第3話:バイトと、あの人と、あだ名戦争。
このところ、バイトと授業以外は特に話すこともなくて、まあ最初のころよりは慣れてきたかなって感じ。
「へえー、じゃあ本当にスタメン入ったんだ?」あたしはシェイカーを振りながら言った。
「うん、やっとね!」隼人が嬉しそうに答える。
「昨日からずっとそれ匂わせてたよね。」紗矢が隣の席でストローをいじりながら言う。
「新入生カップの試合に出るって言ってたし。」綾音がアイスを一口。
そう、三人とも大学に慣れたらそれぞれ忙しくなると思ってたのに、暇さえあれば全員でこのカフェに来る。
綾音と紗矢は授業の時間が同じだからわかるけど、隼人まで来るのはちょっと意外だった。
「あんたさー」あたしは彼の注文したドリンクを置いて言った。「練習行かなくていいの?」
「早く行ってもウォーミングアップだけだし。」彼は一口飲んで続けた。「てか、気づいてたくせに知らんふりしてたでしょ!」
あたしと紗矢は顔を見合わせて、同時に言う。「重要?」
隼人は口をすぼめてうなずいた。「さすがだね、二人とも。」
「でもね、スタメンおめでとうのプレゼント用意してるよ。」綾音がフォローするように言う。
「マジで?どしたの、二人とも風邪でもひいた?」隼人は驚いてあたしたちを見た。
「人聞き悪いこと言わないでよ。」紗矢が目で合図する。
「そうそう。」あたしは腰をかがめてショーケースから小さなケーキを取り出した。「はい、当店からのサービス。」
それはバレーボール型のミニケーキだった。
「真尋が作ったの!?」隼人が目を丸くする。
あたしは首を振った。「先輩が作ったの。」カウンターの方を見て「ありがとうございます、先輩!」と言う。
彼女はにっこり笑って、「千円」と言い、そのまま作業を続けた。
「そんな高いの!?」隼人はすでにフォークを持っている。
「あれ冗談だよ、たぶん……」と答えながら、あたしも内心ちょっと不安。
この先輩、けっこう個性的な人だ。でも別に怖いとかそういうんじゃなくて、ただ“自分のスタイル”があるだけ。初めて会ったときなんてゴシックメイクで出勤してきて、ちょっとビビった。
でも一緒に働くようになってからわかった。彼女はその日の気分でメイクを変えるタイプなんだ。
外見は綾音と同じくらいの背で、系統も似てて、かわいいタイプの女の子。
あたしが「先輩」って呼ぶ理由は、名前の漢字が読めないから。聞けばいいのはわかってるけど、今さら聞けないし、もう呼び方が定着してる。
「でもさ、なんで今日は三人そろって来たの?」あたしは尋ねた。
正直、話してるのは楽しいし、先輩もバイト中ちょっと話すくらいなら何も言わない。でも毎回だとさすがに悪い気がしてくる。
「ほんとに行くとこないんだもん。」紗矢が言った。
「あれ、サークル入るって言ってなかった?」あたしは洗い場に戻りながら聞く。
「行きたかったサークルにイケメンいなかったからやめた。」――まさに予想通りの理由。
「わたしも入りたいとこなかった。」綾音はショーケースのケーキをじっと見つめている。
最近気づいたけど、綾音は甘いものが大好きだ。こないだゴミをまとめてたとき、彼女の袋の中はお菓子の包み紙だらけだった。
「それって退屈じゃない?」隼人が言う。あたしもまったく同じこと思ってた。
「ダイエットの必要もないし、他のサークルも面白くなさそうだし。」紗矢はテーブルに突っ伏して、頬をぷくっと膨らませる。
「でもさ、サークルって大学の醍醐味じゃん。人間関係とか、協調性とか、そういうのも大事なんだぞ?」隼人が真面目に語る。
紗矢は顔を上げて、「あたしみたいな性格、サークル入ったら袋叩きにされるよ。」
「うん、それは同意。」あたしはグラスを洗いながら言った。やっと自覚したか、って感じ。
