第4話:名前と、折り紙と、バイトの日々。

最近、なんだか時間が過ぎるのが早い。たぶん忙しいせいだと思うけど、あたし自身、あんまり休む時間を作ってなかったのもある。

……でも、一番の理由は、きっとあの三人のせい。気づいたらもう十二月になってた。

学校では、三人で隼人のバレー部によく顔を出してた。なんでかって? 彼、ラブレターをもらったらしくて。だから誰がそんな目の悪い人なのか、全員で見に行くことにしたのだ。

バイトの時間を抜けば、家に帰ってからは綾音に英語を教えてもらってる。最初は全然興味なかったけど、彼女の熱意に引っ張られて、発音の練習まで始めちゃった。綾音はもうだいぶ前から会話や単語を覚えてたのに、それでもあたしと一緒に声出ししてくれる。

一方で、紗矢はというと……最近なぜか料理にハマってる。暇さえあればあたしと綾音の部屋に来て、食べさせようとしてくる。味は……まあ、人によるかな。

そんな日常を、あたしはいつもバイト先の先輩に話してる。仕事中に喋らないと退屈だし、なにより先輩は話を聞くのがうまい。なんか、気づいたら元気になってる感じ。

黒髪でいつも落ち着いてる「黒咖啡男」とも、このごろ少しずつ仲良くなってきた。最初は正直、顔が好みだっただけなんだけど、話してみると意外と面白い人だ。

「ありがとうございましたー。」

あたしと黒咖啡男は、同時に笑いながらお客さんを見送った。

「真尋。」

見送り終えたあと、先輩が急に声をかけてきた。

「ん? どうしたんですか、先輩。」

「黒咖啡男、どう思う?」彼女は小声で顔を近づけてくる。

「え? べつに、なんとも……?」思わず目を逸らす。

「ふーん。表情管理、下手だねぇ。」頬をつつかれた。

「洗い物、してきます。」

逃げるようにシンクの方へ行くと、

「そっち、今は何もないよー。」

振り向けば、先輩がにこにこしてる。

「もう、からかわないでください。」

「はいはい。」笑いながら、すぐ別の話を始めた。

「ねえ、真尋。友達の話、よくしてくれるけどさ。大丈夫なの? 本人たちにバレたりしない?」

「え? うーん……まあ、平気だと思います。」首を傾げると、彼女は「ふーん」と頷いた。

「バイト、もう慣れた?」

聞かれて、すぐ理由がわかった。

「うん、慣れました!」笑って答える。

最初の二か月はほんとひどかった。ぼーっとしたり、ストロー忘れたり、デザートにスプーンつけ忘れたり。今思えば、よくクビにならなかったと思う。

先輩が根気強い人でよかった。あの人がいなかったら、あたし毎日びくびくしてたと思う。

「先輩、いつもありがとうございます。」

ふいに口から出たその言葉に、先輩は一瞬ぽかんとしてから、ふっと笑った。

「そんな大げさな。別にいいじゃん、これくらい。」

「そういえば、あたしの前にも誰かバイトしてたんですか?」ふと思い出して聞いてみた。

店は小さくて、常連以外はあまり来ない。社員といえばオーナーと、その妹の千紗さん、そしてこの先輩。たった四人。

「あー、いたよ。でも長続きしなかったね。」

レジを打ちながら先輩が答えた。

「なんでですか?」あたしはドリンクコーナーに急ぐ。

あ、説明しておくと、この店はQRコードで注文できるシステムになってる。だからわざわざ客席まで行かなくても注文が入る。テーブルにはベルも残してあって、好きな方で呼べる仕組み。半年前にオーナーが導入したらしい。

「サマーブルーベリー、氷少なめ。」

先輩はあたしの質問には答えず、手際よくドリンクを作り始めた。

この人はいつも、仕事が終わってから話すタイプ。千紗さんにも「見習いなよ」ってよく言われる。

「できたら4番テーブルね。」

「はい!」慌ててカップをトレーにのせて運ぶ。

──あれ? 今、誰か呼んだ?

小さい声が聞こえた気がしたけど、たぶん幻聴。

「お待たせしました、こちらご注文のドリンクです。」

置いた瞬間、後ろから先輩の声。

「ストロー、どうぞ。」

振り返ると、彼女が笑顔で紙ナプキンに包んだストローを手にしていた。

……あ、また忘れた。

戻ってすぐに頭を下げる。

「すみません、先輩!」

「いいって。もう慣れたし。」

「次は気をつけます!」

「うん、頼むね。」

先輩がふと入口を見た。

重低音のエンジン音。バイクが店の前で止まった。

「千紗、戻ってきたね。」

時計を見ればまだ十一時過ぎ。いつもならお昼頃に来るのに。

「今日は準備少なかったのかな。」先輩がつぶやく。

それから、紙ナプキンを一枚取り出して言った。

「これ、折ってみて。」

数分後、先輩の指先から現れたのは、まさかの紙鶴だった。

「え、紙ナプキンって折れるんですか?」

「うん、ここのはけっこう硬いんだよ。」

まるで子どもを見るような目で言われ、あたしはあわてて表情を整える。

「もしかして、店に飾ってある折り紙も先輩が?」

「え、今さら気づいたの?」

「だって最初から置いてあったから、千紗さんだと思ってて……」

「ん? なに話してんの?」

背後から急に声がして、思わずビクッとした。

「テーブルの飾りの折り紙、千紗さんが折ったのかと思ってたんです。」

「あー、それね。凜がいっぱい折ってくれるから、開店のときに並べるだけで済んでるの。」

あれ、今「凜」って……?

