウィンダリオンを知ってる?」
囚われの身の少年、サンは言った。あれからひと月と数日、アンジェリカは十六歳になっていた。サンは小柄なので歳下だと思っていたのだが、実際は一つ上らしく、知った時には思わず吹き出してしまった。
サンは二階の独房に入れられ、アンジェリカは他の二階の囚人たちと同時に彼の身の回りの世話を受け持っていた。サンは子供であることと、モルガンたちが情状酌量を計らってくれたおかげで重罪には問われず、あと数ヶ月で解放されることになっている。彼とアンジェリカは歳が近いこともあって意気投合し、気楽に話せる間柄になっていた。
「何、それ」
「ここから出て山を越えたところにある大きな街だよ。人が多くて、建物がたくさん並んでいて、美味しそうな食べ物もあるんだ」
相変わらずサンの言葉には独特の訛りがあった。海を越えた北にはアリスクワイアとは比べ物にならないほど広い大陸があって、サンはその大陸の東側のタバナという国から来たという。アリスクワイアに連れてこられたのが一年半前で、ウィンダリオンの港町から馬車に乗せられてこちらへ来たサンは、横目に鮮烈な異国の風景を見てきた。
「僕の祖国の人たちは草原を旅しながら暮らすから、石や木の建物なんて見ないんだよ。ギルコートスの監獄も大きくて凄いけど、それとは違うんだ。監獄みたいな真っ黒じゃなくて、どの建物も色とりどりで素敵だった」
サンは嬉しそうにうわずった調子でアンジェリカに話した。アンジェリカも身を乗り出し、熱心に聞き入る。
「夢のようだわ。私もいつか行けたらいいのに――」
言いかけて、彼女ははっとした。
そうだ。行けるわ。行ったらいいのよ。
アンジェリカは大きな両目を輝かせ、サンの手を取る。
「行きましょう、サン。あなたが自由になったら、一緒にウィンダリオンまで冒険するのよ! 見たことない景色を見て、美味しいものを食べるの!」
サンは細目を見開いてアンジェリカを見つめた。
「で、でも、僕」
握られた手を下ろし、言いにくそうに口ごもる。
「牢屋から出ても、ここの仕事に戻るだけだよ、多分。だから君と一緒には行けない」
彼は謝り、俯いた。傷んだ黒髪が沈痛な面持ちを隠す。それを見て、アンジェリカの笑顔が曇った。
「サンはここの仕事が好きなの?」
アンジェリカが問うと、サンは唸った。
「好き……ではないかな。力仕事が多くて疲れるし、囚人でもないのに勝手には外に出られないし」
少しののち、サンは顔を上げ、わざとらしく声を明るくした。
「ごめんね。アンジェリカだけで行っておいでよ。僕は君が帰ってくるのを待ってるからさ」
「だめ」
アンジェリカは彼の申し出を一蹴した。サンの目が再び丸くなる。
「仕事なんて抜け出せばいいわ。私たちの人生は自由で、私たちだけのもの。モルガンならきっと分かってくれるはずよ。お願い」
サンはみるみる顔を真っ赤にし、頷いた。
それからの四ヶ月、アンジェリカは楽しみで仕方なかった。あっという間に秋が深まり、指折り数えるうちに冬を越し、春が来る頃にようやくサンは許しを得た。
*
ギルコートス監獄の裏手にある
モルガンは
「ごめんね。必ず無事に連れて帰るからね」
アンジェリカは牝馬に呼びかけた。それから牡馬の手綱を引き、厩舎から出る。
サンは自分の何倍も体の大きい馬を軽々と乗りこなしてみせた。草原をぐるりと一周し、アンジェリカの前で止まる。彼女は時々モルガンの馬の世話を手伝っていたが、乗るのは初めてだった。モルガンの補助で苦労して
「高い!」
アンジェリカは悲鳴のような声をあげて喜んだ。
