第22話 森のテイマーになる
——“ギルドでも街でもなく、森に生きるための、新しい線。”
⸻
朝の森は、夜よりも静かだった。
光がまだ温度を持たない時間帯。
輪を撫でる風は細く、札は軽くからりと鳴くだけ。
畝の湿りは安定し、土の匂いが柔らかく立ち上る。
アカアサは屋根の端に座り、朝日の気配を待つように東を向いていた。
大きな黒い翼が、光に溶ける準備をしているように、ゆっくり動く。
カイは遙馬の足元で伸びをし、尻尾をこつと地面に打つ。
ユハは切り株から降り、胸をもふっと膨らませながら歩く。
トオは土から半分だけ顔を出し、湿りを整えるためにぴとぴとと畝を叩いていた。
遙馬は輪の中心でひとつ深呼吸した。
(今日からだ)
胸の奥が、昨日よりも軽い。
荷物を下ろしたわけではない。
傷が消えたわけでもない。
ただ、“生きる線”が自分の中に一本きちんと引かれた。
——ギルドのテイマーは、もうやらない。
——けれど、お前たちと生きるためのテイマーはやる。
それは逃げではなく、選択だ。
「よし。」
遙馬が立ち上がると、アカアサも屋根から降りてきた。
一度だけ羽ばたいて、遙馬のすぐ横へ。
喉の奥から、低く、静かな声が響く。
「……カァ」
“今日の線はどこに引く?”
そう聞いているような鳴き方だった。
「まずは——畑を広げよう。」
遙馬は鎌を手に取る。
昨日の夜、輪のことばかり考えていたせいで仕事が山ほど残っていた。
なら、今日やるのはひとつだ。
「森と村の間に、“座っていい場所”をもう少し増やす。」
アカアサがくちばしで地面をこつんと叩いた。
その仕草が、「手伝う」と言っているみたいで、胸の奥が温かくなる。
◇
森の畝を広げるのは、意外と簡単ではなかった。
根の深い木が多い。
苔が厚く、湿りが強い。
森は生きている。
畑にしようとすると、森の側からの声も聞こえてくる。
——ここは木の根の場所。
——ここは苔の道。
遙馬は足を止め、手で土を撫でる。
「ここは避けたほうがいいな。」
すると、トオがぴとんと湿りの流れを変えた。
土精霊であるトオには、森の“水の道”が見える。
ユハは胸を膨らませながら、落ち葉を羽で端に寄せる。
カイは腐葉土の匂いを嗅ぎながら、毒虫のいる場所を避けて教えてくれる。
そしてアカアサは——
高い場所から風の流れを読み、畑に最適な陽の差し方を示してくれる。
(これ……ギルドよりよほど理にかなってるな)
遙馬は思わず笑った。
ギルドでは、魔獣は“道具”だった。
命令した通りに動けばいい。
できなければ殴られる。
壊れれば替えが効く。
だが今は違う。
(役割が違うんじゃなくて、“座る場所”が違うんだ)
力のある者が前に出るんじゃない。
必要な者が、必要な場所に座る。
それが森のやり方だった。
「よし……ここに畝を作ろう。」
遙馬が鎌を入れると、土の中から湿りがふわりと上がる。
トオが嬉しそうに土を震わせ、畑の形が自然に整っていく。
ユハは胸を誇らしげに膨らませ、
カイは尻尾を高く立て、
アカアサは黒い翼で森の光を受け、輪の上で待った。
(これが……“森のテイマー”か)
遙馬の胸に、ゆっくりと実感が広がった。
◇
しばらくすると、森の奥でぱちんと枝の折れる音がした。
遙馬が顔を上げると、アカアサが翼を広げて方向を示す。
カイが低く唸りかけ——でも唸らずに口を閉じる。
ユハは羽をすぼめて切り株の上へ跳ぶ。
トオが土に沈み、畝の湿りを守る。
(誰か来てる)
足音は軽い。
小さな足音。
時間をおいて、もうひとつ。
やがて木々の影から現れたのは——
昨日の子どもたちだった。
陶工の少女、石工の少年、そして新しい顔の、小柄な赤毛の少女。
三人は輪の手前で立ち止まり、遙馬を見る。
