第21話 遙馬の過去—折れた場所と、逃げた日の記憶

 夜の森は、静かだった。


 輪の上を撫でる風は浅く、札は一度だけからりと鳴いて止まる。

 カイは小屋の前で丸まり、尻尾で地面をこつとときどき叩く。

 ユハは切り株の上で胸をもふと膨らませたまま、片目だけ閉じて眠っている。

 畝ではトオが半分だけ土に沈み、湿りの流れをぴとぴとと整えていた。


 アカアサは屋根の縁で、夜空を見上げている。


 星は数えるほどしか見えない。

 けれど、その少なさが、かえって落ち着かせてくれた。


(……眠れねえな)


 遙馬は、輪の内側に座って膝を抱えた。

 火の跡はもう冷めている。灰の下に、かすかに赤い点が残っているようにも見える。

 火も、無理に起こす気になれなかった。


 胸の奥が、じくじくと疼いていた。

 森に来てから、だいぶ薄れたはずの痛みが、今夜は妙に近い。


 屋根の上から、黒い影が静かに降りてくる。


 アカアサだ。

 羽ばたきは一度だけ。

 あとは風の層を滑るように、輪の端へ着地する。


 遙馬の横に、そっと立つ。

 押さない。

 包まない。

 ただ、そこに居る。


「……なあ、アカアサ。」


 遙馬は夜空を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。


「聞いてくれるか。」


 黒い大きな頭が、ゆっくりと傾く。

 喉の奥で、**「コロル」**と小さく鳴いた。


 ——話していい。

 そんな許しの音。


 遙馬は、ひとつ息を吐いた。


「俺さ。前は、“テイマー”だったんだよ。」



 最初に「ギルド」に拾われたのは、まだ十六のときだ。


 街の外れ。

 石と木と鉄で組んだ、薄暗い建物。

 表向きは“テイマー養成ギルド”と名乗っていたが、実態は——


「……便利な奴隷置き場だったな。」


 遙馬は苦々しく笑った。


 大きな檻が並んでいた。

 中には、牙や爪を持つ魔獣たち。

 暴れるもの、怯えるもの、諦めきった目をしたもの。


 餌やり。

 排泄物の片づけ。

 鎖の交換。

 噛まれた傷の手当。

 討伐から戻った隊の、血まみれの装備の洗浄。


 全部、新人の仕事だった。


 遙馬は、その中でも特に雑用の多いチームに回された。


「お前、“魔力持ち”なんだろ? 

 だったら現場より裏方がいいな。死なれたら損だし。」


 教官は冗談めかして笑っていたが、目は笑っていなかった。


 魔獣の鎖が切れかけても、修理の部品はケチられた。

 餌の質が悪くなれば、怒るのは当然、檻の中の連中だ。

 噛まれても、蹴られても、潰されかけても——


「自己責任だよ。テイマーなんだから。」


 そう言って、誰も守らなかった。



 それでも遙馬は、最初のうちは踏ん張った。


 魔獣の目を見るのが、怖くなかったからだ。


 暴れる牙の奥に、腹が減ったという訴えが見える。

 鎖を引きちぎろうとする爪の先には、「ここから出たい」が張りついている。


「……怒ってるんじゃなくてさ。

 ただ、怖いか、苦しいか、腹減ってるかだろ。」


 そう言って笑ったとき、同じ新人の一人が呆れたように言った。


「お前、変わってんな。

 魔獣なんて“道具”だろ。」


 その言葉に、遙馬はうまく笑えなかった。


 道具だと割り切れれば、もう少し楽だったのかもしれない。

 でも、できなかった。


 檻の前で、遙馬は“輪”を意識していた。

 まだこの頃は、それを輪とは呼べなかったけれど。


 ——ここから先は、噛ませない。

 ——ここから先は、怒らせない。


 そんな線を、自分の足元に静かに引いていた。


 その線の内側でだけ、魔獣の頭を撫でることを自分に許した。

 汚れた毛並みを梳き、傷のあるところをそっと避ける。

 それだけで、牙の先の震え方が少し変わるのがわかった。


 他の連中は、それをバカだと笑った。

 新人の中には、わざと檻を叩いて魔獣を怒らせる者もいた。


「こうすると、怖がってる奴らすぐ逃げるからさ。」

「ギルドの連中も、“お前らビビってんじゃねえよ”って笑って終わりだし。」


 檻を叩く音。

 魔獣の唸り声。

 遙馬は奥歯を噛みしめて、それでも口を出さなかった。


(俺が潰される)


