第22話 雨が止んでも

 雨が上がった朝、街の色が少しだけ薄く見えた。どこかで風鈴の音が鳴っている。

 心の奥の痛みがまだ消えないまま、私はアルバイト先のカフェへ向かった。

 

 ――もう先生から連絡は来ない。

 寂しいというよりは、諦めに近いものを感じる。

 ふとスマホを見ると、お母さんからメッセージが来ていた。


『昨日の雨で地面が水浸しよ。そっちは大丈夫? 今日もアルバイトかな、頑張って』


 画面を見て胸が痛んだ。

 罪悪感で身体が壊れてしまいそうだった。


「お母さん、ごめんなさい……」


 私はスマホを鞄にしまって、ロッカールームでカフェの制服に着替える。

 心がどこか遠くに行ったまま、無理矢理笑顔を作って接客をする。


 昨日の松永先生の顔が頭に浮かぶ。もしあの時、さらに触れていたら……と考えて顔が熱くなってくる。いや……先生はお母さんの恋人なんだから。


 それでも、昨晩抱き寄せられたぬくもりが忘れられない。先生と一緒なら何も怖くなかった。あの腕の中に戻れたら、きっと何も考えずにいられるのに。


 こんなこと考えるなんて……だめだよ。

 私はアルバイトに集中したくて、窓の外を行き交う人たちを眺める。



 ※※※



 (竹宮くん視点)

 アルバイト先のジムで、僕はぼんやりしながらもフロントでお客さんの対応をしていた。

 するとそこに、笹谷さんが現れる。


「竹宮くん……」

「笹谷さん、おはよう。チェックインだね」

「うん」

 彼女とも何となく気まずくなってしまった。


 どうして僕は奈々ちゃんのこと、ちゃんと守れないんだろう。

 松永になんか、渡したくないのに……。


 中学生の時からだった。

 修学旅行の肝試しで、奈々ちゃんが松永に手を握られていた時から……僕は松永に対抗心を燃やしていた。

 先生と生徒以上の関係なんてないはずなのに、何故か奈々ちゃんは松永に惹かれているように見えたんだ。


 ただの憧れなのか、それとも――

 そんな2人を見るのが嫌だった。だから奈々ちゃんにたくさん話しかけて……どんどん彼女が好きになっていったんだ。

 だけど僕も松永には助けてもらった。おかげで行きたい高校に合格できたのだから。あの先生がいなければきっと今の僕はいない。


 だからこそ悔しいんだ。松永の優しさを僕も知っているからこそ、苦しくなる。あの先生には、かなわないんじゃないかって思ってしまう。奈々ちゃんの恋人でいられる自信がない。


 休憩時間にスマホを眺める。もちろん彼女からのメッセージは来ない。

「何やってんだろ……僕」


 午後にアルバイトを終えてジムから出ると、そこに笹谷さんがいた。

「お疲れ様、竹宮くん」

「待っててくれたんだ」

「うん……」


 2人で歩いていると笹谷さんが口を開く。

「……まだ悩んでる?」

「え……」

「もう、わかりやすいわね」

 彼女がふっと笑う。


「……私は本気だったんだから」

「うん……ありがとう」

「けど、竹宮くんも本気なんだよね?」

 当たり前だ。

 だからこそ、今こんなに奈々ちゃんのことばかり……。


「……ずっとあの子ばかり見ていた。中3の頃から」

「もうそれだけ長ければ、私の出る幕はなさそう」

 笹谷さんがうつむきながら呟く。


「梅野さんのどこがいいの?」

「奈々ちゃんと一緒にいると落ち着くんだ。あといつも頑張ってるところとか、時々甘えてくるところとか」

「……めちゃくちゃ好きじゃないの」


 そう、僕は奈々ちゃんのことがこんなにも……。

「はは……そうだね」

「中3の時からずっと見ていて、今もそういう感じなら……大丈夫な気がする」

 笹谷さんが僕の肩にポンと手を置く。


「……悔しいけど、応援してるから。じゃあね」

 そう言って彼女は角を曲がって行った。

 日差しが強くて、水たまりがようやく乾きそうになっている。


 青い空を見上げながら思い浮かぶのは――奈々ちゃんの笑顔だけ。

 もう雨は止んだ。彼女と一緒に歩く道だってきっと晴れてくるはず。


「よし……」

 僕は再び歩き出した。

 奈々ちゃんの笑顔を、もう一度取り戻すために。



 ※※※



 (松永先生視点)

 夕方、凛々子さんが家に来てくれた。

「いらっしゃい」

「……」

 どこか元気のなさそうな彼女。俺は心配になって彼女の背中に手を添えた。


「何かあったのか?」

「あ……奈々美から返信がなくって」

 奈々美さんの名前を聞いてすぐに胸がざわついた。昨日のことが脳裏に浮かんでくる。


「弦くん……」

 凛々子さんは不安そうな表情で俺に寄り添う。自分のせいで、奈々美さんを困らせているかもしれないと思うと……罪悪感が胸の奥にじわりと広がってゆく。


「きっと奈々美さんはアルバイトで忙しいんだろう。そのうち返事が来るさ」

「……」

 それでも彼女はうつむいたままで、細い肩が揺れている。


「だから……今日はさ」

 そう言って俺は凛々子さんを抱き寄せる。顔を上げた彼女にそっと唇を重ねると、頬が染まってゆく。

「ん……」

 

 ソファに彼女を座らせて髪を撫でながら、もう一度口付けを交わす。

「あ……弦くん……」

 凛々子さんの吐息が漏れて、甘い香りが漂う。そのまま強く抱き締めると、彼女に「待って……」と言われた。


「どうかしたのか?」

「ごめん……今日調子良くなくて。帰るね」

 彼女はソファから立ち上がって、玄関に行ってしまった。

「凛々子さん……」


 ひとりでいる寂しさだけが、部屋に残っていた。

 彼女の異変に気づけなかったことが、のちに俺を後悔させることになるなんて――この時は分からなかった。


 玄関が閉まる音のあと、部屋には雨の名残りの匂いだけが残っていた。


 

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