第4話 影の残る場所

 その日はいつもより朝が長く感じた。

 時計の針は同じ速度で進んでいるはずなのに、どこか世界の音が少しずれて聞こえる。


 海斗と会った夜から、三日が経っていた。

 いまだに連絡を取る手段はない。

 けれど、夜が来ればまた会える気がして、それまでの時間を“待つため”に過ごしている自分がいた。


 昼間の光は相変わらずまぶしくて、どこか刺々しい。

 でも、以前ほど嫌いではなくなっていた。

 海斗が“昼に戻りたい”と言っていた言葉が、光の意味を少し変えてしまったのかもしれない。


 ――昼にも、彼の何かが残っているのかもしれない。


 そう思った瞬間、胸が少しだけざわついた。


 昼休み、紗月はふと思い立って会社を出た。

 目的など無かった。

 ただ、足が自然とあの交差点の方へ向かっていた。


 ビルの谷間を抜けると、昼の街は喧騒に満ちていた。

 行き交う人々の声、車のクラクション、コンビニの電子音。

 夜の静けさを知ってしまった今、紗月にとってこの音の洪水が少し遠く感じた。


 あの夜、海斗と歩いた道をなぞるように歩く。

 コンビニの角を曲がると、視界に見覚えのあるカフェの看板が入った。


 ――「CAFE LUNA」


 夜に寄った、あの店だ。

 昼間に見るのは初めてだった。

 木製のドアは開かれ、店内からはコーヒーの香りが漂ってくる。

 夜の柔らかい灯りではなく、太陽光がテーブルを照らしていた。

 それだけで、まるで別の場所みたいだった。


 紗月は、ためらいながらも中に入った。

 昼の店内は意外に賑わっていた。

 学生、スーツ姿のサラリーマン、主婦らしき人たち。

 誰もが“現実の世界の顔”をしている。

 夜の静けさも、あの温もりも、どこにもなかった。


 ――やっぱり、夜の幻だったのかな。


 そう思いながら、入り口近くの席に座る。

 前と同じホットミルクティーを頼んで、窓の外を眺める。

 昼の街は、光が強すぎて色を失って見えた。


 テーブルに指先を滑らせたときだった。

 爪の先に、何か小さな凹みが触れた。

 見ると、木の表面にボールペンで描かれたような跡がある。

 線が二本、交差して“K”のような形をしていた。


 ――K。


 その文字を見た瞬間、息が止まった。

 海斗。

 彼の名前の頭文字。

 偶然かもしれない。

 でも、目を離せなかった。

 まるでその線が、誰かの手の熱をまだ残しているようだった。


 指でなぞると、ほんのわずかに温もりがあった。

 錯覚だと分かっていても、

 その“ぬくもり”があまりにリアルで、涙が出そうになった。


「お客様、どうされました?」


 突然、店員の女性に声をかけられて我に返る。

 目じりを指で拭い、慌てて微笑みを作る。


「すみません。ちょっと、見覚えのある文字があって……」

「文字?」


 店員が覗き込んだが、首をかしげた。


「え、何も書いてないですよ?」


 目を見開く。

 見間違い? 

 いや、たしかに“K”があった。

 けれど、今見るとただの木目にしか見えない。


「……そう、ですよね。気のせいでした」


 笑ってごまかす。

 けれど、背筋がひんやりとした。

 あれは、幻覚?

 それとも――。


 午後の仕事中も、手のひらの感触が消えなかった。

 あの小さな凹みをなぞった指先が、今もじんわり熱い。

 書類の紙をめくるたびに、その温度が蘇る。

 頭の中で海斗の言葉がよみがえり、何度も反芻される。


「――昼間にも戻りたい」

「――ちゃんと“ここ”に戻れるようになるまで」


 まるで、本当に“戻ろう”としているみたいじゃないか。

 時計を見る。

 まだ午後三時。

 窓の外の光が眩しい。

 その光が、少しだけ柔らかく見えた。


 ――彼がこの光を見ていたら、どんな顔をするんだろう。


 そう考えると、胸の奥がほんの少し温かくなった。

 

 夜。

 仕事を終えて帰る途中、ふと空を見上げると、薄雲の向こうに月が浮かんでいた。

 半分だけ欠けた、静かな月。

 その形が、なんとなく“K”の文字に見えたせいかもしれない。

 紗月は無意識に、呟く。


 「海斗さん……」


 返事はない。

 でも、風がそっと頬を撫でた。

 その冷たさが、なぜか優しく感じられた。

 足が自然と、あのカフェの方向へ向かっていた。

 夜の店は、以前と同じ静けさを取り戻している。


 ドアを押すと、カランとベルが鳴った。

 店内には誰もいない。

 店主も、いない。

 照明だけが灯っていた。

 カウンターの上に、ひとつだけマグカップが置かれている。

 湯気が、まだほんのりと立っていた。


 ――誰かが、さっきまでいた。


 ゆっくりと近づく。

 カップの縁には、指の跡が残っていた。

 それを見た瞬間、胸の奥が熱くなる。

 席に腰を下ろし、手を伸ばす。


 そのとき、カップの下に小さな紙切れがあるのに気づいた。

 折りたたまれた紙を開くと、

 そこにはたった一行だけ、文字が書かれていた。


 ――昼に見つけてくれて、ありがとう。


 紗月は息を呑んだ。

 指先が震える。

 インクの色は、薄く青かった。

 筆跡は、あの海斗のものに似ていた。


「……海斗さん……?」


 声に出した瞬間、窓の外の風が揺れた。

 カラン、とドアのベルがひとりでに鳴る。

 でも、誰も入ってこない。

 ただ、カップから立ち上る湯気が、ゆっくりと空気に溶けて消えていった。


 その夜、紗月は帰り道で泣いた。

 理由は分からない。

 寂しさとも、嬉しさとも違う涙だった。


 “昼に見つけてくれてありがとう”――その言葉が何度も心に響く。


 まるで、彼が少しだけ昼の世界に戻ってきたように思えたから。

 その瞬間、自分の中の昼と夜の境界が、ふっと曖昧になった気がした。


 もしかしたら、彼は少しずつ戻ってきているのかもしれない。

 光の方へ。

 そして、私の方へ。

 夜の風が頬を撫でる。

 その温度が、まるで誰かの手のように優しかった。

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