第4話 初めての朝と転入手続き

──甘い匂いがする。

なんだこれ、柔軟剤? それとも……。


ぼんやりとした意識の中で、直哉は妙に落ち着く寝心地を感じていた。

いつもなら寝返りのたびに軋むベッドが、今朝は静かだ。

温度も、呼吸も、やけに近い。


(……ん? 呼吸?)


目を開ける。

視界の中心に、整いすぎた顔があった。

アリサが目を閉じたまま、すぐ目の前にいる。

距離、十センチ。

呼吸が触れるほどの距離。


──!


一瞬で目が覚めた。

全システムが再起動。

現状把握。


軽く抱きつかれている。

アリサの腕が俺の肩に回っている。


(……おいおいおいおい)


どう見ても“添い寝”。

記憶を辿る。昨夜、あの理屈の嵐の末に「好きにしろ」と言った。

そして、こうなった。

好きにされた結果がこれだ。


起こそうと思ったその瞬間、

彼女の目尻に乾いた涙の跡が見えた。


動きが止まる。


無意識のうちに、直哉は静かに息を吐いた。

「……そうか、寝ながら泣いたのか」


無理に触れず、そっと腕を外してベッドを抜け出す。

時計を見ると、まだ七時前。

キッチンに向かい、冷蔵庫を開けた。


パン、卵、牛乳。

いつもの朝食メニューだ。

トースターの音が小さく響く。

カップを並べてコーヒーを淹れる頃、

ベッドから体を起こすのが見えた。


「……おはようございます」

「おう、おはよう。よく寝たな」

「寝坊しました。想定以上の寝心地の良さです」

「っ……!」


一撃だった。

寝心地が良かったのはこっちもだ。

でも言われるとどうにも複雑だ。


「……とりあえず、顔洗ってこい」

「はい」

「あとその、“寝心地”の話は家の外でしないようにな」

「なぜですか?」

「俺が社会的に死ぬ」


アリサは一瞬考え込み、首を傾げた。

「死とは不可逆的な現象ですが、比喩的意味ですか?」

「いいから、コーヒー淹れるから」


流しから水の音が聞こえる間に、

直哉は食パンにバターを塗り、目玉焼きを焼いた。


食卓についたアリサは、

パンをちぎりながら静かに尋ねる。


「今日は、どこへ行くのですか?」

「役所だ。転入届と住民票、それから健康保険の住所変更。

 それと、お前の学校への後見の挨拶もしておく」

「なるほど。社会的手続きですね」

「そういう言い方で合ってる」


* * *


午前九時。

神戸市役所・市民課。

窓口はまだ空いていて、処理は意外なほど早かった。


必要書類:

・転入届(旧住所の転出証明書を添付)

・マイナンバー確認(個人番号通知カード)


係員が手際よく確認を進める。

「市内間の手続きですので、今日で完了します」

「助かります」


直哉が頭を下げると、隣のアリサも素直に会釈した。


* * *


公立・須磨高校。

偏差値の高い進学校で、奇しくも直哉の母校。


職員室の前で、

直哉はアリサと並んで待っていた。


「……なんか懐かしいな」

「母校というのは、感情的な意味を持つ建物ですか?」

「まあ、そんな感じだな」


扉が開く。

四十代前半の男性教師が顔を出した。

清潔なワイシャツ姿。

状況は既に把握している目だった。


「佐藤さん、大丈夫でしたか」

「お世話になります」

「身元引受人の高瀬さんも、本日はありがとうございます。

 事情は少し前から聞き及んで心配していました。

 校内では共有済みです。できる限りフォローしますので安心してください」

「助かります」


必要な挨拶と確認事項を終え、廊下に出たところで、

後ろから懐かしい声がした。


「……あれ? 直哉君じゃない?」


振り返ると、若い頃の担任・森下先生。

少し白髪が増えたが、笑顔は変わらない。


「森下先生、まだいらしたんですね」

「“まだ”は余計よ。あなた、随分立派になったじゃない」

「立派かどうかは……微妙です」

「その子が、佐藤さん?」

「はい。恩人の娘さんです。少しの間、うちで預かります」

「そう。事情は聞いています。あの子、大変だったでしょう?」

「……まあ、少し」

「困ったことがあれば、私にも回して。担任にも伝えておくから」

「ありがとうございます」

「いけないことしたらダメだからね」


軽く睨まれながら言われる。


校門を出ると、夏の風が一段と強くなっていた。


「……あの人、昔から怖いんだよな」

「あなたがそう感じるなら、尊敬していたのでは?」

「そういう分析いらねぇ!」


アリサがわずかに口角を上げたように見えた。

直哉はその横顔を見ながら、

「……ま、順調に進んでよかったな」と呟いた。


「はい。あなたのおかげです」

「いや、まだ始まったばかりだ」


そのまま駅まで歩き、アリサを見送る。

彼女は振り返りもせず、まっすぐ前を見て歩く。


その背中を見ながら、直哉はひとつ伸びをした。


「……さて、俺も午後から仕事するか」


彼にとって、少しだけ世界が広くなった朝だった。

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