第20話 風の名、森の名を呼ぶ場所
朝の白は、いつもより少しだけ重かった。
札がからりと鳴る。
一度、間をおいて、もう一度。
輪の上を通る風の層が、低いところでたわんでいる。
冬の前ぶれのような冷たさではない。
けれど、どこか“決めなければならないこと”を連れてくる風だった。
屋根の縁に立つアカアサが、翼の面を少し大きめに広げる。
黒い羽の縁が、朝の薄い光を受けて、かすかに青く光った。
翼の筋肉がひとつ、ゆっくりとしなる。
(……空が、考えてるな)
遙馬は小屋の前に出て、ひと呼吸だけ深く吸った。
燻棚はまだ眠っている。
煙壺はぬるく、火の残り香だけを抱いていた。
足元でカイがひとつあくびをし、尻尾で地面をこつと軽く叩く。
ユハは切り株の上で胸をもふっと膨らませ、まだ眠たそうな目で空をにらむ。
畝の端では、土の子トオがのそりと身を起こし、土をぴとと叩いては湿りの流れを確認していた。
「……風の匂いが変わってるな。」
遙馬がぽつりと言うと、アカアサが喉の奥でコロルと鳴く。
それは、「そうだ」の音。
空には白い筋が一本、ゆっくりと伸びていた。
空鯨が縫っていった帯とは違う。
もっと細く、もっと低く、もっと——森の息に近い高さだ。
「誰か来る。そんな風だな。」
カイが鼻をひくひくと動かし、輪の外の道の方へ顔を向けた。
ユハは羽を少しだけすぼめ、切り株の縁に爪をひっかける。
トオは畝の端に、もうひとつ小さな溝を開け、湿りを輪の内側へ優しく回した。
「煙は、まだ上げないでおこう。」
遙馬はそう決めて、焚き火台の上に手をかざす。
灰は冷めているが、指先には、昨夜までのあたたかさがわずかに残っていた。
——輪を、先に整える。
それが、この森での暮らしの“朝一番の仕事”になりつつある。
ひさしの柱にかけてある札が、風に揺れてからりと鳴った。
輪の内と外を、誰にも見えない線でやわらかく区切る音。
「よし。あとは、来るのを待とう。」
遙馬が腰を伸ばしたそのときだった。
道の方から、足音が三つ。
昨日の子どもたちの軽さとは違う、少し重みのある音が、間を取りながら近づいてくる。
◇
輪の前で足音が止まった。
現れたのは、石工の少年の父親、陶工の少女の母親、そして村の古老のひとりだった。
三人とも、やはり輪を跨がない。
ひさしの影の手前で立ち止まり、札と輪の位置を一度だけじっと見た。
「……お邪魔してる、かもしれん。」
最初に口を開いたのは、石工の父親だった。
肩幅の広い体を少しだけ丸くし、帽子を取って胸の前でぎゅっと握る。
「うちの子が、昨日帰ってきてさ。」
彼は言った。
「ここを、“あったかい場所”って言うもんだから。」
横で、陶工の母親が頷いた。
髪を布でまとめ、腰には素焼きの小さな器が下がっている。
「『怒らない場所だった』ってね。」
彼女は、どこか不思議そうな声で続ける。
「それがどういう意味か、ちゃんと確かめに来たの。」
古老は何も言わない。
ただ、輪の線と土の色、それからアカアサたちの立ち位置を、一つひとつ読み取っていた。
目の奥の皺が、笑いにも怒りにもならないまま、ゆっくりと深くなる。
遙馬は、輪の内側から一歩だけ近づいた。
札の陰と、輪の影のちょうど境目に立つ。
「来てくれて、ありがとうございます。」
彼は深く頭を下げる代わりに、土に視線を落とした。
ここで、頭をさげすぎると、輪が“へりくだりの場”になってしまうからだ。
「ここは、森と村の間に置きたい場所です。
誰かが疲れたとき、怒りを下ろしたいとき、悲しいとき。
森にも村にも入らずに、一度座って息を整えられるように——」
そこまで言うと、石工の父親が小さく息を吐いた。
「……欲しかったんだよ、そういうとこがな。」
その声には、悔しさと、諦めと、少しの安堵が混ざっていた。
「村の中で“怒っちゃダメな場所”って、家か、神様の前ぐらいだろ。」
陶工の母親が、苦笑いをする。
「でも、家でだって、怒鳴っちゃうときはある。
……だから、外にひとつ、“怒らない場所”があるといい。」
古老が、ようやく口を開いた。
「“輪”というのは、元々は村の真ん中に置いてきたもんじゃ。
昔の話だがな。」
ゆっくりとした声で言う。
「けれど、世が変わって、真ん中はすっかり忙しうなった。
誰も座らなくなった輪は、いつのまにか跡形もなく消えた。」
古老の目が、遙馬を映す。
「……森の中に、もう一度輪を置いてくれたか。」
「置かせてもらってるだけです。」
遙馬は首を振った。
アカアサが屋根の上から見下ろさないように首を少し下げ、視線の角度を合わせてくる。
カイは足元で、尻尾で地面をこつと一打。
ユハは胸を張ってルと鳴き、トオは畝の端でぴとと土を叩いた。
「ここは、怒らない場所にしたい。