「……お邪魔、してもいい?」
赤毛の少女が、恐る恐る手を挙げた。
遙馬は笑って頷いた。
「輪の外なら好きにしていいよ。
中は、まだ君たちには少し狭いからな。」
三人は輪の前に座り込んだ。
アカアサは、彼らが輪に入らないと確認してから羽を畳む。
ユハは胸を膨らませたまま、切り株の上で偉そうにしている。
「ハルマさん。」
陶工の少女が指を組んで言った。
「昨日の……あの狼。名前、つけたんだよね?」
「リオだ。」
三人の目が輝く。
「今日も来るの?」
「ここに住むの?」
「狼なのに怒ってなかったよ!」
質問が矢継ぎ早に飛ぶ。
遙馬は少しだけ戸惑いながら、ゆっくり答えた。
「リオは精霊だ。
人間や村と“対等な距離”で座りたいタイプだよ。
だから、いつ来るかはあいつが決める。」
三人は顔を見合わせて“すごい……”と小さく声を揃えた。
その姿を見て、遙馬の胸にふっと温かいものが広がった。
(ああ……こんな顔、ギルドでは見なかったな)
魔獣を“怖がる顔”は見たことがある。
“道具だと思っている顔”も見た。
“殺して当然だという顔”も、腐るほど見た。
でも——
今の三人のように。
**「魔獣を、ただの生き物として見ている顔」**を
遙馬は初めて見た。
その瞬間——
遙馬の中の何かが決まった。
(俺は……
森のテイマーになる)
ギルドとは違う。
命令するでも、屈服させるでも、道具扱いするでもない。
輪を守り、森と村の線を引き、
魔獣と人が“怒らない距離”で生きられるようにする。
それが、自分にできる唯一の生き方だ。
◇
少女がふと、遙馬の鎌を見た。
「畑……作ってるの?」
「ああ。森の恵みを少し分けてもらってな。
輪の内側で、俺たちが暮らすための畑だ。」
「私たち……手伝っちゃダメかな?」
遙馬は驚いた。
その隣でアカアサもくちばしを開けて**「カァ?」**と鳴いている。
子どもたちの目は本気だった。
恐怖も警戒もない。
ただ、森の輪を“あったかい場所”だと思っている目だった。
「いいの?」
赤毛の少女が首を傾げた。
「昨日、お母さんが言ってた。
“ここは怒らない場所なんだよ”って。」
遙馬の胸が、ぐっと熱くなった。
(……そんなふうに伝わったのか)
輪を置いてよかった。
ここに来てよかった。
逃げてよかった。
「じゃあ、お願いしてもいいかな。」
遙馬は静かに言った。
「森は広いけれど、輪はひとつじゃ足りない。
君たちが座れる場所を、俺たちで作ろう。」
カイが尻尾を高く上げ、ユハは胸をさらにもふっと膨らませる。
トオは土を震わせて湿りの流れを調整し、
アカアサは翼を広げて日差しの角度を示した。
そして遙馬は思った。
(これが……
“森のテイマー”としての最初の仕事かもしれない)
ギルドでは、怒鳴られてばかりだった。
命令され、見下され、嘲られ、殴られた。
だが今は違う。
森は押さない。
魔獣は奪わない。
子どもたちは素直で、輪は静かに見守っている。
ここでなら——
遙馬はきっと、誰かを救える。
あの日、救えなかった魔獣たちの代わりに。
救えなかった自分の代わりに。
輪の中で、遙馬は深く息を吸った。
「森のテイマーとして、動こう。」
その声に、アカアサが喉を震わせた。
「——コロル」
輪が、風が、森が、確かに応えた。
子どもたちが畝の端にしゃがみ込み、土を両手で掘り返していく。
その横でトオが土質を整え、ユハは胸を膨らませて“監督”のように見ている。
カイは毒虫を避けるための道をくんくんと嗅ぎ分け、アカアサは高い枝に移って風の流れを読み続けていた。
(……こんなにも“自然に”働けるものなのか)
遙馬は手を動かしながら、しみじみ思った。
ギルドにいた頃は、常に怒号と命令の中だった。