サンが拍車をかけると、馬は走り出した。速度はそれほどでもないが、アンジェリカにとってはあまりにも鮮烈な感覚だった。彼女は馬の背が揺れるたびにはしゃぎ声をあげ、サンの肩にしがみついては感想を述べる。
「凄いわ、サン。物語に出てくる騎士のようね」
「本当?」
彼はとても嬉しそうに笑った。黒い髪が逆風になびくたび、先まで赤くなった耳が見えて、ついアンジェリカも笑ってしまう。
「本物の騎士もかっこいいんだよ。君のお父さんがそうだった」
「父さんはああいうのじゃないわ。私をあんなひどいところに置いていってしまうんだもの」
アンジェリカは心からの不満を込めて呟いた。もし両親が私を生まなければ、こんな不自由な思いをすることもなかったはずなのだ。
「そっか――、だから君はそれを憎んでるんだね」
サンはそれ以上何も言わなかった。
やがて二人は監獄の門を通り過ぎ、視界の開けた平野に出た。右手には雑木林の隙間から海が見え、左側から前方にかけては山の稜線が連なる。この冬は珍しく雪が降ったのだろうか、頂はわずかに白かった。
「この山を抜けたら、ウィンダリオンが見えてくるはずだ」
しきりに話すサンは余裕そうだった。が、馬に乗るのも、監獄の外に出るのすら初めてのアンジェリカにとっては、一日がかりの遠乗りは楽なものではなかった。
昼が近づき、山裾が目と鼻の先に迫った頃、どこかから水音が聞こえ、しばらく進むと前方に小河が見えた。サンは手綱を引いて速度を緩め、まばらに草の生えた河原に降り立つ。アンジェリカは
「アンジェリカ、本当に大丈夫?」
岩陰に腰を下ろしたアンジェリカを、サンが覗き込む。
川面は細かく波打ちながら流れ、太陽の光を反射してきらきらと光っていた。二人を乗せて疲れた馬が川面に鼻先をつけ、波紋を立てながら水を飲んでいる。
サンはその横で川面に触れ、アンジェリカを振り返った。
「酔った時は冷たい水で顔を洗ってみるといいよ」
手を器状にして水を掬い、サンは顔を洗ってみせる。アンジェリカはそろそろと立ち上がり、水面を覗き込んでみる。川はさほど深くはなく、何か小さくて細長いものが群れになって川を上っていくのが見えた。
「この動いてるのは何?」
「魚っていうんだよ。水の中に住んでいる生き物なんだ」
アンジェリカが川に手を差し入れて魚の群れを掴もうとすると、群れは散り散りになって逃げた。彼らはすぐ上流で再び群れになったが、一匹が取り残されてその場で迷うようにくるくると泳いでいる。
水の中でも呼吸ができるのかしら、とアンジェリカは思い立った。川に顔を沈めてみると、冷たい感触が顔を包み込み、鼻を通り抜けて激痛とともに喉へと流れ込む。驚いて彼女は水から顔を上げ、むせ返った。
人間には無理だよ、とサンは笑いながらアンジェリカの背を叩く。痛みがおさまった頃には、いつの間にか酔いも覚めていた。
一団の風が通り過ぎた後、どこからともなく虹色の蝶がやってきて、アンジェリカの周りを旋回した。それを眺め、彼女は嘆息する。
川の水は冷たい。自然の中には驚くような生き物がいる。遠くまで走ると疲れるけれど、山の
蝶を目で追い、斜め後ろを振り返ると、少し遠くでサンが馬を引き、草を食ませていた。いつか彼が言っていた。自由を愛するタバナの民は、子供の頃から親に手を引かれて広い草原を駆け回りながら育つのだと。だからこそ彼は知っていた。世界はこんなにも広かったのだ。そのことを思えば思うほど、閉じ込められて狭い世界しか知らなかった自分がひどく小さく哀れなものに思えてならなかった。
「もう行かなきゃ。日が暮れる前に山を越えよう」
サンは戻ってきて馬に跨り、アンジェリカを促した。彼女もドレスの裾をたくし上げ、勢いをつけて飛び乗る。一定の速度で駆ける馬の背の上で、サンは彼女に問うた。