「わたしも意味のない付き合いとか、あんまり好きじゃない。」綾音がふと真顔になる。少し寂しそうなその表情に、あたしは彼女が過去にあまりいい思い出を持ってないんだろうと感じた。
「じゃあ学校行かない日は何してんの?」隼人が最後の一口を食べながら言う。
あのサイズのケーキ、四口で終わるはずなのに、彼はやけにゆっくり食べてた。
「真尋〜」先輩の声が飛んできた。
あたしは慌てて手を拭き、カウンターへ向かう。先輩はあたしより頭ひとつ低い。こないだ倉庫で箱を持ち上げるとき、思わず彼女の頭に手をついて体勢を直したことがある。
「どうしました、先輩?」
「アイスのブラックコーヒー、大きめ、砂糖なしで。」先輩は画面をタップしながら言った。
カウンターの前を見ると――また、あの人だった。
バイトを始めてからそんなに経ってないけど、あの男性はいつも決まった時間に来て、同じコーヒーを頼む。
「かしこまりました。」あたしはマシンの方へ向かう。
時計を見ると、ちょうど一時。
「やっぱり……この時間に来るんだ。」心の中でつぶやき、もう一度時計を確認。
「アイスブラックできましたー!」元気いっぱいの声で呼びかける。
その瞬間、彼と目が合った。
深くて、吸い込まれるような瞳。まるであたしの中身まで見透かされるような感覚。けど、どこかに物憂げな空気もあった。
「たぶん……三十歳くらい?」あたしは彼の年齢を心の中で予想した。
「ありがとうございます。」彼は静かに微笑む。
もしヒゲをちゃんと剃ってたら、あの笑顔、けっこう好きになってたかもしれない。
でも残念ながら、あたしはヒゲ男子に興味がない。
……なのに、目が離せなかった。
「いえ、どういたしまして。」思わず笑顔で返す。
彼は少し困ったように首をかしげた。「顔に、なんかついてます?」
そう言いながら、自分の頬を触って苦笑いした。「シェーバー壊れちゃって、新しいの買うの忘れたんですよ。」
「えっ……あ、え?」我に返った瞬間、顔が一気に熱くなる。
「い、いえ!すみません、ちょっとぼーっとしてただけです!」
あたしは慌てて頭を下げて、なんとか取り繕うように笑った。
彼は小さく笑って、「次はちゃんと整えてから来ますね。じゃあ、また。」
「……バイバイ。」あたしは彼の背中を見送りながら、心の中で転げ回った。恥ずかしすぎて死にたい。
「よっ。」
突然、肩をぽんっと叩かれた。
「えっ、先輩……?」
「よかったでしょ、今の人。」
「せ、先輩~~~……」あたしはもう床にしゃがみ込みたくなる。
「わたしも、けっこうタイプだと思うけどね。」先輩はにやっと笑って、ちょうど入ってきたお客さんに向かって声を張った。
「いらっしゃいませー!」
「誰にも言わないでくださいね!」
あたしはカウンターの奥に戻って、ドリンク台で次の注文を待つ。
「そんな暇ないよ。」先輩は肩をすくめて言うと、すぐに声のトーンを切り替えた。
「こんにちは、ご注文どうぞ。」
ほんと、この人のスイッチの切り替えの速さ、プロすぎる。
「フロートカフェラテ、黒糖プラス版で。テイクアウト。」
先輩が言いながらショーケースの方へ歩いていく。
――出た、Plus(プラス)版。
常連さんしか知らない裏メニューで、「入れられるもの全部入れといて」っていうやつ。
初出勤の二日目で理解した。
今日は黒糖ベースだから、黒糖Plus。
つまり、カロリー爆弾。
カップに蓋をして、受け渡し口に置く。
「フロートカフェラテ、黒糖P版できましたー!」
「はーい、袋に入れまーす。」先輩は笑顔で客のエコバッグにコーヒーとスイーツを入れる。
「ありがとうございましたー!」
客が出て行った瞬間、ピッ――と電子音が鳴った。
「真尋、友だちから注文入ったよ。」