動かなければ怒鳴られ、やりすぎても責められ、間違えれば殴られた。
魔獣たちは怯え、傷つき、死んでいった。
だが、今目の前にある光景は——
**“怒りが存在しない仕事場”**だった。
森は押さない。
魔獣は急かさない。
子どもたちは純粋で、
輪は静かに守ってくれる。
(俺……こういう場所がほしかったんだな)
胸の奥が、ゆっくり溶けていく。
◇
赤毛の少女が顔を上げた。
「ねえ、ハルマさん。
この畑……何を育てるの?」
「森の薬草と、食べられる木の実の苗。
あと、森の水に合う野菜がいくつかあるんだ。」
「へえ! 森の野菜って、街のと味違うの?」
「そりゃあ、違うさ。」
遙馬が笑うと、アカアサが**「コロル」**と喉を鳴らした。
赤毛の少女が目を丸くする。
「今、しゃべった……?」
「声で“応えた”だけだ。」
遙馬はアカアサの側へ歩み寄る。
「こいつは言葉は使わないが、意図は伝えてくる。
森の魔獣は、もっとずっと“線”を読むのが上手いんだよ。」
「線……?」
「誰が怒ってて、誰が泣いてて、誰が笑ってるか。
森ではそれを隠すと逆に危険なんだ。」
子どもたちは、アカアサをじいっと見つめた。
アカアサは落ち着いた仕草で翼を畳み、
赤毛の少女の前にすっと降り立つ。
少女はびくっとしたが、逃げない。
「……こわくない……」
アカアサが少女の掌の近くで、
人間の子どもを観察するように首をかしげた。
「この子……においがやさしい。」
と陶工の少女が呟いた。
遙馬は軽く頷いた。
「動物は、“やさしい手の匂い”を覚えるんだよ。」
(アカアサ……お前、ちゃんと線を見てるんだな)
遙馬が胸の中で呟くと、アカアサが同意するように翼を揺らした。
——この子たちは怒っていない。
——この子たちは傷ついていない。
——だから、近づいてもいい。
アカアサはそう言っているようだった。
◇
「ハルマさんは……」
石工の少年が、土に手を突っ込んだまま顔を上げた。
「なんで森に住むの? 村に家、あるでしょ?」
「いや、俺は……」
言いにくい質問だ。
だが、遙馬は逃げずに向き合うことにした。
「村は“人の線”が濃いんだよ。
人間の表情や感情が強くて、森みたいに均されてない。」
少年は首をかしげた。
「均されてない?」
「人の街は、どうしても“見栄”とか“建前”とか、
そういうものが重なっていく。
魔獣の前で本音を隠すと、逆に危ないけど……
人間はそれを平気でやる。」
「……たしかに。」
陶工の少女がうつむく。
「村にも、怖い大人はいっぱいいるし……
怒鳴る人もいるし……
子どもだからって見下す人もいるし……」
その言葉に、遙馬の胸がざわりと揺れた。
自分にも覚えがありすぎるからだ。
ギルド時代の上司──
“あの男”の顔が脳裏をよぎる。
(人は……容易に怒る。
感情の線を力でねじ曲げようとする)
けれど——
森は違う。
怒ると、森の線は濁る。
濁ると、魔獣は寄らない。
寄らなければ、森は冷えた沈黙になる。
だから森に生きる者は、できるだけ穏やかに、
怒らない線で生きようとする。
「俺は……森の線のほうが楽なんだ。」
遙馬が素直に言うと、
三人とも納得したように頷いた。
「でも、村にも行くよ。」
「え?」
「買い物とか、手伝いとか、人に会いに。
森だけでは生きられない。
村だけでも生きられない。
どちらも“生きるための場所”なんだ。」
その言葉に、アカアサが翼を少し広げた。
——それでいい。
——お前は森と村の両方に座る。
そんな風に聞こえた。
(ありがとう。お前がいてくれるから、俺は線を引ける)
◇
午後になり、光が少し強くなる頃。
リオが森の奥から姿を現した。