「将来何になりたいかって、考えたことある?」
「考えたわ。いいえ――、今でもずっと考えてる。でも分からない。自分が何をしたいのか、自分が何者なのかさえ」
アンジェリカには本当の自分が分からなくなっていた。自分の関わっていないところで世界は回り、時間は何事もなく流れていた。きっとこれからも、群れからはぐれた魚のようにアンジェリカを置いたまま世界は動いていくのだろう。
「そっか。じゃあ、これから何か見つけられるといいね」
サンは雲に覆われた空を眺め、静かに呟いた。そして、僕は、と記憶を探るように語り出す。
「タバナにいる時は、騎兵になるつもりだったんだ。だけど僕が十三歳の時、僕を育ててくれた強くて立派な大人たちが、もっと身体の大きなフリージス人の兵隊の前にあっという間に壊滅していくところを見ると、やっぱり僕には無理だと思った」
「それじゃあ、諦めたの?」
「うん。ウィンダリオンへの旅が終わったらきっと戻ってきて、今の仕事を続けたいと思う。レオさんに対する罪滅ぼしじゃないけれど、あそこにいる人たちを少しでも幸せに暮らさせてあげたい」
「君はいい人ね」
僕がそうしたいだけだから、とサンは少しだけ照れた。ほぼ同い年なのに、夢を持っている彼が羨ましいと、馬の歩みに合わせて跳ねる黒髪を彼女は見つめていた。
「あの刑吏の人は、戻って来なくてもいいって言ってくれた。だからアンジェリカは戻るかどうか自由に決めていいんだよ」
すぐにモルガンのことだと分かった。だが、育ててもらった恩をろくに返せないまま飛び出してしまった後ろめたさのせいで、今は彼の優しさを素直に受け取れない。アンジェリカは俯き、額をサンの肩にくっつけた。
「モルガンは私の育ての親なの。刑吏にはなりたくないって言ったら、彼は怒らなかったけど、少しだけ悲しそうだったわ」
サンは少し驚いた様子で、視線だけを後ろのアンジェリカに向けた。周囲はいつの間にか木立に囲まれ、左右には蔦や苔の絡みついた岩肌が切り立っている。
「どうして刑吏は嫌なの?」
「監獄は悪い人ばかりだからよ」
「そんなことないよ。監獄にいるのは悪い人ばかりじゃない」
まさか、と彼女は思った。
「悪事を働いたから捕まったのでしょう? サンが例外なだけで――」
「違うんだ!」彼は悲痛に歪む声で、叫んだ。「僕の方こそ悪人だ。だって、僕は人を殺した」
アンジェリカは驚いて、押し黙る。
「人殺しなんて人間が一番やってはいけないことだ。よりにもよって君のお父さんをだ」
さっきの穏やかな調子から一変して、サンは苦しそうに嗚咽混じりの息を漏らした。馬の速度が緩まる。
「ねえアンジェリカ、君が僕を許してくれたのは、お父さんを許してないからだろう。君がお父さんを許したら、今度は僕を許せなくなるはずだ。だけど、きっと僕はそれを望んでいる。レオさんほどのいい人を、アンジェリカほどいい人に、誤解させたまま終わりたくないんだよ」
サンは訛りのある調子で言葉を選びつつ言った。続けようとする言葉を遮り、アンジェリカは彼の耳元で囁く。
「サンが本当に行きたいのは、水晶樹の森なんでしょう?」
サンは振り返り、あからさまに目を丸くした。
「知ってるの?」
「私聞いたの。あの森では死んでしまった人に会えるんですって。きっと父さんもそこで待っているわ」
彼女からの提案に意表を突かれたのか、サンはぎこちなく頷きを返すばかりだった。
「会ったら飛び蹴りか、ひっぱたいてやるんだから。よくも私をあんな狭いところに取り残してくれたわねって」
そう言い、アンジェリカは楽しげに笑った。