先輩がモニターを見ながら言う。
「フロート抹茶スムージー、楓糖プラス版にブラックチョコのミルクレープ。」
先輩が注文内容を読み上げたあと、あたしの方をちらっと見た。
「……あの子、今日だけで三回目じゃない?」
「えっ、三回……?」
「すごいよね。甘党どころの話じゃないよ。」
先輩は呆れ半分、感心半分の顔。
もちろん“あの子”とは綾音のこと。
――まったく、どこにそんなに入るんだろう。
「仕方ないなぁ、あとでちゃんと注意しなきゃ。」あたしは小さくため息をついた。
「テーブル片づけといて。ドリンクはわたしがやるから。」
「了解です!」
エプロンの裾を整えて、あたしは三人の座っている席へ向かった。
氷のカランと鳴る音と、甘いシロップの香りが混ざる午後。
まさか大学生になって、こんなふうに働く自分を見るとは思わなかった。
「藤堂さん、今日ちょっと甘いもの食べすぎじゃない?」
トレイを持ちながら、あたしは真っ先に綾音の方を見た。
「え、えっと……でも、太らないから……」綾音はびくっとして、小さな声で言い訳する。
「えっ、ほんとだ。おまえ、今日三杯目じゃね?」隼人がようやく気づいて、笑いをこらえきれない様子で言った。
「女の子の“スイーツ胃袋”は別腹なの。」紗矢は淡々と紅茶をすすりながら言う。「でも綾音の場合、胃じゃなくて腸に直行ね。」
「ちょ、ちょっと!そんなことないし!」綾音は顔を真っ赤にして両手を振った。
「もう冗談だよ。」あたしは笑って手を振る。「糖分取りすぎると、ほんとに体に悪いからさ。」
「……じゃあ、水たくさん飲めば大丈夫?」隼人は焦って、自分のバッグからペットボトルを取り出して差し出した。
「わたし、逆にうらやましいけどな。あんなに食べられるなんて。」紗矢は自分のケーキを半分残したまま、それを綾音の前に押しやった。
まるで三人の大人が、泣きそうな子どもをなだめてるみたいだった。
「……もう、しょうがないなぁ。食べたいなら食べな。」
あたしは笑いながら言う。
「このケーキも食べていいよ。食べきれなかったらあげる。」紗矢も優しく言う。
ようやく綾音の表情がゆるんで、みんなでほっと息をついたその時。
「真尋ー。」
カウンターの方から、先輩の声が飛んできた。
「はいっ!」
あたしは手を拭いて、すぐ先輩のところへ駆け寄った。
先輩はあたしより頭ひとつ分くらい小さい。
この前、倉庫で一緒に箱を運んでたとき、うっかりその頭に肘を乗せちゃったのを思い出して、ちょっと気まずくなる。
「どうしました、先輩?」
「アイスのブラックコーヒー、大きめ、無糖で。」
パソコンの注文画面をタップしながら、先輩はさらっと言った。
あたしは視線を上げて、カウンターの向こうを見た。
……またあの人だ。
バイトを始めてから、まだそんなに日は経ってない。
だけど、この人だけはすぐに覚えた。
いつも同じ時間に来て、同じコーヒーを頼む。
まるで時計みたいに正確で、静かに、穏やかに――でも、ちょっとだけ寂しそうな横顔で。
ちらっと壁の時計を見る。
一時ちょうど。
「ほんとに……毎回この時間なんだ。」思わず小声でつぶやいた。
カップを準備して、氷を入れて、コーヒーを注ぐ。
「アイスブラック、Lサイズできましたー!」
できるだけ明るい声で呼びかける。
彼の視線と目が合った瞬間、心臓がドクンと鳴った。
あの深い目。まるで、こっちの心の奥まで見透かされるみたいで。
でも、不思議と怖くはなかった。むしろ少し、惹かれる。
「ありがとうございます。」
彼は優しく微笑む。その笑顔は静かで、どこか影がある。
――ヒゲさえなければ、たぶんあたしは落ちてた。
でも残念、今のところ“ヒゲ男子”は守備範囲外。
……なのに、目が離せない。完全に見すぎ。
「どうも……」あたしも微笑み返す。
