水
ヤマ
水
上司の言葉が、日常的に私を傷付ける。
「その顔じゃ、客先のウケ、悪いぞ」
「あいつの方が若いのに、今度結婚するんだってさ」
「お前は、まだ結婚しないの?」
容姿のこと、年齢のこと、私生活のこと――
本人は冗談のつもりらしいが、笑えない冗談ほど、人の心を疲弊させるものはない。
笑い混じりの声が、今日もフロアに響く。
同僚たちは苦笑いを浮かべ、何事もなかったかのように、書類に視線を落とす。
空気を乱したくないから、関わりたくないから、誰も止めない。
そんな空気に晒されながら、私だけが小さく笑う。
そのたびに、喉の奥がひりつき、空気が薄くなったように感じる。
それでも私は、笑って受け流した。
流すしか、なかった。
帰りの電車の中。
窓に映る自分の顔を見るたびに、削れていく心が、透けて見えるような気がした。
他の人たちは、どうやって、うまく受け流しているのだろう――
吊り革を握る手に、爪の跡が残る。
ディスプレイに流れる広告の文字が、どれも他人事のように霞んでいく。
器用さを身に付けられないまま、私は電車に揺られ続けた。
「終わったことなんだから、もう水に流せよ」
料理を作る私の後ろで、彼が言った。
数日前に分かった、裏切りについてだ。
彼は、「悪かった」とは、一言も言わないかった。
ただ、「もう過ぎたこと」だと、当然のように片付けようとしている。
包丁を握りしめたまま、私は押し黙る。
言葉が、どうしても出てこない。
そして、彼は安心したように、笑う。
私の沈黙を、いつものように、「許し」と勘違いして。
その笑顔を見たとき。
私の中で、何かが音を立てて、壊れた。
――加害者が「水に流せ」と言うのは、随分と都合が良い話では?
次の日は、休日。
私は、久し振りに車を出した。
目的地は、山奥にある、コテージのあるキャンプ場。
大学生の頃は、ソロキャンプなんかもしたことがあるくらい、アウトドアが好きだった。けれど、社会人になってからは、精神的にも時間的にも、そんな余裕がなくなっていた。
今回はコテージを借りることにしたが、次回はテントを張ってみよう――
昔を思い出したくて、私は車を走らせる。
秋の終わり。
道の両脇には、赤く染まった木々たち。
窓を開けると、冷たい風が髪を揺らした。
カーステレオから流れる、穏やかな曲が、心を少しずつ緩めていく。
到着した頃には、日が傾き始めていた。
受付でチェックインを済ませ、コテージに荷物を運び、夕食の準備をする。
蛇口から流れる、水の音。
包丁で、野菜を切る音。
フライパンで弾ける、油の音。
どれも、最近は気にも留めていなかった音をBGMにした。
一人の食事を終え、後片付けをしていると、外から水の音が聞こえた。
コテージの裏手に回ると、川が流れていた。
「……こんなのあったんだ」
川は、思ったより深く、流れが速い。
けれど、水は透き通っており、底までよく見える。
私は、適当な岩に腰を下ろし、ただ流れる水を見つめていた。
冷たい風が、頬を撫でる。
水面に映る夜空が、ゆらゆらと形を変えていく。
「はぁ……。なんか、浄化されそう」
思わず呟いた言葉も、水音に掻き消されていく。
深呼吸をすると、胸の奥の淀みが、少し軽くなる気がした。
あの上司の声も、彼の軽薄な笑顔も、遠くに流されていくような感覚。
この水が、何かを連れて行ってくれそうな、そんな予感。
そのとき、あるアイデアが閃いた。
「……あ、ちょうど良いかも」
私は、その思い付きを試してみることにした。
大きな水音が響き、頬に冷たい飛沫が当たる。
その冷たさに、鈍っていた感覚が蘇る。
冷水で顔を洗ったような、さっぱりとした感覚。
私は深く息を吸い、夜空を仰いだ。
満天の星の下。
丸い月が川面を照らし、白い光が揺らめいて、風が木々を渡り、葉がさざめく。
すべてが、穏やかだった。
嫌なものが、何もかも、水に流れていく。
肩の力が抜け、心が軽くなる。
その日は、久しぶりに、ぐっすりと眠ることができた。
タイマーを掛けず、自然に任せて、目を覚ます。
窓の外には、朝の気配がすでに広がっていた。
新しい一日が始まる。
心は、晴れ晴れとしていた。
驚くほど自然に、言葉が口を衝いて出る。
「やっと、流せた」
コテージの片付けをした後、受付でチェックアウトを済ませ、車に乗り込む。
キーを回すと、来たときよりも軽くなった車体に、エンジン音が響いた。
私は、清々しい気持ちで、「次は、上司も」と思った。
水 ヤマ @ymhr0926
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