 それがわかっていたからだ。



 そんな中でも、遙馬は“使える”と評価されていた。


 魔力の扱いがうまかった。

 魔獣の感情の波を読むのも、人より得意だった。


 興奮している時と、純粋に怯えている時の違い。

 牙の向きと、耳の角度。

 目の揺れ。


 それらを見れば、どこに立てば襲われないか、どこを撫でれば落ち着くか、わかった。


「ハルマ、お前、才覚あるな。」

 上のテイマーにそう言われた夜もある。


 だが、続く言葉は決まっていた。


「だから、もっと働けるだろ。」


 仕事は増えた。

 休みは減った。

 寝る時間は短くなった。


 過労で倒れた仲間もいた。

 そのたびに上の連中は言う。


「根性が足りなかったな。」

「代わりはいくらでもいる。」


 遙馬は、自分もいつかそう言われるのだろうと思っていた。


(でも、その前に——)


 心のどこかで、小さく願っていた。


 ——誰か、止めてくれないかな。



 決定的な事件は、突然降ってきた。


 ある夜、ギルドに新しい魔獣が運び込まれた。

 大きな獣だった。

 熊に似た、しかし背に岩のような殻を持つ魔獣。


 傷だらけで、足を引きずり、目は血走っている。

 討伐隊のひとりが肩を抑えながら笑っていた。


「暴れやがってよ。だが捕まえた。

 こいつ、売ればかなりになるぞ。」


 檻は狭すぎた。

 獣の体に対して、明らかに小さい。

 鎖も一本切れかけている。


「せめて鎖を換えませんか?」

 遙馬は言った。


 上のテイマーが鼻で笑う。


「明日、商人に渡すんだぞ?

 今から金かけてどうする。

 どうせ売った先で殺される。」


「でも、このままだと——」


「心配なら、お前が側で見張ってろよ。

 何かあったら、お前の責任だ。」


 そう言って、男は肩を竦めて去っていった。


 遙馬は檻の前に座り込んだ。


 獣は低く唸りながら、狭い空間の中で体勢を変えようとするたびに、

 鉄格子に肩をぶつけ、鎖がぎちぎちと悲鳴を上げた。


「……悪いな。」


 遙馬は、檻に近づきすぎない位置に“線”を引いた。

 自分の中の輪。


「俺、今はここまでしか行けない。

 行ったら、きっと潰されるからさ。」


 獣は、その線を見ているかのように、足を止めた。

 目だけが遙馬を見ていた。


 怒っている。

 苦しんでいる。

 でも——まだ折れていない。


(どうにか……したいよな)


 そう思いながら、夜は更けていった。



 事件が起きたのは、明け方だった。


 別の檻で騒ぎが起き、誰かがそちらへ走っていった。

 怒号。

 悲鳴。

 金属のぶつかる音。


 遙馬がそちらへ振り向いた一瞬——

 背後で、嫌な音がした。


 ばきん。


 鎖が折れる音。


 振り返ると、獣が鎖を引きちぎり、狭い檻の中で体を起こした瞬間だった。

 鉄格子が歪む。

 目には、もはや理性は残っていなかった。


(間に合わない)