子どもたちが驚き、石工の少年が叫ぶ。
「き、きたぁぁぁ!!」
リオは遙馬を見ると、静かに尻尾を一度だけ振った。
精霊であるリオは、普段は森の奥にいる。
だが“遙馬が線を確かめられないとき”だけ、姿を見せるらしい。
(……見守ってくれてるのか)
遙馬の胸が温かくなる。
リオは輪の中には入らず、その手前で座った。
アカアサと視線を交わす。
——今日は風が穏やかだ。
——この森は、悪い線がない。
そんな風に目で会話している。
子どもたちは震えながらも、遙馬の背後に隠れずに見つめた。
「……きれい」
「……おっきい……」
「こわくない……?」
遙馬は微笑んだ。
「精霊は怒らなければ怒らない。
線がまっすぐであれば、牙を見せる必要もない。」
リオは子どもたちを一通り観察すると、
静かに遙馬の横へ寄り添った。
その仕草に、子どもたちが小声で息を呑む。
「ハルマさん……すごい……」
「精霊に、こんな風に寄られる人なんて……」
「村じゃ聞いたことない……」
遙馬は首を振った。
「違うよ。
俺が特別なんじゃなくて、森が“許してる”だけだ。」
アカアサがこくりと頷いた。
リオも静かに目を閉じる。
(……そうだな。
俺は“選ばれてる”んじゃない。
ただ、“怒っていない”だけだ)
それだけでいい。
それだけで、森は寄り添ってくれる。
◇
子どもたちが帰っていくころには、
畝は倍近く広がっていた。
遙馬は深呼吸する。
(明日には、苗を植えられる)
明確な成果がある少しの前進。
それが胸にじんわり広がる。
「アカアサ。」
遙馬が声をかけると、黒い翼が揺れた。
「……カァ?」
「森のテイマーとしてやっていく。
今日、そう決めた。」
アカアサは遙馬の手に、自分の額をそっと押し当てた。
低く、深い、喉の震え。
「……ロゥ」
遙馬の内側に、静かな言葉が満ちる。
——お前の線は、ここにあっていい。
(ああ……ここで生きる)
ギルドで殺された魔獣たちの声が、
「それでいい」と囁いた気がした。
◇
日が沈むころまでに、遙馬たちは休憩所の土台を固めた。
木材を組むのは明日になるだろう。
輪を中心に“座れる場所”が広がっていく。
それは森が遙馬とアカアサを受け入れている証だった。
(明日からは——
村との線も、もっと太くしていかないとな)
アカアサとカイとユハとリオ。
それに、森に生きる魔獣たち。
輪は広がる。
線は繋がる。
自分の居場所が、ようやくできていく実感があった。
夜風が輪の中をふわりと抜け、光は群青に変わった。
(森のテイマーとして——ここが、俺の仕事場だ)
遙馬はそう思って、ゆっくりと腰を下ろした。
日が沈みきる前の、あいまいな時間帯だった。
森の緑が、ひとつずつ影に溶けていく。
輪の上を撫でる風は、昼よりもゆっくりで、札はときどきからりと鳴くだけだ。
畝は広がり、土は適度な湿りを保ち、
切り株の上ではユハが胸をもふっと膨らませたまま、まだ“監督”の顔をしている。
カイは新しく広げた畝の隅で寝転がり、尻尾をこつこつと土に当てていた。
トオは片方の腕だけ土から出して、最後の湿りの調整をぴと、ぴとと続けている。
アカアサは、屋根の縁ではなく——
輪のすぐそばに立っていた。
大きな黒い翼を背中で畳み、静かに森の匂いを吸い込んでいる。
(……やっぱり、ここが“俺たちの場所”なんだな)
遙馬は輪の真ん中、火の跡のそばにしゃがみ込んだ。
灰に指を差し入れると、昼に触ったときより、少しだけ冷えている。
今日は朝からずっと、“森のテイマーになる”ことばかり考えていた。
口に出した。
子どもたちの前で、森の前で、アカアサたちの前で。
でも——胸のどこかで、まだ信じ切れていない自分もいる。
(本当に、俺でいいのか?)
