思考
北宮世都
思考
通知音が鳴るたび、心臓が跳ねる。
スマホの画面には、また新しいコメントが流れ込んでいた。
「この情景描写、鳥肌立った」
「言葉選びのセンスが天才的」
「こんな美しい文章、久しぶりに読んだ」
僕は、ベッドに寝転んだまま、画面をスクロールし続けた。投稿してから三時間。小説投稿サイトに上げた新作は、すでに五千を超えるアクセス数を獲得していた。
二十一歳。大学三年生。
高校生の頃から書き続けてきた。賞に応募しても一次落ち。友人に読んでもらっても「面白いけど、なんか惜しい」と言われ続けた。
それが、三ヶ月前から変わった。
きっかけは些細なことだった。課題に追われて推敲する時間がなくて、試しにAIツールに文章を投げ込んでみたのだ。「より洗練された表現に修正してください」と。
AIが返してきた文章は、確かに僕のものより滑らかだった。冗長だった部分が削ぎ落とされ、平凡だった比喩が研ぎ澄まされていた。
「まあ、推敲の代わりだし」
そう自分に言い聞かせて、その作品を投稿した。
反応は、それまでとは比べ物にならなかった。一週間で二万アクセスを超え、フォロワーが一気に千人増えた。
僕は舞い上がった。そして、次の作品でも、その次の作品でも、AIに推敲を任せた。
「言葉を磨くのは編集者だってやることだろう?」
自分にそう言い訳しながら。
でも、評価されるのはいつも「文体」だった。「表現の美しさ」だった。
僕が本当に書きたかったのは、物語の核心だったのに。主人公の葛藤だったのに。誰も、そこには触れてくれなかった。
スマホを置いて、天井を見上げた。
「お前の最近の文章、めっちゃ良くなったよな」
大学の学食で、サークルの先輩が言った。先輩も同じ投稿サイトで小説を書いている。
「ありがとうございます」
僕は硬い笑顔を返した。
「特に言葉選びが。前はもっとこう、学生っぽいというか、青臭い感じだったのに。今は洗練されてて、プロみたいだよ」
褒め言葉が、胸に刺さる。
その「洗練された文章」の半分は、AIが磨き上げたものなのに。
「何か秘訣あるの? 俺も伸び悩んでてさ」
先輩は真剣な目で聞いてきた。
「...たくさん、本を読むようにしたんです」
嘘をついた。
「そっか。やっぱ基本だよな」
先輩は納得したように頷いた。
その顔を見ていると、吐き気がした。
教室に戻る途中、スマホの通知を見た。また新しいフォロワーが増えている。
期待と、罪悪感が、同時に押し寄せてきた。
タイムラインには、「続きまだですか?」「次も楽しみにしてます」というリプライが並んでいた。読者の期待は、僕にとって喜びであると同時に、重圧でもあった。
僕はパソコンの前に座って、新しいドキュメントを開いた。
何も思いつかなかった。
このペースでは間に合わない。読者からの反応が、焦燥感が、じわじわと胸を締め付けてくる。
AIツールのアイコンを見つめた。
推敲だけじゃ、もう間に合わない。そう思った瞬間、指が勝手に動いていた。
「大学生が過去のトラウマと向き合う物語のプロット案を考えてください」
エンターキーを押す。
三秒後、AIは五つのプロット案を提示してくれた。どれも、僕が一週間悩んで考えるよりも、よくできていた。論理的で、感動的で、完成度が高かった。
「これをベースに、もう少し詳細なあらすじを」
僕は、次の指示を打ち込んだ。
推敲という表層的な作業にAIを使うことと、物語の核心部分である構想をAIに委ねることは、本質的に異なる行為だった。だが当時の僕は、その違いに気づかなかった。いや、気づこうとしなかったのかもしれない。
書き上げた。
画面には、投稿された文がずらっと並んでいる。
予定より早く仕上がった。効率的だと、僕は自分に言い聞かせた。
しかしマウスを持つ手が、震えていた。
プロットはAIが提案してくれた。構成もAIが整理してくれた。文章はAIが磨いてくれた。
では、ここにある原稿のうち、どこまでが「僕」なのだろう?
