第3話 寝床論争
夕食を終え、片づけも済んだ。
時計の針は十一時を回っている。
窓の外では神戸の街灯が、
雨上がりの路面をゆっくりと照らしていた。
遠くの道路を走る車のライトが、
アスファルトに細い光の帯を描いては消えていく。
静かな夜だった。
冷蔵庫の低い唸りと、換気扇の風切り音。
その隙間を埋めるように、
どこか遠くの電車の音がゆるやかに通り過ぎた。
直哉は座布団に腰を下ろし、
ちゃぶ台の上に残った湯気をぼんやりと眺めていた。
今日一日が、やけに濃かった気がする。
瑞稀と再会し、
アリサの新しい生活が始まり、
気を抜く暇がなかった。
「……なんか、すげぇ長い一日だったな」
ため息に近い声だった。
「そう感じるのは、環境の変化に伴う生理的反応ですね」
アリサの返答は、いつもどおり淡々としている。
流し台の前で、歯磨きコップを洗いながら、
水の音に負けない声量でそう言った。
「いや、今は分析じゃなくて共感がほしい」
「共感は、相手の情動に同調する行為です。
私にはまだ、その……習得段階で」
「いや、もうええわ。勉強中でいい」
小さく笑いながら、
直哉は頭を掻いた。
彼女の言葉には温度がない。
だが、温度がないぶん、変な安心感がある。
アリサは流しを拭き終えると、
こちらを振り返った。
白いTシャツに短パンという軽装。
濡れた髪をタオルで拭きながら、
まるで動物のように無防備な仕草で立っている。
直哉は視線をずらした。
無意識に、だ。
「そろそろ寝ますか?」
「……ああ」
「ベッドは一つでしたね」
「……ああ」
沈黙。
そして、嫌な予感。
「合理的に考えれば、共有が最適です」
「やっぱり出たな、その単語……」
「他に案がありますか?」
「俺が床で寝る」
「非効率です」
「非効率って言うな!」
アリサは首を傾げ、淡々と続ける。
「床で寝ると体温低下と筋肉痛のリスクがあります」
「人間ってのはな、リスクを背負ってでも守りたいもんがあるんだよ」
「睡眠の質より優先する価値ですか?」
「そういう詩的な言い回し、今はやめてくれ……」
直哉はため息をつき、押し入れから毛布を取り出した。
畳の上に広げると、
冬の夜気がじわりと背筋を刺した。
照明を落とすと、
部屋は琥珀色の薄闇に沈む。
神戸の街の明かりがカーテンの隙間からこぼれ、
床に淡い模様を描いている。
「俺はここで寝る。これで解決」
「解決していません」
「何が足りねぇんだよ……」
「あなたの行動は“回避”です」
「いやいや、違うから!」
「心理学的に言うと──」
「学術的解説いらん!」
小さな沈黙が落ちた。
アリサは俯きかけて、
ふと真っ直ぐ直哉を見た。
「私は、避けられるのが嫌です」
声は小さいが、どこか柔らかかった。
いつもの無表情に、
ほんのわずか、感情の輪郭が滲んでいる。
「……避けてるわけじゃない」
「では、なぜ隣に来ないのですか?」
「……」
「嫌われてはいないはずです」
「いや、まあ……そうだけど……」
「なら、問題はありません」
アリサは結論を出したように頷き、
ゆっくりと立ち上がった。
その仕草のどれもが静かで、
逆に心拍数が上がる。
フローリングが小さく軋み、
足音が二歩、三歩。
そして──
直哉の手首を、軽く取った。
「ま、待て! 話し合おう!」
「話し合いは終わりました」
「勝手に終わらせんな!」
ベッドの端が沈み、
柔らかいマットレスの感触が背中を包む。
アリサの髪が肩を滑り、
その香りがふわりと空気を揺らした。
「……なあアリサ。普通さ、男と女が一緒に寝るのって、色々あるだろ」
「“色々”の定義を明確にしていただけますか?」
「質問形式で返すなぁ!」
「あなたが曖昧にしたからです」
「ぐぬぬ……!」
アリサは真面目な顔で言う。
「あなたが不快でなければ、共有は合理的です」
「俺の精神が死ぬんだよ!」
「死亡の定義は──」
「やめろぉぉ!」
直哉の悲鳴をよそに、
アリサは静かに横になった。
彼女の髪が枕に散り、
まつげの影が頬に落ちている。
光の角度のせいで、
その横顔がほんの少しだけ年上に見えた。
「……寝たのか?」
「はい。寝たふりをしてみました」
「性格わるっ!」
「観察の一環です。あなたの反応は興味深い」
「観察すんなぁ!」
笑うに笑えないやり取りが続く。
けれど、どこか温かい。
直哉は頭を掻きながら、
毛布を引き寄せて体を横にした。
アリサはもう、ゆっくりとした呼吸に変わっている。
ほんとうに寝たのかもしれない。
整った呼吸音が、夜の静寂に同化していく。
その隣で、直哉は天井を見上げた。
薄暗い中で、街灯の光が揺らいでいる。
外は静かで、世界が一枚のフィルムのように止まっていた。
「……お前、ほんとマイペースだな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
言葉は空気に溶け、
アリサの寝息がその隙間を埋める。
直哉は目を閉じた。
遠くで電車の音がかすかに響く。
神戸の夜が、ゆっくりと沈んでいく。
──寝れるか、バカ。
その独り言を最後に、
静かな同居初夜は、更けていった
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近況ノートには挿し絵も載せています。
アリサの強情さを、一枚に切り取りました。
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