ギルドで言われた言葉は、簡単には消えない。
——お前、ほんとに人間か?
あれは呪いじゃない。
ただの悪口でもない。
遙馬自身が、自分で自分を責めるときに使ってしまう、一番深い棘だ。
その棘を、森にまで持ち込んでしまっている気がして、
遙馬は、火の跡に視線を落としたまま、静かに息を吐いた。
「……アカアサ。」
名前を呼ぶと、黒い翼がわずかに揺れる。
「カァ?」
喉の奥から出た声は、遠くの雷のように低く、やさしい。
「俺さ。
“森のテイマーになる”って言ったけど、
正直なところ、まだ怖い。」
アカアサの金色の瞳が、遙馬の横顔を覗き込む。
「また、どっかで言われるんじゃないかって。」
——人間じゃない。
——あいつらの檻ん中で暮らせ。
——俺たちと同じ場所にはいらねえ。
「森のテイマーなんて名乗ったら、
今度は“森の側の人間じゃない”って言われるんじゃないかってさ。」
自分で言って、自分で苦笑する。
考えすぎだ、と笑い飛ばせば楽なのに、できない。
アカアサはしばらく黙っていた。
その沈黙は責めるものではなく、ただ「続きを待っている」沈黙だった。
「でも——」
遙馬は言葉を探しながら、輪の土を指でなぞる。
「今日、あの子たちがさ。
“ここは怒らない場所なんだ”って、そう言ってくれたんだよな。」
陶工の少女のまっすぐな目。
石工の少年の、震えながらもリオに向けた視線。
赤毛の少女の、アカアサに向けた“こわいけど好き”みたいな顔。
「“怒らない場所”って言葉、
俺、自分の口からは出せなかったんだよ。」
逃げてきた自分には、そんな綺麗な言葉を使う資格はないと思っていた。
ギルドからも、人間の輪からも外された自分には。
でも——あの子たちは、それをぽん、と輪の真ん中に置いてくれた。
「……だったら、さ。」
遙馬は、少しだけ顔を上げた。
アカアサの黒い翼が視界の端に入る。
「森のテイマーっていうのは、
“怒らない場所”を増やす仕事なのかもしれない。」
ギルドのテイマーの仕事は、
“魔獣を従わせる”ことだった。
森のテイマーの仕事は、
**“魔獣と人間が怒らなくていい線を引くこと”**なのかもしれない。
アカアサが、喉の奥でゆっくりと鳴いた。
「……コロル」
輪の札が、風に揺れてからりと響く。
森が、「それでいい」と頷いた気がした。
◇
そのときだった。
森の奥から、ばきっという乾いた音がした。
それに続く、小さな悲鳴。
遙馬の体が、条件反射のように動いた。
立ち上がり、音の方向へ顔を向ける。
アカアサの翼が、緊張を含んでわずかに持ち上がった。
カイが耳を立て、低く唸り——
しかし、すぐ唸りを飲み込む。
ユハは胸を縮め、切り株からぴょんと飛び降りる。
トオは土の中に沈みかけた身体を持ち上げ、畝から音の方向へ土の感触を伸ばした。
「……人間?」
遙馬が呟いた。
足音のリズム、重さ、息の乱れ。
森の獣ではない。
かといって、さっきの子どもたちとも違う。
——逃げてきている足音だ。
遙馬は輪の外側、一歩手前まで出た。
「アカアサ。上から見て。」
指示に、アカアサは即座に反応した。
一度だけ大きく羽ばたき、木々の間の空へ飛び上がる。
風の層を数枚めくるように上昇し、音の方向へ翼の面を傾けた。
(ああ、この感じ……)
ギルド時代。
暴走した魔獣の気配を追うときも、こんな風に上を見上げていた。
ただ違うのは、あの頃は「捕まえろ」と命じられていたこと。
今は——
(“座れる場所を探す”ために見ている)
それだけで、胸のざらつきが違った。
◇
しばらくして。
木々の間から、ひとりの少年が飛び出してきた。
年の頃は、さっきの石工の少年より少し上だろうか。
肩で息をし、顔は土と涙でぐしゃぐしゃだ。
足元は裸足に近い。