「その後は街に出て、遊び尽くして。港から海を見る。初めて家から出て、知らない世界ばかりだって分かった。だから、これからいろんな場所に行ってみたいの。そうしたら――将来やりたいことも、何か見つかるかもしれないでしょう?」
「うん、そうだね……、そうだね!」
サンは何度も懸命に頷き、馬を駆けさせた。
彼は馬の上で繰り返し涙を拭った。二人ともそれ以上は何も言わず、景色だけが流れていく。道すがら、アンジェリカは不安でいっぱいだった。いくら世界が驚きに溢れていたとしても、一度死んだ者と言葉を交わせるなど、そんなことがあるはずはないと思った。
それでも、もしも本当に父親が現れて、何か語りかけてくれるのだとしたら、私は何を話せばよいのだろうか。サンは私が父を許したら、今度はサンを許せなくなるはずだと言っていた。そうなるくらいなら、会わない方がましなのかもしれなかった。
空気は次第に湿り気を増していき、少しずつ雨が降ってきた。二人の馬は薄暗い森に分け入っていった。ほどなくして、淡い白に光る樹木群が姿を現した。樹は大きさもさまざまで、思い思いの方向に枝を伸ばしており、繊細な織り目のような葉脈が生い茂る様子が息を呑むほど美しい。透明な葉が集まった平たい樹冠を、まるで人の腕のような形の無数の枝が支えている。
馬を降りて歩いている二人を追い越した大きな鳥が、樹の間を縫って悠々と飛んでいった。サンは鳥を目で追い、何かに気づいてあっと声をあげる。
「見て。花が咲いてるよ」
促され、アンジェリカは樹をじっと見る。樹の枝という枝に、小さな、丸い雲のような八重の花が咲いていた。あまりに透明すぎて気づかないほどだった。
目を凝らせば、雨に紛れ、そこら中で小さな花びらが降っている。落ちてきたひとひらに、アンジェリカは手を伸ばす。薄い花弁は指先で触れた途端に跡形もなく消えてしまった。
これが水晶樹なのだろうか。アンジェリカは辺り一面に広がる森を見回したが、サンの他に人の姿は見えなかった。
雨の中、透明な熱が彼女を包み込んだ。誰もいないはずなのに、まるで誰かがすぐそばにいるような温かさが全身に伝わっていく。
彼女には父親の顔もはっきりとは思い出せなかった。だから、もし姿が見えていたとしてもすぐには父だと分からなかっただろう。それでも、不思議な確信と安堵があった。
来てくれた。
待っていてくれたのだ。
父の亡霊に語りかけようと、ほのかな熱の中に手を伸ばしたその時だった。
冷たい風が吹き上げ、木の葉が不穏にざわめく。雨はみるみるうちに勢いを増し、あっという間に土砂降りになった。
「急ごう!」
警戒した馬がブルルと鳴く。サンはアンジェリカの手を掴み、先に馬に乗せると、自らも鞍に駆け上がった。
一段と強まった風が、大量の水晶樹の花が雨空に舞い上げる。サンが強く拍車をかける。暴れる風と暗闇の中、ぬかるむ獣道を、二人を乗せた馬は滑るように疾走していった。
「待って、もう少しだけ」
アンジェリカは叫んだが、声は雨と風の音にかき消えた。彼女も分かっていた。道が崩れれば、山から下りられなくなる。それだけならまだいい方で、最悪の場合、土砂や倒木に巻き込まれて命を落とす可能性だってある。
峠を下り、やや広い抜け道に入った途端、激しい光が一閃した。体を吹き飛ばすような轟音の中、アンジェリカは悲鳴をあげた。
「雷だ。雷が落ちたんだ!」
サンが必死に馬を走らせながら叫ぶ。肩にしがみついたまま振り返ると、水晶樹の森があった辺りが赤い炎に包まれていた。雨と土の匂いに焦げ臭さが混じり、しきりにサンが咳き込む声が聞こえる。
その時、アンジェリカは確かに見た。
透明な水晶樹の花と共に。