「顔に、なにかついてます?」
え。
あたしが固まっていると、彼は頬に手をやって小さく笑った。
「シェーバー壊れちゃって、剃れなかったんですよ。」
「え、あ……は?」
頭が真っ白になった。――やばい、完全に見てたのバレた。
「す、すみません!ぼーっとしてただけで!」
慌てて頭を下げて、愛想笑いでごまかす。
彼は少し肩を揺らして笑ったあと、
「次はちゃんと整えてから来ますね。じゃあ、また。」
「……ばいばい。」
彼の背中がドアの向こうに消えていくのを見送りながら、あたしはもう顔から火が出そうだった。
――恥ずかしすぎて、ほんとに穴があったら入りたい。
「よっ。」
突然、肩をぽんっと叩かれた。
「えっ、せ、先輩!?」
「かっこよかったね、今の人。」
「や、やめてくださいよぉ……!」あたしは思わずその場にしゃがみ込みそうになる。
「わたしも、けっこうタイプだと思うけどね。」先輩はくすっと笑って、ちょうど入ってきたお客さんの方を向いた。
「いらっしゃいませー!」
「他の人には言わないでくださいね!」
あたしはカウンターの奥に戻って、ドリンク台の前に立つ。
「そんな暇ないよ。」
先輩は軽く笑って肩をすくめたかと思えば、すぐに声を張り上げた。
「こんにちはー、ご注文どうぞ。」
ほんとに、切り替えが神レベル。
「フロートカフェラテ、黒糖プラス版で。テイクアウト。」
先輩はオーダーを読み上げながら、スイーツのショーケースの方へ歩いていく。
――出た、黒糖Plus版。
常連さんしか知らない裏メニューで、要するに「トッピング全部のせて」っていう欲張り仕様。
初バイトの二日目で理解した。今日は黒糖ベースだから黒糖Plus。
氷を入れて、エスプレッソを注ぎ、ソフトクリームをのせて――
「フロートカフェラテ、黒糖P版できましたー!」
「はーい、こっちで袋に入れまーす。」
先輩は笑顔で言いながら、客のエコバッグにコーヒーとケーキを入れてあげた。
「ありがとうございましたー!」
ドアのベルがチリンと鳴り、店の中が少し静かになる。
あたしが片付けようとしたそのとき、
ピッ――とレジ横の端末が鳴った。
「真尋、友だちから注文入ったよ。」
先輩がディスプレイを覗き込みながら、少し面白そうな顔で言った。
「フロート抹茶スムージー、楓糖プラス版にブラックチョコのミルクレープ。」
先輩が注文内容を読み上げてから、あたしの方をちらっと見る。
「……あの子、今日だけで三回目じゃない?」
「え、三回目!?」
「うん。どんだけ甘党なんだろうね。」
先輩は笑いながら首をかしげた。
もちろん“あの子”っていうのは綾音のこと。
まったく、どこにそんなに入るんだろう。
「仕方ないなぁ、あとでちゃんと注意しなきゃ。」あたしは小さく息を吐いた。
「テーブル片づけお願い。ドリンクはわたしが作るから。」
「了解です!」
あたしはトレイを手に、三人のテーブルへ向かった。
「藤堂さん、今日ちょっと糖分摂りすぎじゃない?」
真っ先に綾音の前に立って言うと、彼女はびくっと肩を揺らした。
「え、えっと……でも太らないし……」
「え?ほんとだ、今日三杯目だよな?」隼人が笑いながら言う。
「女の子のスイーツ胃袋は別腹なの。」紗矢は紅茶を飲みながらさらっと言った。
「でも綾音の場合、胃じゃなくて腸に直行。」
「そ、そんなことないってば!」綾音は真っ赤になって両手を振る。
「冗談だって。」あたしは笑いながらフォローする。「でも、糖分取りすぎるとほんとに体に悪いよ。」
「じゃあ……水たくさん飲めばいい?」隼人は焦ってリュックからペットボトルを取り出した。
「わたしは逆に羨ましいけどな。あんなに食べられるなんて。」紗矢は食べかけのケーキを綾音の前に押しやった。