 獣が飛び出す。

 遙馬の体が勝手に動いた。


 檻の前に飛び出したわけではない。

 自分の内側の線——輪の少し外。

 “ここから先は噛ませない”と思っていた地点。


 そこに立って、魔力を前に押し出す。


「——座れ!」


 叫んだ瞬間、空気が波打った。

 見えない壁が獣の足元を打ち、重さを下に引きずり落とす。


 獣は吠えながらも、その場でたたらを踏んだ。

 前足が滑り、体勢が崩れる。

 遙馬の額に冷や汗が滲む。


「頼む……止まってくれ。」


 魔力が軋む。

 心臓が怒鳴る。

 骨がきしむように痛い。


 それでも——獣は一歩だけ、前へ出た。


 その一歩が、壁をひしゃげる。

 見えない輪が、鋭い爪で引き裂かれる。


 次の瞬間、遙馬の頬の横を、爪が掠めた。

 熱いものが飛び散る。

 視界が赤く染まる。


「——っ!」


 倒れかけたとき、別の魔力が横から飛び込んできた。

 炎。

 熱。

 獣の毛並みが燃え、悲鳴が檻の並ぶ広間に響いた。


「お前、何やってんだ!」


 肩を乱暴に掴まれ、遙馬は地面に叩きつけられた。


 上司——ギルドの実働部隊長が、鬼のような顔で見下ろしていた。


「鎖を換えようって言ったのは俺です。」

 それでも遙馬は、なんとか声を絞り出した。

「狭すぎるから、せめて——」


「言い訳すんな。」


 平手が頬を打つ。

 さっき獣の爪に抉られた部分が、さらに焼けるように痛んだ。


「お前が見張ってるから大丈夫だって判断したんだよ。

 “才覚がある”“魔獣の気持ちが読める”って言うからな。」


 部隊長は、燃え尽きて倒れた獣の死骸を指さした。


「結局これだ。

 鎖は切れる。

 魔獣は暴れる。

 俺たちは燃やす。

 誰も助からない。」


 吐き捨てるように言い、目を細める。


「なあ、ハルマ。」


 その声には、奇妙な冷たさと、嘲りの色が混ざっていた。


「お前、ほんとに“人間”か?」


 遙馬の呼吸が、止まる。


「魔獣の目ばっか見てよ。

 あいつらの気持ちばっか考えてよ。

 傷がどうとか、狭いとか、痛いとか。

 人間の仲間が倒れてても、そっちは見ねえのか?」


 床には、他の新人の一人が倒れていた。

 獣が暴れたときに吹き飛ばされ、頭を打ったのだろう。

 誰かが慌てて手当をしている。


「“魔獣がかわいそうだ”か?」


 部隊長は、心底軽蔑したように笑った。


「だったらもう、お前、あいつらの檻ん中で暮らせよ。

 俺たちと同じ場所にはいらねえよ。

 ——人間じゃないからな。」


 その言葉が、遙馬の中の何かをばきんと折った。



 立ち上がれなかった。

 足に力が入らなかった。


 「人間じゃない」。


 それは、ののしりでも冗談でもなかった。

 このギルドにおいて、それは“仲間から外す”という宣告だった。


 誰も、否定しなかった。

 誰も、「そんなことない」と言ってくれなかった。

 新人たちは目を逸らし、上のテイマーたちは無表情だった。


(ああ)


 胸の奥で、何かが小さく笑った気がした。


(ここは、

 もともと“俺の座る場所”じゃなかったんだな)


