北宮世都

彼女の名前は美咲という。

教室では誰よりも声が大きく、部活では後輩を厳しく指導し、友人たちからは「姉御肌」と呼ばれている。僕が彼女と付き合っていることを知っている人は少ない。二人でいる時でさえ、美咲は僕の肩に寄りかかることもなければ、手を繋ごうともしない。

「別に隠してるわけじゃないんだけどね」

美咲はいつもそう言う。でも学校では目も合わせない。廊下ですれ違っても会釈すらしない。僕もそれでいいと思っていた。むしろ、そのよそよそしさが心地よかった。

僕たちの関係は、言葉よりも沈黙で成り立っている。

週末、二人でカフェに行っても会話は途切れがちだ。美咲はスマホを見て、僕は窓の外を眺める。それでも不思議と居心地が悪くない。ただ、時々思う。僕は彼女を愛しているのだろうか、と。

肉体的な関係はない。キスすらしたことがない。触れ合うことを、お互いが無意識に避けているような気がする。

それでも僕は、美咲のことを考えない日はない。


ピアスを買ったのは、衝動だった。

雑貨店で見かけた小さな銀のスタッド。シンプルで、美咲に似合うと思った。レジで支払いを済ませた後、僕はしばらくその小さな箱を握りしめていた。

「これ、あげる」

次に会った時、僕は何の前置きもなく箱を差し出した。美咲は怪訝そうに受け取り、蓋を開けた。

「ピアス?」

「うん」

「私、穴開いてないけど」

「開けたらいいじゃん」

美咲は少し黙ってから、ふっと笑った。

「開けてくれる?」

その言葉に、僕の心臓が跳ねた。


美咲の部屋は思ったより女の子らしかった。白い壁に、観葉植物が置かれ、ベッドの上には抱き枕がある。

「親いないから」

美咲はそう言って、消毒液と氷、それに安全ピンを取り出した。僕は椅子に座り、美咲は僕の目の前に立った。いつもより近い距離。彼女の息遣いが聞こえる。

「本当にやるの?」

僕が聞くと、美咲は頷いた。

「あんたがくれたんだから」

彼女は髪を耳にかけた。白い耳たぶが露わになる。そこには何の傷もなく、完璧に滑らかで、まるで誰にも触れられたことのない領域のようだった。

僕は氷で耳たぶを冷やした。美咲の肌は冷たく、それでいて柔らかかった。彼女は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「痛くない?」

「まだ何もしてないでしょ」

僕は消毒液を含ませたコットンで耳たぶを拭った。美咲は微動だにしない。その静けさが、まるで儀式のようだった。

安全ピンを手に取る。先端は鋭く尖っている。僕は美咲の耳たぶを指で挟んだ。柔らかい。温かい。

「いくよ」

美咲は小さく頷いた。

針先を耳たぶに当てる。ほんの少し圧をかけると、肌が抵抗する。僕はゆっくりと力を込めた。

そして――針が、美咲の肌を貫いた。


その瞬間、僕の中で何かが弾けた。

美咲の白い耳たぶに、赤い点が浮かぶ。小さな穴。針が通り抜けた後に残された、確かな痕跡。

僕は、彼女の身体を変えた。

この穴は、僕が開けた。僕が彼女に与えた傷だ。美咲はこれから毎日、この穴を見るだろう。鏡を見るたびに、ピアスをつけるたびに、僕のことを思い出すだろう。

征服感、というのとは少し違う。

これは、刻印だ。

僕は彼女の一部になった。彼女の身体に、僕の意思が宿った。

美咲はじっと僕を見ていた。

「どう?」

僕が聞くと、美咲は小さく笑った。

「なんか、ドキドキした」

僕もだ、と言いかけて、やめた。

僕はピアスを取り出し、慎重に美咲の耳に通した。銀色のスタッドが、彼女の耳たぶで小さく光る。

「似合ってる」

「そう?」

美咲は鏡を見に行った。横顔に浮かぶ笑み。彼女は嬉しそうだった。

僕はその背中を見つめながら、思った。

愛は、気づけばそこにあるものじゃない。

愛は、こうして刻まれるものだ。


それからというもの、美咲はいつもそのピアスをつけている。

学校でも、休日でも。

僕たちは相変わらず人前ではよそよそしく振る舞うし、手を繋ぐこともない。それでも、美咲の耳に光る小さな銀色を見るたびに、僕は思う。

あの穴は、僕が開けた。

あの痕跡は、僕が残した。

そしてそれを受け入れた彼女もまた、僕に何かを与えてくれたのだ。

自分の身体を、少しだけ、僕に差し出してくれたのだ。

愛は奪うものでも、与えるものでもない――そんなことはない。

愛は、奪い、与えるものだ。

そして僕たちは今、その真っ只中にいる。

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北宮世都 @setokitamiya

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