まるで三人の大人が、泣きそうな子どもをあやしてるみたい。
「もう、しょうがないなぁ。食べたいなら食べなよ。」あたしは微笑む。
「このケーキもあげる。食べきれなかったら残して。」紗矢も優しく言った。
ようやく綾音の表情がゆるんで、みんなでほっとしたその時――
「真尋~~。」
カウンターの方から、先輩の声が飛んできた。
「はいっ!」
あたしは手を拭いて、すぐに先輩のもとへ駆け寄った。
先輩はあたしより頭ひとつ分くらい小さい。
この前、倉庫で一緒に箱を運んだとき、うっかりその頭に肘を置いちゃったのを思い出して、ちょっと気まずくなる。
「どうしました、先輩?」
「アイスのブラックコーヒー、大きめ、無糖で。」
パソコンの注文画面を軽くタップしながら、先輩は言った。
あたしは視線を上げて、カウンターの向こうを見た。
……またあの人だ。
あの人は、いつも同じ時間に現れて、いつも同じものを頼む。
勤務を始めてからまだ日が浅いけど、それだけはすぐに覚えてしまった。
「はい、かしこまりました。」
あたしは答えて、コーヒーマシンの前へ。
時計を見ると、ちょうど一時。
「ほんとだ……やっぱりこの時間。」
小さくつぶやいてから、もう一度時計を確認する。
カップに氷を入れ、エスプレッソを注ぐ音が心地いい。
仕上げにフタをして、声を張った。
「アイスのブラックコーヒーできましたー!」
声をかけた瞬間、彼と目が合った。
その瞳は、深くて、まるであたしの中身まで見透かしてくるようだった。
けれど、どこか寂しげで、淡い影をまとっている。
――三十歳くらい、かな。
そんなことを考えながら、つい目を離せなくなってしまった。
「ありがとうございます。」
彼が静かに微笑む。
その笑顔は、もし無精ひげさえなければ、たぶんすごく好みだったと思う。
でも、あたしは今のところ“ヒゲ男子”に興味はない。
……なのに、見つめてしまう。
「い、いえっ。どうも……」あたしも慌てて笑顔を作る。
「えっと……顔に、何かついてます?」
そう言って彼は顎に手を当て、少し恥ずかしそうに笑った。
「シェーバー壊れちゃって、買い替えるの忘れてたんです。」
「えっ、あ、そうなんですか……」
はっと我に返る。今の自分、絶対失礼だった。
「す、すみません! ちょっとぼーっとしてて!」
ぺこぺこと頭を下げると、彼はまた笑って言った。
「次はちゃんと整えてから来ますね。それじゃ。」
「は、はい……」
背中がドアの向こうに消えていくのを見送るあたしの顔は、きっと真っ赤だった。
――刃物男はちょっと……。
「よっ。」
突然、肩をぽんっと叩かれた。
「ひゃっ……先輩っ!?」
振り返ると、先輩がニヤニヤしている。
「どう? イケメンだった?」
「せ、先輩……」あたしはその場にしゃがみ込みたくなった。
「わたしもけっこうタイプかも。」
先輩はさらっと言って、すぐに入口の方へ視線を向ける。
「いらっしゃいませー!」
あたしも慌てて顔を上げて、来店したお客さんに頭を下げた。
……もうどうでもいい。見られたのが先輩だけで、ほんとによかった。
「先輩、誰にも言っちゃダメですからね!」
あたしは小声で念を押した。
「そんな暇じゃないよ。」先輩は肩をすくめて、すぐに笑顔モードへ切り替わる。
ちょうど新しいお客さんが入ってきたところだった。
「こんにちは、ご注文お伺いします。」
あの瞬間の切り替えの速さ――
いつもながら、ほんと尊敬する。
あたしはそのまま横で手伝いながら、改めて思う。
――先輩、ほんとにすごい。
店に入ってきた人を一目見ただけで、「この人はテイクアウト」「この人は店内」って、即座に分かる。
前にコツを聞いたことがあるけど、「雰囲気」って一言で済まされた。
……いや、雰囲気って何!?