 気づいたら、遙馬はギルドを出ていた。


 どこをどう歩いたのか、覚えていない。

 宿舎に戻ったのか、荷物をまとめたのか、誰かと言葉を交わしたのか。


 何も覚えていなかった。


 ただ——

 気がつくと、森の入口に立っていた。



「……それが、俺の“逃げた日”だ。」


 遙馬は輪の中で膝を抱えたまま、夜空を見上げた。


「奴らにそう言われたとき、

 否定できなかったんだよ。」


 魔獣の側につく自分。

 人間の側に立てない自分。

 どっちを選ぶか迫られたとき、

 人間のほうを選べなかった自分。


「“人間じゃないな”って。

 そうだな、って思っちまった。」


 喉の奥が焼ける。

 涙は出ない。

 ただ、火傷したみたいに痛い。


「だから、逃げた。

 ギルドも、街も、あいつらも、全部。」


 静寂が落ちた。


 しばらくのあいだ、森の音だけが耳に入る。

 虫の声。

 遠くの鳥の鳴き声。

 風が枝を撫でる微かな音。


 その静けさの中で、アカアサがそっと動いた。


 大きな黒い翼が、遙馬の肩にぴとと触れる。

 押さない。

 覆い隠さない。

 ただ、そこにいる重さだけを置く。


「……お前はさ。」


 遙馬は笑った。

 今度の笑いは、少しだけ穏やかだった。


「最初から、俺を“人間だ”とも“人間じゃない”とも言わなかったな。」


 アカアサは喉をコロルと鳴らした。

 その響きは、「知ってるよ」とも、「どっちでもいいよ」とも聞こえた。


 カイが遙馬の足元に頭を押し当てる。

 ユハが切り株の上で胸をもふっと大きく膨らませ、「ル」と短く鳴く。

 トオは土から半分だけ姿を出し、輪の中の地面を丁寧に均した。


「森はさ。」

 遙馬はゆっくりと言った。


「“人間かどうか”なんて、全然気にしてないんだよな。

 怒るかどうかと、押すかどうかと、座れるかどうかしか見てない。」


 だから、ここに来てから——

 ようやく自分で、自分に言えたのだ。


 ——生きていていい。


「テイマーは、もうやめた。

 でも——」


 遙馬は、アカアサの黒い翼を見上げる。


「お前たちと一緒に暮らすことは、やめない。

 たぶんそれは、“人間じゃない”とかじゃなくてさ。

 俺が俺でいるために必要なことなんだと思う。」


 アカアサは、ゆっくりと翼を畳んだ。

 その先端が、遙馬の肩からそっと離れ、

 かわりに大きなくちばしが、頭の上を軽くこつんと小突いた。


「……いていい、ってことか?」


 問いかけると、喉の奥から**「コロル」と返事が落ちてくる。

 輪の札が、夜風に揺れてからり**と鳴いた。


 森は、怒らない。

 森は、人間かどうかを聞かない。

 森は、「ここで息をしていいかどうか」だけを見ている。


 輪の中で、遙馬は深く息を吸った。

 胸の奥の古い傷が、まだうずく。

 けれど、その傷の上に、黒い翼と土と風と、もふもふした胸と、温かい尻尾が重なっていく。


「……なあ、アカアサ。」


 夜空に向けて、もう一度だけ口を開く。


「俺さ。

 ここで、もう一回“テイマー”やり直してもいいかな。

 ギルドのじゃなくて、輪のテイマー。

 人と森と、お前たちの間に線を引く役。」


 アカアサは、今度ははっきりと翼を広げた。

 月の光を少しだけ受けて、黒い面が夜空に浮かぶ。


 喉の奥から、長く、低い声がこぼれた。


 「——カァ」


 森のどこかで、風がうんと頷いた。

 畝の土がぴとと鳴り、札がからりと揺れる。


 輪は、静かに答えていた。


 ——ここに座っていていい。

 ——ここで息をしていていい。

 ——お前が線を引くなら、その輪を一緒に守ろう。


 遙馬は、ようやく少しだけ笑った。


「……そっか。」


 夜はさらに深くなり、森の音は優しくなっていく。


 折れた輪の記憶は消えない。

 ギルドで言われた言葉も、今も胸の奥に棘のように残っている。


 けれど、その棘の周りに、

 少しずつ、あたたかいものが積もっていく。


 黒い翼。

 土の匂い。

 湿りの音。

 もふもふした胸。

 尻尾のこつこつという印。


 そのすべてが、「ここで生き直せ」と囁いている。


 遙馬は輪の中で、静かに目を閉じた。


 眠りは浅いかもしれない。

 でも、今夜の眠りは——

 あのギルドで倒れ込んだあの夜より、

 ずっと、やさしい。

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