キャラクターの台詞? しかし、その言い回しはAIが修正したものだ。情景描写? それもAIが「より詩的に」してくれたものだ。物語の核心? それすら、AIが提案した五つのプロットのうちの一つに過ぎない。
僕がやったのは、ただ「承認」しただけではないか。
AIの提案を見て、「いいね」とクリックしただけではないか。
ファイルを保存して、立ち上がった。窓の外は、もう夜だった。部屋の灯りを消すと、パソコンの画面だけが青白く光っていた。
あの光の中に、「僕」はいるのだろうか。
この問いに、僕は答えることができなかった。
投稿した十分後には、もう感想が流れ始めた。
「泣いた」
「この作者、天才すぎる」
「この人にしか書けない世界観」
「唯一無二の才能」
コメントを読むたびに、吐き気がした。
唯一無二? この文章は、誰でもAIに頼めば書けるのではないか。
天才? 僕は何も考えていない。ただAIの提案を選んだだけではないか。
スマホを放り投げた。ベッドに倒れ込んで、目を閉じた。
しかしまぶたの裏に浮かぶのは、あのコメントたちだった。
「第三章の主人公の独白、心に刺さった。あの言葉選び、どこから出てくるんですか?」
誰かがリプライで聞いてきた。
答えられなかった。
なぜなら、あの独白を書いたのは僕ではないから。AIが提案した文章を、そのまま採用しただけだから。
ここで僕は、ある恐ろしい認識に至った。
みんなが愛しているのは、「僕」ではない。AIが作り上げた、「僕という虚像」なのだ。
そして僕は、その虚像を演じ続けることしかできない。なぜなら、もう「素の僕」では、誰も満足させられないから。僕は自分自身の影に、囚われてしまったのである。
一ヶ月後、フォロワーは一万人を超えた。
毎日のように、リプライが飛んでくる。
「先生の文章、本当に大好きです」
「この表現、どうやって思いつくんですか?」
「次回作も楽しみにしています」
一つ一つに丁寧に返信しながら、僕の中で何かが音を立てて崩れていった。それは自己というものの輪郭だったのかもしれない。
深夜、パソコンの前に座った。
新しいドキュメントを開く。カーソルが点滅している。
何も書けなかった。
一文字も。
もう、「自分で考える」ということができなくなっていた。思考という行為そのものを、僕は放棄してしまったのだ。
AIツールを立ち上げようとして、手が止まった。
画面に映る自分の顔が、見知らぬ誰かのように見えた。これは誰なのか?この顔の持ち主は、本当に僕なのだろうか?という疑念がこびりついて離れなかった。
深夜二時。
僕はnoteを開いて、タイトルを打ち込んだ。
「告白」
そして、すべてを書いた。
AIを使っていたこと。推敲だけでなく、プロット作成にも使っていたこと。もう、自分だけでは何も書けなくなっていたこと。
指が震えていた。しかし、書かなければならないと思った。このままでは、僕という存在が完全に消えてしまう。
投稿ボタンを押す。
取り返しのつかないことをしたのかもしれない、と思った。
翌朝、起きたときには、すでに炎上していた。
「詐欺じゃん」
「裏切られた気分」
「フォロー外すわ」
しかし、意外なコメントもあった。
「編集者だって作家の原稿に手を入れるよね? AIも同じでは?」
「使ったことが問題じゃなくて、隠してたことが問題」
「正直になってくれてありがとう。これからも応援する」
「時代は変わってる。みんないずれAI使うよ」
賛否両論。
誰も、「正解」を持っていなかった。僕も、持っていなかった。
ただ一つだけ、わかったことがある。このままでは、僕は消えてしまう。虚像の中に埋もれて、二度と戻ってこられなくなる。
それだけは、避けなければならなかった。
それから三ヶ月、僕は一切書かなかった。
投稿サイトのアカウントは削除した。SNSも見なくなった。
ただ、毎日大学に行って、授業を受けて、本を読んだ。映画を観た。友人と話した。
そして、ある日。
ふと、書きたくなった。
パソコンを開いて、新しい作品を描いた。
今度は違う。
プロットを考える。主人公はどんな人物か。なぜこの物語を書きたいのか。この物語を通して、読者に何を伝えたいのか。
一つ一つ、自分の頭で考えた。
時間がかかった。一週間かけて、ようやく五ページ書けた。しかしその五ページは、確かに「僕のもの」だった。どの一文についても、なぜそう書いたのか説明できた。
十ページ目を書いているとき、ふと思った。
AIに意見を聞いてみてもいいのではないか、と。
ツールを開いて、書いた文章を貼り付けた。
「この描写について、改善案を提示してください」
AIは、三つの案を出してくれた。どれも、確かに僕の文章より洗練されていた。
しかし今度は違った。
「なぜAIはこの表現を選んだのだろう?」
それを考えた。AIの提案の意図を読み解こうとした。
そして、気づいた。
一つ目の案は、リズムを重視している。二つ目の案は、視覚的なイメージを強調している。三つ目の案は、感情的な余韻を残そうとしている。
では、僕はどうしたい?
この場面で、読者に何を感じてほしいのか?
それを考えて、自分なりの表現を打ち込んだ。AIの案でもない、元の文章でもない、第三の表現。両者の対話から生まれた、新しい何かだった。
保存ボタンを押した。
半年後、新しいアカウントで作品を投稿した。
反応は、以前ほど爆発的ではなかった。
「前のアカウントの人?」
「文章が少し荒い気がする」
そんなコメントもあった。
しかし、こんなコメントもあった。
「なんか、前より人間らしくなった気がする」
「不器用だけど、心に残る」
「この人、ちゃんと考えて書いてるんだなって伝わる」
そして、僕自身が一番驚いたのは。この作品について、どんな質問をされても、答えられるということだった。
「なぜこの表現を選んだのか?」
答えられる。なぜなら、自分で選んだから。
「このキャラクターの心情は?」
答えられる。なぜなら、自分で考えたから。
「このシーンで伝えたかったことは?」
答えられる。なぜなら、それを伝えるために書いたから。
これが、創作という行為の本質なのだと、僕は理解した。
パソコンの前に座る。
画面には、次回作のファイルが開かれている。AIツールも、隣のウィンドウで待機している。
両方とも、そこにある。
カーソルが点滅する。
僕は、タイプし始めた。
まず自分の言葉で。そして必要なら、AIと対話しながら。しかし最後に決めるのは僕だ。一文一文に、理由を持たせる。それが、僕にできる唯一のことだ。
読者が何を求めているかは、もうわからない。評価されるかどうかも、わからない。
しかし今書いているこの物語が、確かに「僕のもの」だということだけは、わかる。
それで、十分だった。
窓の外から差した柔らかい朝日が僕を包んだ。
思考 北宮世都 @setokitamiya
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