「フロートラテ、黒糖プラス版で。テイクアウトね。」
先輩は注文を受けながら、スイーツショーケースに向かって歩く。
“プラス版”っていうのは、常連さんだけが知ってる裏メニューみたいなもの。
なんでも、ベースの味にトッピングできるものを全部乗せるらしい。
たとえば黒糖プラス版なら、黒糖をベースにしていろんなトッピングを追加した特別仕様ってわけ。
カップにミルクとシロップを入れて、氷を落とす音が響く。
できあがったドリンクをトレーにのせて、あたしは声をかけた。
「フロートラテ、黒糖プラス版できましたー!」
「はい、ありがとうございます。袋に入れますね。」
お客さんがマイバッグを出すのを見て、あたしは手際よくコーヒーとスイーツを入れて渡した。
「ありがとうございました!」
「真尋。」
お客さんが出ていった後、先輩が小さく声をかけてくる。
「はい?」
「うちって、常連さん多いでしょ?」
「そうですね。たしかに同じ顔よく見ます。」
「でしょ? だってこの店、ちょっと奥まったとこにあるからね。」
先輩はくすっと笑った。
その時、注文端末からピピッと音が鳴る。
「……真尋の友達から注文入った。」
「え?」
先輩は画面を見て、眉を上げた。
「フロート抹茶スムージー、楓糖プラス版にブラックチョコのミルクレープ。……ねえ、この子、甘党すぎない?」
ああ、やっぱり綾音だ。
ほんと、この子の胃袋はどこまで無限なんだろう。
「じゃあ、テーブル片づけお願い。ドリンクはわたしが作る。」
「了解です!」
あたしはトレイを手に、三人のテーブルへ向かった。
「藤堂さん、今日ちょっと糖分取りすぎですよ?」
そう言うと、綾音はびくっとして目を丸くした。
「で、でも……太らないし……」
「え?ほんとだ、今日三杯目だよな?」隼人が呆れたように言う。
「女の子のスイーツ胃袋は別腹なの。」紗矢は紅茶をすすりながら言う。
「でも、綾音のは胃じゃなくて腸に直行。」
「そ、そんなことないもんっ!」綾音が真っ赤になって反論した。
「冗談冗談。」あたしは笑ってフォローする。「でも、甘いものの食べすぎはほんと体に悪いから。」
「じゃあ……水いっぱい飲めばいいの?」隼人は慌ててリュックからペットボトルを取り出す。
「むしろ羨ましいけどね、そんなに食べられるなんて。」紗矢は自分の前にあったケーキを綾音の前に押した。
まるで三人の大人が、泣きそうな子どもをあやしているみたいだった。
「もう、しょうがないなぁ。食べたいなら食べなよ。」あたしは微笑む。
「このケーキもあげる。食べきれなかったら残していいから。」紗矢も優しく言う。
ようやく綾音の表情がやわらいで、あたしたちはほっと息をついた。
「はぁ……食べたいだけ食べなよ、もう。」あたしは思わず笑ってしまう。
「このケーキも食べていいよ。残ったらあたしがもらうから。」紗矢は指でケーキを示す。
「そろそろ練習行かないと。」隼人がバッグを背負って立ち上がる。
けど――あたしはすかさずその腕をつかんだ。
「ちょっと待った、今さら逃げる気?」
「え、えっと……」隼人は困ったように笑って、あたしの後ろを指さす。
「真尋、先輩が見てる。」
その瞬間、あたしは条件反射みたいに振り返った。
隼人はその隙に、ものすごい速さで店を飛び出していった。
「飛んで逃げたの?」あたしは呆れながらつぶやく。
「真尋~。」
カウンターの方から、先輩の声が飛んできた。
「はいっ!」
慌てて走っていくと、先輩がカウンター越しに外を指さしていた。
「さっき出てった男の子、会計してないよ。」
「えっ……」
