第2章:先読みされる手
アラン・バーク博士の研究室は、施設の最上階にあった。幾重にも張り巡らされた厳重なセキュリティを、ユキは過去のループで得た知識で難なく突破する。ドアが開くと、古い紙の匂いと、微かなオゾンの匂いが彼女を迎えた。
「ユキか。早いじゃないか」
温厚な声が響く。部屋の奥、巨大な数式が書き込まれたホワイトボードの前に、博士は立っていた。白髪の混じった髪を後ろに撫でつけ、優しい目で彼女を見つめている。60代とは思えぬ、矍鑠とした姿。ユキにとっては、科学の道へと導いてくれた父親のような存在だ。そして、このループの中で必ず死ぬ、逃れられない被害者。
「先生。少し、お話が」
「ああ、構わんよ。ちょうど面白いことが分かってね。『観測者効果における巨視的量子デコヒーレンスの遅延』についてなんだがね…」
博士は楽しそうに、難解な量子力学の理論を語り始める。その内容は、かつてユキが心酔し、共に夜を明かした研究の核心だった。だが、今の彼女には、それは博士の死刑執行までのカウントダウンにしか聞こえなかった。
「先生、緊急事態です。すぐにここから避難しなければなりません」
ユキは博士の言葉を遮り、単刀直入に告げた。
「緊急事態? ユキ、何を言っているんだ。警報は鳴っていないぞ」
「説明している時間はありません。私を信じてください」
ユキの切迫した表情に、博士は何かを察したようだった。彼は長いため息をつくと、静かに頷いた。
「…分かった。君がそこまで言うのなら」
計画は順調に進むはずだった。博士を連れて、地上へと繋がる唯一のエレベーターへ向かう。この施設の構造は全て頭に入っている。最短ルートを駆け抜け、あとは事象の地平線の境界を超えるだけ――。
その時だった。けたたましい警報音が、施設全体に鳴り響いた。
『レベル4バイオハザード発生。全区画を即時封鎖します』
合成音声のアナウンスと共に、ユキたちの目の前で分厚い隔壁が轟音を立てて降下した。
「馬鹿な…! このタイミングで…!」
ハザード警報など、過去71回のループで一度もなかった。これは明らかに、ユキの行動を読んで仕掛けられた罠だ。犯人は、彼女が博士を外へ連れ出そうとすることを予測していたのだ。
「どうやら、我々は閉じ込められてしまったようだね」
博士は冷静だった。むしろ、どこか諦めているようにさえ見える。
「別のルートを探します」
ユキはコンソールを操作し、封鎖されていないルートを検索する。だが、どこもかしこも赤い警告表示で埋め尽くされている。まるで、巨大な檻に追い詰められた鼠のようだった。
そして、運命の時刻が訪れる。施設内の照明が一斉に消え、非常用の赤色灯が点滅を始めた。その明滅する光の中で、ユキは見てしまった。博士が、ゆっくりと胸を押さえて崩れ落ちるのを。
「先生っ!」
駆け寄ると、博士の口から微かな呼吸音が漏れていた。外傷はない。毒ガスでもない。彼の白衣のポケットから、小さな自動注射器が転がり落ちた。中身は空だった。
「…すまない、ユキ…」
博士はかすれた声で何かを言い、そのまま動かなくなった。ループが、また終わる。薄れゆく意識の中で、ユキは博士が最後に残したダイイングメッセージに気づいた。彼の指は、床に数式の一部を描いていた。それは、これまでとは違う、新たな数式だった。
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