第21話 遙馬の過去—折れた場所と、逃げた日の記憶
夜の森は、静かだった。
輪の上を撫でる風は浅く、札は一度だけからりと鳴いて止まる。
カイは小屋の前で丸まり、尻尾で地面をこつとときどき叩く。
ユハは切り株の上で胸をもふと膨らませたまま、片目だけ閉じて眠っている。
畝ではトオが半分だけ土に沈み、湿りの流れをぴとぴとと整えていた。
アカアサは屋根の縁で、夜空を見上げている。
星は数えるほどしか見えない。
けれど、その少なさが、かえって落ち着かせてくれた。
(……眠れねえな)
遙馬は、輪の内側に座って膝を抱えた。
火の跡はもう冷めている。灰の下に、かすかに赤い点が残っているようにも見える。
火も、無理に起こす気になれなかった。
胸の奥が、じくじくと疼いていた。
森に来てから、だいぶ薄れたはずの痛みが、今夜は妙に近い。
屋根の上から、黒い影が静かに降りてくる。
アカアサだ。
羽ばたきは一度だけ。
あとは風の層を滑るように、輪の端へ着地する。
遙馬の横に、そっと立つ。
押さない。
包まない。
ただ、そこに居る。
「……なあ、アカアサ。」
遙馬は夜空を見上げたまま、ぽつりと口を開いた。
「聞いてくれるか。」
黒い大きな頭が、ゆっくりと傾く。
喉の奥で、**「コロル」**と小さく鳴いた。
——話していい。
そんな許しの音。
遙馬は、ひとつ息を吐いた。
「俺さ。前は、“テイマー”だったんだよ。」
◇
最初に「ギルド」に拾われたのは、まだ十六のときだ。
街の外れ。
石と木と鉄で組んだ、薄暗い建物。
表向きは“テイマー養成ギルド”と名乗っていたが、実態は——
「……便利な奴隷置き場だったな。」
遙馬は苦々しく笑った。
大きな檻が並んでいた。
中には、牙や爪を持つ魔獣たち。
暴れるもの、怯えるもの、諦めきった目をしたもの。
餌やり。
排泄物の片づけ。
鎖の交換。
噛まれた傷の手当。
討伐から戻った隊の、血まみれの装備の洗浄。
全部、新人の仕事だった。
遙馬は、その中でも特に雑用の多いチームに回された。
「お前、“魔力持ち”なんだろ?
だったら現場より裏方がいいな。死なれたら損だし。」
教官は冗談めかして笑っていたが、目は笑っていなかった。
魔獣の鎖が切れかけても、修理の部品はケチられた。
餌の質が悪くなれば、怒るのは当然、檻の中の連中だ。
噛まれても、蹴られても、潰されかけても——
「自己責任だよ。テイマーなんだから。」
そう言って、誰も守らなかった。
◇
それでも遙馬は、最初のうちは踏ん張った。
魔獣の目を見るのが、怖くなかったからだ。
暴れる牙の奥に、腹が減ったという訴えが見える。
鎖を引きちぎろうとする爪の先には、「ここから出たい」が張りついている。
「……怒ってるんじゃなくてさ。
ただ、怖いか、苦しいか、腹減ってるかだろ。」
そう言って笑ったとき、同じ新人の一人が呆れたように言った。
「お前、変わってんな。
魔獣なんて“道具”だろ。」
その言葉に、遙馬はうまく笑えなかった。
道具だと割り切れれば、もう少し楽だったのかもしれない。
でも、できなかった。
檻の前で、遙馬は“輪”を意識していた。
まだこの頃は、それを輪とは呼べなかったけれど。
——ここから先は、噛ませない。
——ここから先は、怒らせない。
そんな線を、自分の足元に静かに引いていた。
その線の内側でだけ、魔獣の頭を撫でることを自分に許した。
汚れた毛並みを梳き、傷のあるところをそっと避ける。
それだけで、牙の先の震え方が少し変わるのがわかった。
他の連中は、それをバカだと笑った。
新人の中には、わざと檻を叩いて魔獣を怒らせる者もいた。
「こうすると、怖がってる奴らすぐ逃げるからさ。」
「ギルドの連中も、“お前らビビってんじゃねえよ”って笑って終わりだし。」
檻を叩く音。
魔獣の唸り声。
遙馬は奥歯を噛みしめて、それでも口を出さなかった。
(俺が潰される)
それがわかっていたからだ。
◇
そんな中でも、遙馬は“使える”と評価されていた。
魔力の扱いがうまかった。
魔獣の感情の波を読むのも、人より得意だった。
興奮している時と、純粋に怯えている時の違い。
牙の向きと、耳の角度。
目の揺れ。
それらを見れば、どこに立てば襲われないか、どこを撫でれば落ち着くか、わかった。
「ハルマ、お前、才覚あるな。」
上のテイマーにそう言われた夜もある。
だが、続く言葉は決まっていた。
「だから、もっと働けるだろ。」
仕事は増えた。
休みは減った。
寝る時間は短くなった。
過労で倒れた仲間もいた。
そのたびに上の連中は言う。
「根性が足りなかったな。」
「代わりはいくらでもいる。」
遙馬は、自分もいつかそう言われるのだろうと思っていた。
(でも、その前に——)
心のどこかで、小さく願っていた。
——誰か、止めてくれないかな。
◇
決定的な事件は、突然降ってきた。
ある夜、ギルドに新しい魔獣が運び込まれた。
大きな獣だった。
熊に似た、しかし背に岩のような殻を持つ魔獣。
傷だらけで、足を引きずり、目は血走っている。
討伐隊のひとりが肩を抑えながら笑っていた。
「暴れやがってよ。だが捕まえた。
こいつ、売ればかなりになるぞ。」
檻は狭すぎた。
獣の体に対して、明らかに小さい。
鎖も一本切れかけている。
「せめて鎖を換えませんか?」
遙馬は言った。
上のテイマーが鼻で笑う。
「明日、商人に渡すんだぞ?