視線の先には、すでに遠ざかっていく隼人の背中。
先輩は微笑みながら、レジ横の札を指した。
そこには「当店ツケ禁止」と書かれている。
「あたし、あとで取りに行きます!」
「……まあ、いいか。オーナーもこのくらい気にしないだろ。」
「でも、気づけなかったのはあたしですから。」
「そう。じゃあ次から気をつけてね。」
午後一時を過ぎると、店は一気に忙しくなる。
けれど三時を過ぎるころには、客の波もすっと落ち着いて、
一人でも回せるくらいの静けさになる。
「おつかれさまー。」
「ありがとうございます、先輩。」
エプロンと帽子を外してテーブル席に戻ると、
綾音が紙ナプキンを差し出してくれた。
「帽子、蒸れるでしょ。」
「ほんと、それ! 頭がサウナ状態だよ!」
受け取って額を拭くと、紗矢がさりげなく首筋をタオルで拭いてくれる。
「ありがと、助かる。」
「ねえ、綾音。」紗矢が言う。「隼人、なんか話してた?」
「ん?どんな話?」
「あの、あだ名の件。」
「話したよ。でも、けっきょく決まんなかった。」
「ふーん……」あたしはコップの水を飲みながら頷いた。
「じゃあ、綾音的には、あたしと紗矢のあだ名、どう思う?」
綾音は少し考え込んでから、指を差した。
「真尋は“濡れティッシュ”、紗矢は“男の娘”。」
「は?」
「……なんで?」
「この前、隼人と一緒に考えたんだもん。」
「電話。」紗矢が即座に言った。「今すぐ本人に確認。」
「おっけー。」
電話をかけると、すぐに隼人が出た。
『何?』
「隼人!あだ名、決まったの?あたしたち、もう何日も待ってるんだけど!」
「スピーカー!スピーカーにして!」紗矢が急かす。
あたしは音量を少し下げてスピーカーにした。
『今、練習中なんだって!』
「そんなの知るか!」
『簡単に決まらないんだよ!』
「高嶺!」遠くから誰かが呼ぶ声。
『うるさい!あとで!じゃ!』
ツー、ツー……
「あーあ、期待して損した。」あたしはため息をつく。
「そもそも期待する方がおかしい。」紗矢は呆れ顔。
「まあ、別にあだ名なくてもいいんじゃな?」綾音がのんびり言う。
「で、“濡れティッシュ”ってどういう意味?」
「水吸ったらすぐ濡れるから。」
「やっぱり生理用品の発想じゃん。」紗矢がすぐ突っ込む。
「うるさいな、男の娘。」あたしも負けずに言い返した。
「じゃ、次は綾音の番ね。」紗矢が笑って言う。
「“無限胃袋”とかどう?」
「でも、ちゃんとお腹いっぱいにはなるよ?」
「じゃあ“アリ”とか。“ハエ”とか。」あたしも便乗する。
「もっとマシなのないの!?」綾音が涙目になって叫ぶ。
「諦めな。あたしも“男の娘”受け入れたし。」紗矢は涼しい顔。
「“スイーツキラー”とかどう?」
「……」あたしと紗矢は目を合わせ、同時に首を横に振った。
「ないわ。」
「絶対ない。」
それでも綾音は意外なほど食い下がる。
結局、スイーツキラーをめぐる話し合いは延々と続き、
三人とも飲み物が空になりかけたころ――
「これで“矮ちゃん”“男の娘”“濡れティッシュ”が決まったんだし、
残るは藤堂さんだけだね。」あたしは疲れた声で言った。
「じゃあさ、まず一個好きなの選んでよ。」紗矢が提案する。
「なんで?」
「あとであたしたちも選ぶから。」
「……じゃあ“スイーツキラー”で。」
「はい、あたし“豚ちゃん”。」
「じゃ、あたしも“豚ちゃん”。」
綾音の顔を見た瞬間、二人同時に吹き出した。
「咳っ。」紗矢が咳払いをして、スマホを取り出す。
「よし、矮ちゃんがどっち選ぶか聞こう。」