一瞬、先輩の表情がぴくっと動いた。

「千紗さん。」あたしはニヤリと笑って言う。

「ん? なに?」

「もしかして……千紗さんも先輩の名前、読めないんですか?」

「んー? 鈘吅(←ここだけ漢字そのまま)。」

わざとらしく漢字を読み上げながら笑ってる。

「真尋、まさか読めないの?」

「……」唇を噛んで黙り込む。

「なんて?」千紗さんがもう一度聞く。

「言葉を失ってる。」先輩が代わりに答える。

ふたり、声を殺して笑い出した。

「ちょ、笑いすぎですよ!」

顔が熱くなる。恥ずかしすぎる。

「いやいや、普通読めないよね、これ!」

「うう……」

笑いがようやく落ち着くと、先輩は胸元の名札を外して、別のものを貼り直した。

「はい、改めて。」

そこには──

橘凜

の文字。

「機会教育ってことでね。」千紗さんが笑いながら言う。

「これが彼女の本名。凜、よろしくね。」

「な、なんで隠してたんですか……」

「オーナーが賭けたのよ。真尋が先に読み方を当てるか、それとも“これ変な名前だな”って気づくか。」

凜さんが、古い名札を見せてくる。

「まあ、怒らないでよ。まさかここまで気にしないとは思わなかったから。」

千紗さんがあたしの頭をぽんぽんと叩いた。

「精神的ダメージが……大きいです。」

「じゃあ、精神的補償してあげる!」

「え、なにくれるんですか?」

「さあ? あたしも知らない。」

期待して損した……。

「ねえ、年越しって、みんな何か予定ある?」

千紗が突然そう言った。もう慣れたけど、背後から話しかけられると、やっぱりちょっとびっくりする。

「特にない。」凜がすぐ答える。

「真尋は?」

「うーん、まだ決めてないです。友達と何するかも話してなくて。」

そう言うと、千紗は「ふーん」と頷いて、「うちの店、あの日オールで開けるかも。オーナーがね、みんなの予定を聞いてみてって。」

あたしと凜は顔を見合わせた。どっちも無言。

少しして、凜が先に口を開く。

「私は大丈夫。」

「じゃあ、あたしは……友達に聞いてからでもいいですか?」

「もちろん。」千紗はにこにこしながら、「オーナー、なんか友達呼んでパーティーするらしいよ。」

「え、オーナーの友達?」

「うん。詳しくはあとでね、人が少なくなったら。」

千紗が厨房に戻ると、凜がぼそっと言った。

「オーナーの友達、海外にいる人しか知らないけど……」

「え、じゃあ誰だろう……あ、いや、考えないでおこう。」手でバツを作ると、凜がくすっと笑った。

六時を過ぎたころ、オーナーが店のドアに掛けられた「営業中」の札をひっくり返した。

「オーナー? どうしたんですか?」

「今気づいたんだけどさ、うちの店って、休憩時間が存在しなかったのよ!」

その顔、まるで浮気現場を見つけた妻みたいに真剣。

「……さすがです。」凜が無表情で言う。

「いやぁ、前に何時に休みにするか決めようって話したじゃない? 忘れてたのよね。」オーナーは凜の背中をぽんと叩いて、「明日からは三時〜五時休みにする!」と誇らしげに言った。

「で、今日は?」

「八時まで!」胸を張るオーナー。

「急だな……」凜が小声で呟き、あたしもつい笑ってしまった。

「なんか新しい趣味でも見つけたんじゃない?」凜が言う。

「趣味?」

「うん。前はね、突然千紗を店長にして“もうあたし出勤しないから”って言い出したんだよ。」

「え、それ……何があったんですか?」

「その時期、UFOキャッチャーにハマっててね。毎日行ってたの。で、店の飾りのぬいぐるみもほとんどそれ。」

指差した先の棚には、確かにクマやウサギやキャラもののぬいぐるみがずらり。

「しかも店長にバレて、毎日二時間だけって制限かけられたの。あの人、ほんと自由すぎるよ。」凜は笑いながら肩をすくめた。

「最近は?」

「新しいパソコン買って、ゲーム三昧。」

「……なるほど。」

そのとき、突然オーナーがカウンターの前に立ち、両手を広げて言った。

「はい! みなさん! 今からうちのかわいいスタッフたちはごはんを食べます! しばらく注文できませんので、ご了承ください!」

声も動きも大げさすぎて、まるで『タイタニック』のローズみたいだった。

千紗が持ってきたディナーをカウンターの裏に並べ、四人で座って食べる。目の前にはまだお客さん。

……うん、正直、めっちゃ気まずい。

「オーナー……」

小声で話しかけると、

「真尋。」

凜が「休憩中」の札をあたしの目の前に立てた。

「これでお客さん、あんたの顔見えないから。」

「ありがと……」

ちょっと落ち着いたけど、視線はやっぱり感じる。

そんな中、三人が同時に「ごちそうさま!」と皿を置いた。

「え、ちょ、もう終わったの!?」

慌ててステーキを一気に切って口に運ぼうとした瞬間——

「冗談だよ!」

オーナーがあたしの肩を押さえて止めた。

「慣れてね、真尋。うち、冗談多いから。」千紗が笑いながら座り直す。

「二人がね、特に。」凜が言って、オーナーと千紗を見た。

「オーナー……」

あたしは真剣な顔で言った。

「どうしたの?」

「精神的補償、ください。」

フォークをオーナーに向けると、三人同時に吹き出した。

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