片方の靴はどこかで失くしたのだろう。
目は、完全に怯えている。
怒りと悲しみと、どうしようもない疲れが混ざり合っている。
遙馬は、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
(……知ってる、この目)
ギルドで、自分も一度だけ、
トイレの鏡の前で同じ目をしていた。
少年は輪に気づかなかった。
ただ、森から“逃げたい”一心で走ってきて——
輪の手前で足を取られ、地面に転んだ。
顔から、土に突っ込む。
鼻から血が出る。
それでも起き上がろうとする。
「……っ……嫌だ……もう、嫌だ……!」
しゃくりあげる声。
荒い息。
肩が震えている。
遙馬は、輪の中央から一歩も動かなかった。
けれど、その場で、静かにしゃがみ込んだ。
「そこは走る場所じゃない。」
声は、大きくしない。
怒気も乗せない。
ただ、輪の線を示すための声。
「座る場所だ。」
少年が顔を上げた。
涙と泥でぐしゃぐしゃの顔。
その向こうに、輪と遙馬と、黒い大きな鳥と、白い獣と、土の腕と、胸を膨らませた小鳥が見えている。
現実感がなくなりかけた目が、
少しだけ焦点を取り戻した。
「……な、に……」
「座る場所。」
遙馬は、輪の中の空いているところを指さした。
「走れないなら、そこで一旦座れ。
怒りたいなら、怒りたくなくなるまで息をしろ。
泣きたいなら、泣き止むまで泣け。」
少年はしばらく、何も言えなかった。
森の音が、間を埋める。
風。
遠くの鳥。
札のからりという音。
「……座ったら……」
少年はかすれ声で呟く。
「……また、叱られる……」
その言葉に、遙馬の胸の奥がちりっと痛んだ。
(ああ、そうか)
座ることすら許されない場所もあるのだ。
立ち続けることを強制され、走り続けることを求められ、
倒れれば「根性が足りない」と言われる場所。
自分がいたのも、そういう場所だった。
「ここは違う。」
遙馬は、言葉を選ばなかった。
まっすぐに、短く言った。
「ここは、怒られない。」
少年の肩が、びくりと震えた。
アカアサが輪の端に移動し、大きな体でそっと少年と森の奥の間に立つ。
カイは少年に近づきすぎない距離で、鼻をひくつかせている。
ユハは胸を小さくして足元に降り、トオは土を整えて、少年が座りやすいように地面の凸凹をなくした。
「座れとは言わない。」
遙馬は続ける。
「ただ、“座っても怒られない場所”がここにあるってことだけ、覚えとけ。」
少年は、ぐっと唇を噛んだ。
目の端から、涙が新しく零れる。
「……ほんとに……?」
「ほんとに。」
嘘を混ぜる余地はない。
ここで嘘をつけば、この輪はすぐに濁ってしまう。
森は、そういう場所だ。
長い沈黙ののち——
少年は、膝から崩れるように、輪の手前に座り込んだ。
完全に輪の中までは入ってこない。
でも、その“半歩”が重要だった。
遙馬は一歩も近づかなかった。
押した瞬間、この線は壊れる。
代わりに、アカアサがひとつ喉を鳴らした。
「……コロル」
長く、低く、包み込むような音。
その音に合わせて、風が優しく揺れる。
少年の肩から、少しだけ力が抜けた。
◇
少し遅れて、駆け足の音が聞こえてきた。
今度は、大人の足音だ。
重さと速さと、息の粗さ。
怒りと焦りと心配が混じっている。
木々の間から飛び出してきたのは、村の男だった。
昼間、輪を見に来た石工の父とは違う顔。
眉間に深い皺を刻み、目の下に疲れの影を抱えている。
少年の姿を見つけるなり、男は大きな声を上げた。
「おい! こんなところまで走って……!」
怒鳴り声に、少年の体がまた強張る。
肩がすくみ、顔が土に沈む。
遙馬の体が勝手に動いた。
輪の中央から、一歩、二歩。