綾音は露骨に不安そうな顔をしたけど、もう後には引けない。
「ちっ、出ない。……ほんとタイミング悪いんだから。」
「練習中じゃない?」あたしが言う。
その直後、着信音の向こうで声がした。
『あー、はいはい。今出たよ。なに?』
「どっちか選んで。豚ちゃんかスイーツキラー。」
「は?なんの話?」
「いいから!早く!」
『……豚ちゃん。もう一回言わせたら学校でぶっ飛ばすぞ。』
「スピーカー!」あたしが慌てて言う。
『だからさ、それ何の話?』
「綾音のあだ名!」あたしが説明する。
『はぁ……にしても、センスなさすぎじゃない?』
「矮ちゃん、もう一度言うわ。」紗矢の声が低くなる。
『はいはい、分かったって。……スイーツキラーで。』
「……は?」
一瞬、空気が凍った。
「スイーツキラー……?」紗矢が復唱する。
その表情は一瞬驚いて、すぐに氷のように冷めた声になる。
「高嶺隼人、終わったわね。」
「死刑決定だね。」あたしもスマホを奪い取って言う。
『え、ちょ、なんで!?』
ブツッ。
通話終了。
「二対二かぁ。」あたしはうなだれる。
でも、どこか楽しそうな綾音の顔を見たら、もう怒る気にもならない。
その時、カウンターの奥から声がした。
「豚ちゃんに一票。」
「うわっ、オーナー!?」
「今の全部聞こえてたよ。豚ちゃんの方が可愛いじゃん。」
オーナーはリンゴをかじりながら、そのまま奥へ消えていった。
「オーナーの票は……反則かな?」綾音が首をかしげる。
「誠意次第。」紗矢が無表情で答える。
「じゃあ……映画おごる。」綾音は即座に手を差し出した。
「成立。」紗矢は握手して笑う。「真尋はバイトで来れないしね。」
「おい!」あたしは思わず突っ込んだ。
「じゃあ……最後の決定は“天の選択”で。」あたしはテーブルに残っていたプラカップを二つ並べた。
一本は綾音側、もう一本はあたし側に。
その真ん中にスプーンを立てる。
「こっちに倒れたら豚ちゃん。綾音側ならスイーツキラー。」
「ちょ、ちょっと待って!」綾音が人差し指を添える。
「紗矢も押さえて。ズル防止。」
「はいはい。」紗矢はあくびしながら指を乗せた。
「いい? 三、二、一で放すから。ズル禁止、やり直しなし。」
「ズルしたらどうなるの?」綾音がすかさず聞く。
「その瞬間、ショーケースのケーキ全部お買い上げ。」
「……」綾音は青ざめた顔でコクリと頷いた。
「スプーンだと傾くから、ストローにしようよ。」綾音が言う。
「女ってやつは……時間稼ぎの達人だね。」
「違うよ、そっちの方が正確じゃん。」綾音がストローを立てる。
「じゃ、ストロー採用。」紗矢があっさり賛成する。
「もう、分かったよ!」
準備完了。
「せーのっ!」
ストローがカランと音を立てて倒れた。
……綾音の方へ。
「……あんたのアイデア、ほんとクソだわ。」紗矢が呟く。
「うるさいな。映画タダで見れるんでしょ?」あたしは笑って綾音を見た。
綾音は嬉しそうに笑っている。
――まあ、こんな笑顔が見られるなら、どっちでもいいか。
でも、紗矢とあたしは同時に目を合わせて、にやりと笑った。
そう、“豚ちゃん”の名は、すでに公式登録済みだったのだ。
「ねぇ、さっきの男の人、誰?」紗矢がふいに聞いた。
「……見てたの?」あたしが小声で聞き返すと、
二人は同時にこくりと頷いた。
「ぷっ。」
カウンターの奥から、先輩の噴き出す声が聞こえた。
あたしは苦笑して、心の底から思った。
――知らない街に引っ越したい。
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