無数の亡霊が、天に舞い上がりながら燃え尽きていくところを。
*
翌日、サンとアンジェリカは水晶樹の森が燃えた場所を訪れた。焼け跡には灰や砂だけが残っていた。
もう、あの時感じた気配も温もりも何もない。まるで幻を見ていたかのようだった。黙ったまま、落ちている石の中で綺麗なものを集め、密集させて丁寧に並べていく。
アンジェリカはドレスが汚れるのも気にせず屈み込み、大きなため息をつく。
「もう少し話したかったのになぁ」
サンが振り返って尋ねた。
「レオさんと?」
「その呼び方、なんかむかつく。私より仲いいみたいだわ」
サンはおどけて、「どうも」と頭を掻いた。だが彼女が思いのほか本気で落ち込んでいる様子を見て、真面目な表情を作る。
「アンジェリカは親想いのいい娘だと思うよ。でなきゃこんなことしないからさ」
彼女は反応せず、黙って石を並べ続ける。
「またきっと会える日が来るよ。そうしたら――」
「殴る」
低く言いながら、アンジェリカは砂に石を乱雑にねじ込んだ。
「殴ったら、この島を私は出るわ。人々に不自由を強いる島政府や、教皇の方が父さんより百倍悪いって分かったから。私が全部何とかする」
サンは、「えええっ!?」と絶叫した。「何とかするって、戦いを挑むっていうこと?」
「そう、多分そう。大軍でかかってきても、私が打ちのめしてやるわ」
彼女は立ち上がると、不恰好に剣を振る真似をし、不敵な笑顔を見せた。思わず吹き出したサンに、何で笑うの、と膨れる。
「すっごく似てるなと思ったんだ」
ひとしきり笑った後、目の端を拭い、サンは苦笑する。「亡霊って何なんだろうね」
手に持った石がなくなり、新しいものを探し歩いていたアンジェリカは、しばし考えてから答える。
「そうね――多分、記憶なんじゃないかしら」
サンの手が止まった。青い石を持ったまま、意外そうにアンジェリカを見つめる。
「どうしてそう思うの?」
「何となく言っただけよ」
アンジェリカは天に舞い上がっていく亡霊たちを思い返す。アンジェリカが姿を思い出せなかった父も、確かにそこにいてくれた。いや、きっとそこにいたのは父だけではない。名前すら知らない母も、名もなき奴隷や罪人も。アリスクワイアの地で死んだ者だけとは限らない。ここで、あるいは他の地で。生きている者の記憶があの世とこの世界を繋ぎ、互いの想いを語らせるのだ。
きっと、大丈夫。彼らは消滅してしまったわけではないはずよ。私たちが忘れなければ、きっと大丈夫。彼女は心の中で何度も何度も確かめた。
二人はそれきり沈黙したまま、石を並べ続けた。
よし、とサンが言って立ち上がる。
「お墓にしては頼りないけど、上手くできたんじゃないかな」
森に生きる木々のように並んだ、数えきれない石の群れ。それはアリスクワイアで死んだ者、あるいは人々の記憶にある者、何も残さず消えた者、全ての人を
「ねえ、サン」
アンジェリカはサンの目を見つめて言った。
「君はやっぱりギルコートスに帰るの?」
サンはしばし考え込んだのち、答える。
「うん、帰るよ。監獄にいる人々の幸せのために、モルガンさんの手伝いをしたい。それに、この子も連れ帰らなきゃ。もうすぐお父さんになるんだしね」
嬉しそうに細い目をさらに細め、彼は馬のたてがみを撫でた。
「その前に、街へ行きましょう。叱られずに一日中遊ぶために、今まで今日のこの時を楽しみにしていたんだから!」
「うん!」
二人は顔を見合わせて破顔し、静かな祈りを捧げ、並んで駆け出した。彼らの祈りは風に乗って、空へと舞い上がった。
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