第21話 すれ違いの雨模様②

「どうぞ」

「お邪魔します……」


 先生の部屋は広くてシックで落ち着いていて、大人の匂いがする。雨で濡れてしまったので、先生は「シャワーにでも入っておいで」と声をかけてくれた。

 そして見たことのあるパジャマを渡される――お母さんのものだ。きっとお母さんは泊まりに来る時にこれに着替えるのだろう。


 今日はお母さんじゃなくて私が……と思うと顔が熱くなってくる。違う、先生は先生なのだから。

 

 シャワーを浴びて、お母さんのパジャマを身に着けた。ふわりとした生地に包まれて、なんだかほんの少し――大人になれた気がした。

「だめ……先生は、お母さんの恋人なんだから」


 心の奥に、じんと痛む。お母さんのぬくもりが残るはずの布地なのに、罪悪感がひりついて離れない。

 それでも、鼓動はどうしても落ち着いてくれなかった。


「シャワーありがとうございました」

「いえいえ」


 ソファに座ると先生は温かい紅茶を淹れてくれた。湯気の立つマグカップを渡されて、手のひらに温もりが戻っていく。

 

「無理に話さなくてもいい。泣きたければ泣いてもいいんだ」


 その言葉に、胸の奥の緊張がほどけた。

 私はただ、声を殺して泣いた。

 信じていた人の笑顔が頭から離れなくて、見てしまった光景を思い返すたび、嗚咽が止まらなかった。


「……やっぱり君は悩んでいたんだな」

「はい……」

 先生には分かってたんだ。私がはるくんと笹谷さんのことで悩んでいることが。


「好きな人が……別の女の人と一緒にいたんです」

「それは辛かったな」


 先生の声は低くあたたかくて、その言葉だけで張りつめていたものが緩んでしまう。だから、こんなにも頼りたくなる。


 思わず顔を上げた瞬間だった。


 先生の大きな腕が、そっと私の肩を抱き寄せた。

 圧倒するような力ではなく、崩れそうな私を支えるためのごく静かなぬくもり。

 

「大丈夫だ」


 耳元で落ち着いた声がして、顔が熱くなる。

 これ以上泣くつもりなんてなかったのに、涙が勝手に顔を濡らしていった。


 やだ……落ち着かないと、私。

 しばらくして気づいた。

 先生の服越しの体温が、どこか震えている。


「……すまない。これは、教師として超えてはいけない距離だ」


 そう言って、そっと腕を離す。

 その一瞬だけ触れていた場所が、名残惜しいほどにあたたかかった。


「ここにいる間は、安心していい。ただ、それ以上は……俺が許さない。君のためにも」


 ドキンと胸が鳴る。

 恋ではない。けれど、誰よりも大切に思ってくれているのが伝わる。


「……ちょっと待っててくれるか」

 玄関の方に向かう先生の背中は、いつもよりずっと大きく見えた。


 私はブランケットにくるまれながら、目を閉じる。

 心臓はまだ速いままだったけど——

 あのぬくもりに救われたことだけは、誰にも言えなかった。

 

 

 ※※※



 (松永先生視点)

 雨に濡れた奈々美さんを家に連れてきた。今にも壊れてしまいそうで、このまま帰すわけにはいかなかった。

 シャワーを浴びて凛々子さんのパジャマを着た彼女は、さらに凛々子さんに似ていた。それが余計に罪悪感を生み出す。


「大丈夫だ」

 そう励ますつもりだったのに――気づけば肩を抱いていた。

「もうこれ以上は駄目だ」とわかっているのに、彼女を離せなかった。抱いた腕が、理性の最後の砦を壊しそうで怖かった。


 その時、玄関の方で音がしたような気がした。まさか――と思ったが誰もいない。

「気のせいか」

 リビングに戻ると奈々美さんは泣き疲れたようで、すうすうと眠っていた。


「はる……くん……」

 その寝言に何故か寂しさを覚えた。



 ※※※



 (竹宮くん視点)