今から金かけてどうする。
どうせ売った先で殺される。」
「でも、このままだと——」
「心配なら、お前が側で見張ってろよ。
何かあったら、お前の責任だ。」
そう言って、男は肩を竦めて去っていった。
遙馬は檻の前に座り込んだ。
獣は低く唸りながら、狭い空間の中で体勢を変えようとするたびに、
鉄格子に肩をぶつけ、鎖がぎちぎちと悲鳴を上げた。
「……悪いな。」
遙馬は、檻に近づきすぎない位置に“線”を引いた。
自分の中の輪。
「俺、今はここまでしか行けない。
行ったら、きっと潰されるからさ。」
獣は、その線を見ているかのように、足を止めた。
目だけが遙馬を見ていた。
怒っている。
苦しんでいる。
でも——まだ折れていない。
(どうにか……したいよな)
そう思いながら、夜は更けていった。
◇
事件が起きたのは、明け方だった。
別の檻で騒ぎが起き、誰かがそちらへ走っていった。
怒号。
悲鳴。
金属のぶつかる音。
遙馬がそちらへ振り向いた一瞬——
背後で、嫌な音がした。
ばきん。
鎖が折れる音。
振り返ると、獣が鎖を引きちぎり、狭い檻の中で体を起こした瞬間だった。
鉄格子が歪む。
目には、もはや理性は残っていなかった。
(間に合わない)
獣が飛び出す。
遙馬の体が勝手に動いた。
檻の前に飛び出したわけではない。
自分の内側の線——輪の少し外。
“ここから先は噛ませない”と思っていた地点。
そこに立って、魔力を前に押し出す。
「——座れ!」
叫んだ瞬間、空気が波打った。
見えない壁が獣の足元を打ち、重さを下に引きずり落とす。
獣は吠えながらも、その場でたたらを踏んだ。
前足が滑り、体勢が崩れる。
遙馬の額に冷や汗が滲む。
「頼む……止まってくれ。」
魔力が軋む。
心臓が怒鳴る。
骨がきしむように痛い。
それでも——獣は一歩だけ、前へ出た。
その一歩が、壁をひしゃげる。
見えない輪が、鋭い爪で引き裂かれる。
次の瞬間、遙馬の頬の横を、爪が掠めた。
熱いものが飛び散る。
視界が赤く染まる。
「——っ!」
倒れかけたとき、別の魔力が横から飛び込んできた。
炎。
熱。
獣の毛並みが燃え、悲鳴が檻の並ぶ広間に響いた。
「お前、何やってんだ!」
肩を乱暴に掴まれ、遙馬は地面に叩きつけられた。
上司——ギルドの実働部隊長が、鬼のような顔で見下ろしていた。
「鎖を換えようって言ったのは俺です。」
それでも遙馬は、なんとか声を絞り出した。
「狭すぎるから、せめて——」
「言い訳すんな。」
平手が頬を打つ。
さっき獣の爪に抉られた部分が、さらに焼けるように痛んだ。
「お前が見張ってるから大丈夫だって判断したんだよ。
“才覚がある”“魔獣の気持ちが読める”って言うからな。」
部隊長は、燃え尽きて倒れた獣の死骸を指さした。
「結局これだ。
鎖は切れる。
魔獣は暴れる。
俺たちは燃やす。
誰も助からない。」
吐き捨てるように言い、目を細める。
「なあ、ハルマ。」
その声には、奇妙な冷たさと、嘲りの色が混ざっていた。
「お前、ほんとに“人間”か?」
遙馬の呼吸が、止まる。
「魔獣の目ばっか見てよ。
あいつらの気持ちばっか考えてよ。
傷がどうとか、狭いとか、痛いとか。
人間の仲間が倒れてても、そっちは見ねえのか?」
床には、他の新人の一人が倒れていた。
獣が暴れたときに吹き飛ばされ、頭を打ったのだろう。
誰かが慌てて手当をしている。
「“魔獣がかわいそうだ”か?」
部隊長は、心底軽蔑したように笑った。
「だったらもう、お前、あいつらの檻ん中で暮らせよ。
俺たちと同じ場所にはいらねえよ。
——人間じゃないからな。」
その言葉が、遙馬の中の何かをばきんと折った。
◇
立ち上がれなかった。
足に力が入らなかった。
「人間じゃない」。
それは、ののしりでも冗談でもなかった。
このギルドにおいて、それは“仲間から外す”という宣告だった。
誰も、否定しなかった。
誰も、「そんなことない」と言ってくれなかった。
新人たちは目を逸らし、上のテイマーたちは無表情だった。
(ああ)
胸の奥で、何かが小さく笑った気がした。
(ここは、
もともと“俺の座る場所”じゃなかったんだな)