輪の線を踏まないように慎重に前へ出て、男と少年の間に立つ。
「ここは、“怒らない場所”です。」
静かな声だった。
しかし、自分で驚くほど、芯の通った声だった。
男が、遙馬を睨んだ。
「は? 何言って——」
「怒るのは、輪の外でお願いします。」
遙馬は一歩も退かなかった。
ギルドで上司に睨まれたときのような、あの凍る感覚が少し顔を出しかける。
しかし、それを飲み込む。
(ここはギルドじゃない。
ここにはアカアサがいて、カイがいて、ユハがいて、トオがいて、リオがいる)
後ろで、アカアサが翼を軽く広げた。
威圧ではない。
ただ、輪の線を際立たせるための影。
「怒るなとは言いません。」
遙馬は男の目を見た。
「親なんだから、心配して、怒ることもあるでしょう。」
男の喉が、わずかに動いた。
その奥にある「心配」が見えた。
「ただ、ここでは、“怒らないやり方”を試してほしいんです。」
「……は?」
「ここは森と村の間にある輪です。
魔獣も、人も、精霊も、子どもも、大人も。
みんな、“怒らないで座る場所”として扱うって決めたんです。」
自分で言いながら、胸の奥が熱くなる。
これは、森のテイマーとしての“最初の宣言”だった。
「怒鳴りたいなら、輪の外に出てからにしてください。
この子には、輪の中で息を整えてもらいたい。」
男の表情に、迷いが浮かぶ。
怒鳴るのは簡単だ。
それは慣れている。
何度もやってきたやり方だ。
でも今、目の前には——
大きな黒い鳥と、白い獣と、土の腕と、小さな鳥と、
輪の札がある。
森そのものが、「ここで怒らないでくれ」と言っているようだった。
アカアサが、男に向かって一歩、ゆっくり歩み寄った。
金色の瞳が、男の顔をじっと見ている。
くちばしが、輪の線の手前で地面をこつんと叩いた。
——ここまでは来ていい。
——でも、怒りはそこに置いていけ。
そう示すような動きだった。
男は、肩で息をしながら立ち尽くした。
やがて、ふっと目の力が抜ける。
「……そんな場所が、本当にあるのかよ。」
絞り出すような声。
その声には、苛立ちだけでなく、疲労と、少しの期待が混じっていた。
「作りたいんです。」
遙馬は即答した。
「俺がギルドから逃げてきた理由は、
そういう場所が一つもなかったからです。」
男の目が、驚きと、少しの理解で揺れた。
「人間の世界にも、
“怒らないで座っていい場所”が、ひとつくらいあっていいと思いませんか。」
しばしの沈黙。
風が、輪の上を通り抜ける。
札がからりと鳴き、畝の土がぴとと湿りを返す。
男は、深く、深く息を吐いた。
「……わかった。」
その声は、さっきよりもずっと低く、穏やかだった。
「ここでは……怒鳴らない。
怒鳴りたくなったら、あっちに行ってからにする。」
男は輪の外側の、少し離れた木立を顎でしゃくった。
「でも、こいつが悪いことをしたのは本当なんだ。」
遙馬は頷いた。
「悪いことは、輪の外で話してください。
輪の中では、“これからどうするか”だけ話してほしい。」
少年の肩が、わずかに震える。
でも、その震えはさっきより少しだけ軽かった。
アカアサが翼を畳み、輪の線から一歩下がる。
カイは少年の近くで座り直し、
ユハは少年の前にちょこんと立って胸をもふと膨らませた。
トオは少年の足元の土を、やわらかく整え続けている。
(……これだ)
遙馬の胸に、はっきりとした感覚が灯る。
(これが、“森のテイマー”の仕事だ)
魔獣を従わせるのではない。
人間を裁くのでもない。
森と人の間に輪を置き、
怒りが入ってこない線を引き、
そこで“座れるように”支える。
◇
しばらくの間、男と少年は輪の中で話をした。
何を言っているか、遙馬は深くは聞かない。
ただ、怒鳴り声がひとつも混じらなかったことだけは、はっきりわかった。