 今日はイベントの話し合いも兼ねて、サークル仲間がうちに集まった。夕食を食べた後に他のメンバーは帰って行ったが、何故か笹谷さんは残っていた。


「……ねぇ、梅野さんがここに来ることもある?」

 そう言われた瞬間、この部屋での奈々ちゃんのことを思い出し、辛さが襲う。

 

「何か……あったの?」

「いや、別に」

「そう。じゃあ帰ろうかな」


 笹谷さんが玄関に向かう。

「……今日はありがとう。一緒にいられて嬉しかった」

 その目が僕をとらえて離さない。


 そして外に出ると――彼女が急に抱きついてきた。

「え……」

 次の瞬間、隣で走り出す音。まさか。


「奈々ちゃん! 待って!」

 

 僕は奈々ちゃんを追いかけようとしたが、笹谷さんに腕を掴まれ、止められる。


「――やだ、行かないで」


 笹谷さんの訴えるような声に、僕は立ちすくんでしまう。やがて、夜の静けさに奈々ちゃんが溶けるように消えていった。


 彼女が僕の目を見つめて話し出す。

「私……初めて会った時から竹宮くんのことが好きだった。竹宮くんが、梅野さんのことで悩んでばかりで辛そうで……心配だった」

 とうとう笹谷さんに告白されてしまった。彼女にはそう見えていたのか。

 

「……どうして梅野さんと一緒にいるの? 私は竹宮くんにそんな思いさせないよ? 私といた方が楽しく過ごせるよ」

 僕はどうして奈々ちゃんと付き合っているのか……そんなの、決まってる。


「あの子が好きだからたくさん悩むんだよ。僕はさ……楽しく過ごすだけじゃなくて、辛い時でも彼女と一緒にいたいんだ」

 

 そう、奈々ちゃんとなら――どんなことがあっても乗り越えられる。


「だから君とは付き合えない。ごめん」

 そう言って僕は走り出す。まだそこまで遠くへは行ってないはず。奈々ちゃんに今度こそ伝えたい。


 

 ――どこまで走って来たのだろう。

 気づけばポツン、ポツンと雨が降ってくる。それでも彼女を探してようやく見つけた……と思ったらそこにいたのは。


「松永……? どうして……」


 奈々ちゃんを傘の中に入れる姿に大人の包容力を感じる。そう思った時だった。


 松永が奈々ちゃんをそっと抱き寄せる。

 その一瞬で、僕が彼女に触れる資格を失った気がした。


「……っ」


 傘の中で2人は何を話しているのだろうか。

 僕は悔しさでその場から動けなかった。


 やがて2人が寄り添いながら歩き出す。

 目の前がぼやけてきて、涙が滲む。


「奈々……ちゃん」


 胸が苦しくて、息ができない。

 何がどうなっているんだ……?


「……竹宮くん、大丈夫?」

 笹谷さんが追いかけて来たようだ。傘をさしてくれている。


「ああ、何ともないよ……じゃあ」

 そのまま僕は自宅へ走り出した。

 雨は僕の心を叩くように鋭く降り注ぐ。



 ※※※



 翌朝。

 雨上がりの空、水たまりが朝日の光で揺れている。

 アルバイト先へ向かおうとしたら、マンションの前に奈々ちゃんが歩いていた。


「……はるくん」

「奈々ちゃん……」


 彼女は顔を背けて僕の隣を通り過ぎる。

「……待って」

「……」


 奈々ちゃんが僕の方を見つめる。不安で怯えているような表情。

「昨日……見たんだ。松永と一緒にいたの?」

 そう言うと彼女ははっと息を呑んで俯く。


「……何もないから」

「本当に?」


「……っ!」

 返事の代わりに、彼女の瞳がわずかに揺れた。

「奈々ちゃん……!」


 彼女はそのまま自分の部屋に向かっていく。

 僕がひとり、この世界に取り残されたような気分だった。


 奈々ちゃんの後ろ姿が儚く消えていく。

 こんなに近くにいるのに、どうして届かないのだろう。


 それでも――誰よりも彼女を想っていた。

 

 

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