押さない。
無理に引っ張らない。
決め事を増やしすぎない。
……それだけです。」
言葉を落とした瞬間だった。
風が、ぐ、と低く沈んだ。
◇
空の白い筋が、にわかに太くなる。
別の方向からも細い帯が重なり、空の層が四つ、五つと増えていく。
アカアサが翼をばさりと大きく広げた。
その瞬間、輪の上の空気の流れが変わる。
風は乱れかけ、葉が揺れ、ひさしの札がからりからりと忙しく鳴り始めた。
「……来る。」
遙馬が短く言う。
カイが前に出て、低く唸りかけ——しかし、唸りにはしない。
胸の奥だけ震わせる。
ユハは切り株の上で羽をすぼめ、背を低くし、
トオは土の中へ半分身を沈めて、畝の根を守る姿勢に入った。
村の大人たちも、一歩ずつ輪に近づいた。
守るように前に出るのではなく、
「ここで引き返さない」と示すように、影の縁に立つ。
風の裂け目から、影が落ちた。
最初、それはただの“濃い影”に見えた。
しかし、空の帯が少しずつ形を与え、やがて輪郭が浮かび上がってくる。
四本脚。
しなやかな肢体。
長い尾。
小さな角。
薄く光る灰色の毛並み。
「……狼?」
石工の父親が息を呑んだ。
違う、と遙馬はすぐにわかった。
その足の置き方、その呼吸の仕方、その目の動き。
どれも、“肉”の獣というより——
(風、だな)
精霊種。
森の風を形にしたような、狼に似た存在。
それは輪の真ん前で止まった。
輪を跨がない。
威嚇しない。
ただ、頭を低くし、静かに息を吐いた。
アカアサが翼の面を変える。
もう「警戒の面」ではない。
“迎えるための高さ”に、ふっと落ち着く。
「……座りたいのか。」
遙馬が問うと、精霊狼は尾をひと振りだけ揺らした。
それは、言葉にすれば“うん”に近い動き。
「ここは怒らない輪だ。
怒りを持ち込まないでいてくれるなら、座っていい。」
精霊狼はゆっくりと息を吸い——
吐いた。
吐くとき、輪の上を撫でる風が柔らかくなった。
さっきまでぎしぎしと軋んでいた空気の層が、ひとつずつほどけていく。
札がからり。
森がうんと頷く。
精霊狼は輪の縁に腰を下ろした。
まだ中へは入らない。
しかし、その座り方は、「ここに居たい」とはっきり語っていた。
「……精霊種が輪を尊んで座るの、初めて見たぞ。」
石工の父親が、半分呆れたように笑う。
「森のほうが、人より輪をよく覚えておるのかも知れん。」
古老が目を細めた。
その皺の奥で、長い時間が静かに揺れる。
遙馬は、精霊狼の目を真正面から見た。
「名前、欲しいか?」
精霊狼の耳がぴくりと動き、
尻尾が、今度はゆっくりと二度、振れた。
“うん”だ。
「……風の子だから、リオはどうだ。」
遙馬は土の上に指で「リオ」となぞる。
押さず、削らず、ただ土の表面を撫でて線を置く。
精霊狼——リオは、その文字に鼻先を近づけた。
そっと息をかける。
風が土の文字を消さず、線に沿うように流れていく。
アカアサが喉をコロルと鳴らした。
カイは尻尾で地面をこつと打ち、
ユハは胸をもふと膨らませて「ルッ」と鳴く。
畝の端では、トオがぴとと土を叩いて湿りを回した。
輪全体が、ひとつ、静かに名を受け入れた。
◇
そのときだった。
空が、もう一段低く唸った。
森の上の空気の層が、ひとつ、ふたつ、みっつ、と音もなく重なり合う。
遠くで雷が息をする前の、あの独特の圧。
「……嫌な風。」
陶工の母親が思わず呟く。
荒れようとしている。
けれど、それは怒りでなく、行き場を失った力の揺れだ。
アカアサが、翼をもっと大きく広げた。
今度の面は、さっきまでよりずっとはっきりしている。
風を跳ね返すための面ではない。
風に“座る場所”を示す面。
「アカアサ。」
遙馬が名前を呼んだ。
黒い大翼が、ゆっくりと角度を変える。
輪の真上で、空気の流れが一本の線に整っていくのが見えた。
喉の奥から、長く低い鳴き声がこぼれる。
「——カァァ……」
怒鳴り声でも、叫びでもない。
森全体に、「ここだ」と印を置くような声。
風が、一瞬だけ暴れかけ——
そして、その線に沿って座った。
乱れていた空気が、輪の上で深く息をつく。
葉は折れず、枝は軋まず、ひさしの札はやさしくからりと揺れるだけになった。
「……今の、魔法か。」
遙馬は自分の口から出た言葉に、少し驚いた。
そうだ。これは魔法だ。
けれど、派手な光も、強烈な衝撃もない。
風が怒らないように、
ただ、「ここに座っていいよ」と翼で示しただけの力。
石工の父親が、信じられないものを見るような目でアカアサを見上げる。
「すげぇ……でも、全然怖くねえ。」
「“止めた”んじゃないからね。」
遙馬は笑った。
「風を止めたんじゃなくて、
座っていい場所を教えただけだ。」