謝罪の声。
言い訳になりかけて、途中でしぼんだ声。
それを受け止める、ぎこちない大人の声。
ときどき、
アカアサがコロルと短く鳴いた。
リオがいつのまにか輪の外側から風を送り、
カイが少年の足を鼻先でつつき、
ユハが胸をもふもふさせて合いの手のように「ル」と鳴いた。
やがて男と少年は、輪の縁で立ち上がった。
男は遙馬に向き直り、深く頭を下げた。
「……変なこと言う森の兄ちゃんだと思ってたが。」
その言い方に、遙馬は思わず吹き出しそうになる。
「悪くない場所だな、ここ。」
「“座っていい場所”ですから。」
遙馬は笑って返した。
「もしまた何かあったら、
怒る前に一度、ここに来てください。」
「……そのときは、こいつも連れてくる。」
男は少年の頭を乱暴にわしわしとかき回した。
少年は「やめろよ」と文句を言いながらも、どこか安心した顔で輪を見ていた。
二人が森の奥へ歩き出す。
今度は、逃げる足音ではない。
戻っていく足音だった。
◇
二人の背中が木々の間に消えたあと、
輪の中に静寂が戻ってきた。
遙馬は、どっと力が抜けて、その場に座り込んだ。
「……はー……緊張した。」
ほんの少し、手が震えている。
声も、ところどころ上ずっていたはずだ。
でも——
胸の奥には、奇妙な充足感があった。
「アカアサ。」
顔を上げると、黒い大翼がすぐそばにあった。
アカアサは、いつものようにどこか得意げな顔で遙馬を見下ろしている。
喉の奥で、柔らかく鳴いた。
「……コロル」
——うまくやった。
——ここは“怒らない輪”として守られた。
そんな意味が、確かに伝わってきた。
「森のテイマーってさ。」
遙馬は、自分の胸に手を当てた。
「こういうことを、やってく仕事なんだな。」
魔獣を扱うでもなく。
誰かを従わせるでもなく。
立派な肩書きがあるわけでもない。
ただ——
森と村の間に座り、
怒りの線が輪の中に入り込まないように整える。
そのために、
アカアサが風を整え、
リオが空気を撫で、
カイが匂いを嗅ぎ、
ユハが胸を張って“ここにいる”と示し、
トオが土をやわらかく整える。
遙馬は、その真ん中で息をしているだけだ。
「人間かどうかなんて、どうでもいいな。」
ぽろっと、そんな言葉がこぼれた。
「森にとって大事なのは、
怒るかどうかと、押すかどうかと、
“座れる場所を増やすかどうか”だけだ。」
札がからりと鳴いた。
森が、風が、輪が、それに同意する。
アカアサが、遙馬の肩にそっと翼の先を触れさせた。
押さない。
包まない。
ただ、“ここにいるよ”と伝える一瞬。
「……よし。」
遙馬は、ゆっくりと立ち上がった。
森の空はもう群青で、星がいくつかちらほらと光り始めている。
「明日から、本格的に名乗ろう。」
アカアサが首をかしげる。
「森のテイマー・ハルマって。」
自分で口に出して、照れくさくなった。
でも、悪くない。
ギルドで呼ばれていた“便利な新人”とか“遅馬”とかより、
ずっと、自分の輪に馴染む名前だ。
カイが尻尾をこつこつと打ち、ユハが胸をもふと膨らませる。
トオは土の中から腕を伸ばして、火の跡の周りをやわらかく撫でた。
リオは少し離れた木陰から風を一筋送り、輪の気配を洗う。
森全体が、「それでいい」と笑っているようだった。
「よろしくな、相棒。」
遙馬がそう言うと、
アカアサは大きな翼を広げ、夜の空気を一度だけ力強く叩いた。
喉の奥から出た声は、
森の奥へ、空の層へ、静かに響き渡っていく。
「——カァァ……!」
森のテイマーとしての一日目が、
その声とともに、ゆっくりと夜へと溶けていった。
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