初めての味、食べかけの言葉

彼女と初めて顔を合わせたのはこの大学に入学してから少し経った四月の終わりの事だった。


 気になっていた文芸部の新入生歓迎会で話したのがきっかけだった。

 ライトノベルが強い文芸部で、部員たちの多くがライトノベルを嗜んでいるような様子で話は大いに盛り上がった。

 彼女はその輪の中に上手く入り込めない様子で、ちびちびとソフトドリンクを飲んで本をペラペラめくっていた。その姿がやけに気になって、僕は勇気を出して話しかけた。


「同じ、一年生ですか?ラノベ以外を読んでる人あまりいないから気になっちゃって。今何読んでるんですか」

彼女はフッと顔を上げ、大きい目を眼鏡の奥からのぞかせてこちらをぽかんと見つめて口を開いた。


「春琴抄です、谷崎潤一郎の」

「春琴抄ですか、読んだことはないんですけど名前だけは知ってます。純文学が好きなんですか?」

「そう、ライトノベルも読めないことは無いけれど肌に合わないというか。私が書くのもたぶん純文学に寄ってるし……」


 彼女は本で顔を隠しながらこちらに表紙をみせてくれた。確かに純文学を書く人はこの部活では少ない。けれど全くないというわけでは無かったから、なぜ一人でいるのかがあまりわからなかった。


「ぜひ、今度部活がある日に作品、みせてくださいよ。僕のも、面白くないかもしれないけど読んでほしいし。あ、えっと、お名前なんでしたっけ。僕、りょうやって言います。樋口りょうや」

「りょうやさん。いいんですか、ありがとうございます。えっと。私の名前はゆう。野口ゆうです」

「ゆうさんですね、じゃあ次の部活の日。来週の火曜日でしたよね。その日にお互い作品を見せるってことで。約束ですよ」


 彼女はこくりと頷いたあと、またちびちびソフトドリンクを飲み始めた。僕はというと、すぐに先輩に呼ばれてしまって彼女の横から離れることになってしまった。だが、僕が話しかけたのもあってか周りにいる人たちが少しずつ彼女に話しかけに行っていて、彼女の表情も緩んでいたのを横目で見ることができて少しだけ僕は得意げな顔をしていたと思う。


待ちに待った火曜日、月が替わって五月になった。僕はゆうさんとの約束をしっかりと覚えていた。

けど、飲みの席でぽっと出た約束をゆうさんは覚えてくれているだろうか。なんて心配しつつ、部室へと向かった。


「おつかれさまでーす。あ、ゆうさんお疲れ様です」

 僕より先に到着していたゆうさんはこっちを見て目を丸くしていて、彼女が口を開くよりも先に近くに座っていた先輩が口を開いた。

「おっ、りょうお疲れー。あれ、二人知り合いだったの?でも学部違った気がするけど」


「この前の新歓で少し話してたんですよ」

 先輩にひゅうひゅうと茶化されるのを払い、ゆうさんの近くに座り話しかける。


「りょう、やさん。」

「別にりょうでいいよ」

「じゃあ、りょうさん。小説、持ってきました」


 そういうと彼女は数十枚の原稿用紙をカバンから取り出し、僕に差し出した。


「ゆうさん、手書き派なんですね」

 彼女の最初の嘘はここから始まった。


「りょうさん、知ってますか。手書きだと面白いことが起こるんです」

「えっ、なんのこと?」


 彼女は新歓の時には見せなかった笑顔と仕草をこちらに向けた。それは口の端をにいっと横に広げて、両手の人差し指を胸の前でくるくると回すアレだった。


「手書きの原稿って、作者の想いがそのまま筆跡になるんですよ。そうするとジワジワと文字の形がこちらに浮かび上がってくるんです」


「えっと、この小説の中身の話だったりする?」

「いいえ、小説の話なんかじゃありません。りょうさんは手書きで小説を作ったことはないんですか?」


 ゆうさんの話し方はなんだか引き込まれるものがある。嘘な気もするけど本当のように話すから、なんだか気になってきてしまう。


「僕はもっぱらパソコンだな。それで、文字の形が浮かび上がってどうなるの?」

「そうですよね、現代だと心を込めて筆跡を残す人が少ないから文字が浮かび上がることをみんな忘れてしまうんですよ。文字が浮かび上がっても何もしない人も居ます、けど、私はこの文字を食べます」

「文字を……食べる……」


 あまりに突飛な回答に言葉を失っているうちに彼女はどんどん語りを紡いでいってしまう。


「そう、食べます。浮き上がった文字をつまんで食べることはいっけん危険そうに見えますけど、大阪のあたりにある大学は危険性を否定しているという記事を見たので躊躇なく食べています。京都のあたりにある大学では、かの有名な借金まみれの文豪はみなそうやって空腹を満たし、人によっては主食にしていたなんてデータもあるみたいですよ」

「じゃあ、僕がゆうさんの文字を食べるってこともできたりするの?」

「残念ながらそれはできないんです。浮き上がった文字が空腹感を抑えたりするような効果を発揮するのは書いた本人のみなんですよ。」

「なるほどね、難しいものなのか。でも、その文字を食べちゃったら消えてしまわないの?」

「この原稿用紙、三枚目以降を見てみてください」


 僕が差し出された原稿用紙をぱらぱらとめくってみると、三枚目の途中から文字がぱったりと無くなってしまっていた。

 これだけの原稿用紙を持ってきているのだから相当な大作なのだと思っていたけれど、その小説は会話の途中で終わっている。


「これ、食べちゃったから無くなったってこと?」

「ふふふ」


 ゆうさんは少し笑ってからこくりと頷いた。


 僕が唖然としていると、近くで会話を聞いていた先輩がこっちを振り向き僕に強く言った。


「おい、りょう!ゆうの話全部嘘だ!」

「まあ、うすうすそんな気はしてましたけど。そこまで強く言わなくても」

「俺は実はゆうから聞いていた!りょうに見せる小説を新しく書き上げようとしたが途中から全く何も浮かんでこなくなったってな」

「ええっ、そうなんですか!ゆうさん、正直に言ってくれてよかったのに。別に僕、新作じゃなくても、途中までだってどんな作品でも読むのに」


彼女は少し悪い顔をして目と口をにいっと横に広げて、誤魔化すように目線を逸らしていた。

ため息を吐きながらゆうさんに食べられたらしい三枚目以降の原稿用紙をぱらぱら捲っていると、なにか小さく端書きがしてあった。


「りょうやさんに見せるためにがんばりたいな」


 ゆうさんの食べ残しに胸の一部がじゅうっとなるような感覚になった。僕はこれを期に彼女の嘘に翻弄される幸せな男として暮らしていくのであった。

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彼女は嘘つき、だけど月 捻手赤子 @32_kete

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