第3章:存在しない容疑者
149回目のループ。ユキの精神は、ヤスリで削られるように摩耗していた。あのバイオハザード警報以来、犯人の手口はさらに巧妙かつ予測不能になった。ユキが博士を守ろうとすればするほど、まるで因果律そのものが博士の死を望んでいるかのように、ありえない事故やシステムの暴走が彼を襲った。
犯人は、このループを認識しているもう一人の人間だ。そうでなければ、この完璧な先読みは説明がつかない。ユキは方針を転換し、容疑者の特定に全力を注いだ。この施設に残っているスタッフは、ユキと博士を除いて5人。彼女はループの記憶という絶対的なアドバンテージを使い、彼らの72時間の行動を徹底的に調査した。
だが、結果は空振りだった。警備主任のサイトウは、ループ中ずっと監視室で居眠りをしている。機関士のタナカは、地下のボイラー室から一歩も動かない。他のスタッフも同様だった。誰もが、寸分の狂いもなく同じ行動を繰り返すだけの、ループ世界の人形に過ぎなかった。彼らに、博士を殺害する機会も動機も、そして記憶もなかった。
「全員に、完璧なアリバイが…ある…?」
冷めたコーヒーの香りが、疲弊した脳を刺す。窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。もし、犯人がスタッフでないとしたら?疑念の矛先は、最も考えたくない可能性へと向かう。
アラン・バーク博士、本人。
ユキは博士の個人サーバーにアクセスを試みた。幾重にもかけられたプロテクトを、ループを繰り返して得た断片的な情報で一つずつ解いていく。そして、数百回に及ぶ試行の果てに、彼女はついに最深層のファイルを発見した。
プロジェクト名、『レクイエム』。
それは、博士がクロノスの開発責任者だった頃に極秘に進めていた研究の記録だった。ファイルを開いたユキは、息を呑んだ。そこに記されていたのは、量子コンピュータを利用した、非人道的な実験の数々だった。意識のデジタル化、被験者の精神を量子情報に変換し、シミュレートされた世界に閉じ込める実験。多くの被験者が、実験の過程で精神崩壊を起こしていた。
報告書の最後には、倫理委員会による厳しい糾弾と、プロジェクトの強制凍結を命じる勧告書が添付されていた。
「先生が…こんなことを…」
尊敬していた恩師の、知らなかった暗い過去。ユキの中で、何かが音を立てて崩れていくのが分かった。そして、彼女は気づく。博士がループの度に書き残すダイイングメッセージ。あれは、犯人を示すヒントではない。あれは、『レクイエム』計画で使われた、量子状態を記述するための数式だった。
ループの度に、数式は少しずつ完成に近づいていた。まるで、ユキに何かを教えようとするかのように。
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