アカアサは得意ぶるでもなく、照れるでもなく、
ただ、翼をゆっくり畳んで喉をコロルと鳴らした。
(……できるから、やった。
そんな顔だな)
遙馬は、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
◇
風が落ち着いたあと、森の空気は違う色をしていた。
冷たいわけではないのに、頭の中がすっと冴えるような感覚。
考えごとをしても、あまり疲れない気配。
リオが輪の縁から、そっと一歩、中へ足を踏み入れた。
畝も、火の跡も、誰も嫌がらない。
アカアサが翼を一羽ぶんだけ下げ、
カイは尻尾をこつ。
ユハは胸をもふ。
トオは土をぴと。
輪は、もうひと回り、大きくなっていた。
「……ここ、本当に“帰ってきていい場所”になりそうだ。」
石工の父親が呟いた。
「村の真ん中には作れねぇ。
忙しすぎるし、揉め事も多い。
でも、ここなら。」
陶工の母親も、静かにうなずいた。
「うちの子、最近ちょっと元気なかったけど……
昨日ここから帰ってきたあと、よく眠ってたよ。」
古老がひさしの影に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「……この輪は、村の宝かもしれんな。」
遙馬は、そこで初めて首を横に振った。
「宝でいてくれて構いませんけど、
村に持って帰らないでください。」
三人が、ぽかんとする。
「ここは、ここに置いておいてほしい。
村には村の輪が必要で、
森には森の輪が必要で、
この輪は——森と村の間に“だけ”座っていてほしい。」
しばらくの沈黙。
やがて、石工の父親がにやりと笑った。
「……めんどくさいこと言うな、お前。」
「でも、いい。」
陶工の母親も笑う。
「ここだけの“決まり”にしておこう。
うちの子たちにもそう言っとく。」
古老が、札を指さして言った。
「“ここでだけ守る約束”というのは、案外強いもんじゃ。
守れん大人が出てきたら、わしが連れて謝りに来よう。」
その言葉に、遙馬はようやく小さく笑った。
◇
三人が帰り、森の音だけが戻ってきた頃。
遙馬は輪の中に腰を下ろした。
背中を小屋の壁に預け、膝を抱え込む。
アカアサがすぐ隣に立ち、
黒い翼の端が、ほんの少しだけ肩に触れた。
カイは足元に丸くなり、尻尾で地面をこつ。
ユハは切り株の上で胸をもふと膨らませて座り、
リオは輪の縁で、風と土の境目に体を横たえる。
畝の端でトオが土をぴとと叩き、火の跡を包むように湿りを回した。
「……街には、“輪”がなかったな。」
遙馬はぽつりと口に出した。
「仕事場も、家も、飲み屋も。
“ここでは怒らない”って決めた場所が、どこにもなかった。」
誰かに怒鳴られるのが怖くて、
怒鳴らせてしまう自分も嫌で、
怒りを飲み込んで、飲み込んで、飲み込んで——
どこにも下ろせないまま、ただ積み上げていた日々。
「だから、頑張れなくなったんだろうな。」
遙馬は苦笑した。
「怒りを下ろす場所もなくて、
悲しいって言う場所もなくて、
“生きていていい”って言ってくれる場所もなくて。」
アカアサが喉をコロルと鳴らした。
リオが風をひとすじ、優しく遙馬の頬に当てる。
カイは足元で、温度を確かめるように鼻先を寄せた。
ユハは胸を張ってルと鳴き、
トオは足元の土をやわらかく整える。
「ここに来て、ようやく気づいたよ。」
遙馬は空を見上げた。
空鯨の帯も、蒼梟の座っていた層も、もう見えない。
ただ、そこに“道がある”ことだけはわかる。
「——生きていていいって、やっと思えた。」
言葉は、思ったよりずっと小さな声で出てきた。
けれど、輪には足りた。
輪は、そういう言葉を覚えておくためのものだから。
札がからりと鳴く。
森がうんと頷いたような気がした。
アカアサの黒い翼が、そっと遙馬の肩に触れる。
押さない。
包まない。
ただ、「ここにいる」と伝える重さで。
遙馬は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……もう、あの街には帰らない。」
声に出して言ったそれは、
逃げるための宣言ではなく、
“ここに居る”という側を選ぶ言葉だった。
輪の中で、生き物たちの呼吸がひとつに揃う。
火はまだ眠ったまま。
煙は上がらない。
けれど——
ここにはもう、
帰ってきていい場所があった。
森のスローライフは、
誰かが大きなことをしないまま、
輪を覚えるたびに、少しずつ深くなっていく。
遙馬はその中心に座りながら、
胸の奥の空洞が、ゆっくりと土と風と黒い羽で埋まっていくのを感じていた。
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