気づいたら、遙馬はギルドを出ていた。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
宿舎に戻ったのか、荷物をまとめたのか、誰かと言葉を交わしたのか。
何も覚えていなかった。
ただ——
気がつくと、森の入口に立っていた。
◇
「……それが、俺の“逃げた日”だ。」
遙馬は輪の中で膝を抱えたまま、夜空を見上げた。
「奴らにそう言われたとき、
否定できなかったんだよ。」
魔獣の側につく自分。
人間の側に立てない自分。
どっちを選ぶか迫られたとき、
人間のほうを選べなかった自分。
「“人間じゃないな”って。
そうだな、って思っちまった。」
喉の奥が焼ける。
涙は出ない。
ただ、火傷したみたいに痛い。
「だから、逃げた。
ギルドも、街も、あいつらも、全部。」
静寂が落ちた。
しばらくのあいだ、森の音だけが耳に入る。
虫の声。
遠くの鳥の鳴き声。
風が枝を撫でる微かな音。
その静けさの中で、アカアサがそっと動いた。
大きな黒い翼が、遙馬の肩にぴとと触れる。
押さない。
覆い隠さない。
ただ、そこにいる重さだけを置く。
「……お前はさ。」
遙馬は笑った。
今度の笑いは、少しだけ穏やかだった。
「最初から、俺を“人間だ”とも“人間じゃない”とも言わなかったな。」
アカアサは喉をコロルと鳴らした。
その響きは、「知ってるよ」とも、「どっちでもいいよ」とも聞こえた。
カイが遙馬の足元に頭を押し当てる。
ユハが切り株の上で胸をもふっと大きく膨らませ、「ル」と短く鳴く。
トオは土から半分だけ姿を出し、輪の中の地面を丁寧に均した。
「森はさ。」
遙馬はゆっくりと言った。
「“人間かどうか”なんて、全然気にしてないんだよな。
怒るかどうかと、押すかどうかと、座れるかどうかしか見てない。」
だから、ここに来てから——
ようやく自分で、自分に言えたのだ。
——生きていていい。
「テイマーは、もうやめた。
でも——」
遙馬は、アカアサの黒い翼を見上げる。
「お前たちと一緒に暮らすことは、やめない。
たぶんそれは、“人間じゃない”とかじゃなくてさ。
俺が俺でいるために必要なことなんだと思う。」
アカアサは、ゆっくりと翼を畳んだ。
その先端が、遙馬の肩からそっと離れ、
かわりに大きなくちばしが、頭の上を軽くこつんと小突いた。
「……いていい、ってことか?」
問いかけると、喉の奥から**「コロル」と返事が落ちてくる。
輪の札が、夜風に揺れてからり**と鳴いた。
森は、怒らない。
森は、人間かどうかを聞かない。
森は、「ここで息をしていいかどうか」だけを見ている。
輪の中で、遙馬は深く息を吸った。
胸の奥の古い傷が、まだうずく。
けれど、その傷の上に、黒い翼と土と風と、もふもふした胸と、温かい尻尾が重なっていく。
「……なあ、アカアサ。」
夜空に向けて、もう一度だけ口を開く。
「俺さ。
ここで、もう一回“テイマー”やり直してもいいかな。
ギルドのじゃなくて、輪のテイマー。
人と森と、お前たちの間に線を引く役。」
アカアサは、今度ははっきりと翼を広げた。
月の光を少しだけ受けて、黒い面が夜空に浮かぶ。
喉の奥から、長く、低い声がこぼれた。
「——カァ」
森のどこかで、風がうんと頷いた。
畝の土がぴとと鳴り、札がからりと揺れる。
輪は、静かに答えていた。
——ここに座っていていい。
——ここで息をしていていい。
——お前が線を引くなら、その輪を一緒に守ろう。
遙馬は、ようやく少しだけ笑った。
「……そっか。」
夜はさらに深くなり、森の音は優しくなっていく。
折れた輪の記憶は消えない。
ギルドで言われた言葉も、今も胸の奥に棘のように残っている。
けれど、その棘の周りに、
少しずつ、あたたかいものが積もっていく。
黒い翼。
土の匂い。
湿りの音。
もふもふした胸。
尻尾のこつこつという印。
そのすべてが、「ここで生き直せ」と囁いている。
遙馬は輪の中で、静かに目を閉じた。
眠りは浅いかもしれない。
でも、今夜の眠りは——
あのギルドで倒れ込んだあの夜より、
ずっと、やさしい。
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