第3話 昼の街で、いない人

 朝の光がまぶしかった。

 カーテンの隙間から差し込む陽射しが、部屋の埃をきらきらと浮かせている。

 それは確かにきれいな光景なのに、なぜか胸の奥がざらついていた。


 夜が終わったことを、身体が拒んでいる気がした。

 昨夜のことを思い出す。

 海斗の声、手の動き、あの「夜だけにしてください」という言葉。


 全部、現実の出来事だったのだろうか。

 枕元のスマホを手に取って、連絡先を探す。

 けれど、当然だが登録なんてしていない。

 SNSを開いてみても、“海斗”という名前はあまりに多すぎて、どれが彼かなんて分からない。

 それでも、どこかに痕跡が残っている気がして、

 何度も指で画面をなぞっていた。


 出社しても、心は上の空だった。

 上司の指示も、隣の同僚の雑談も、全部が遠くに聞こえる。

 モニターに映る文字列を眺めながら、その行間に、海斗の姿を探している自分に気づく。


 “昼間にはいない”――あの言葉が頭から離れなかった。

 会いたいわけじゃない。

 ただ、あの夜の感触をもう一度確かめたかった。

 あれが幻じゃないと信じたかった。


 昼休み、思い切って外に出た。

 見上げた空は快晴で、雲ひとつなく澄んでいた。

 こんなに明るいのに、まるで空気が薄いように感じた。


 足が勝手に動いていた。

 あの夜、海斗と出会った交差点へ。

 昼の街は、まるで別の世界だった。

 人の波、車の音、眩しすぎる光。

 同じ場所のはずなのに、まったく違う場所みたいだ。


 夜の静けさを知ってしまった今では、この明るさがやけに刺さる。

 交差点を渡り、ふと立ち止まる。

 あのとき、海斗が立っていたあたりを見渡した。


 だけどどこにも、海斗の姿はなかった。

 当たり前だ。

 でも、分かっていても、心のどこかで期待してしまう。

 そんな自分に気づくたび、ため息が漏れた。


 その夜は、いつもより早く帰った。

 残業を断るなんて珍しい。

 同僚に「大丈夫?」と聞かれたが、

 自分でも理由を説明できなかった。

 ただ、夜になれば、またあの声が聞ける気がした。

 そう思うと、昼間の疲れも少し和らいだ。


 帰り道。

 雨は降っていなかった。

 けれど、空気はどこか湿っている。

 街の灯りが少しずつ滲み始める時間帯。

 昼と夜の境界が曖昧になる。


 ――その瞬間、胸の奥で何かがざわめいた。


「海斗さん」


 思わず名前を口にしていた。

 それは祈りのような呟き。

 誰もいない道で、自分の声だけが響く。

 当たり前だけど返事は、ない。

 やっぱり、いない。


 それでも、歩みを止められなかった。

 同じ道を、同じように辿る。

 あの夜のように。

 そして、交差点の角まで来たとき――風が吹いた。

 それは冷たく、懐かしい夜の匂いを運んでくる。

 空を見上げると、厚い雲の切れ間に星がひとつ光っていた。


「……やっぱり、いないんだね」


 そう紗月が呟いたときだった。

 背後から、ふっと紗月を撫でるような声がした。


「誰かを探してるんですか?」


 思わず振り返ると、そこに海斗が立っていた。

 信じられなかった。

 こんなにあっさり、また現れるなんて。


「……どうして」

「言ったじゃないですか。夜なら、俺はここにいられるって」


 彼は笑っていた。

 けれど、どこか無理をしているようにも見えた。


「今日の紗月さん、少し疲れてますね」

「分かります?」

「顔に出てますよ。昼の光を浴びすぎた人の顔をしてるから」


 その言い方が妙に優しくて、紗月は苦笑した。


「海斗さんって、もしかして私のこと……見てた?」

「少しだけ?」


 冗談っぽく言うその口調の裏に、何か深い悲しみが隠れているような気がした。

 

 その夜は、二人でしばらく並んで歩いた。

 会話は少なかった。

 でも、沈黙の間に不思議な安心感があった。

 海斗が歩くたび、影が街灯の光に揺れる。

 その輪郭が、ほんの少しだけ透けて見えた気がした。


「……海斗さん」

「うん?」

「あなた、本当にここにいるんですよね」

「今は、ね」


 その言葉に、足が止まった。

 “今は”という響きが、静かに紗月の胸を刺す。


「昼間は、どうしていないの?」

「昼は俺を見つけられないだけですよ」


 そう言って、彼は遠くの街を見た。

 夜の灯りの向こうに、何かを探すような目をしながら。


「本当はね、昼間の世界にもいたいんです。でも、もう少し時間がかかりそう」

「時間?」

「俺が、ちゃんと“ここ”に戻れるようになるまでの時間」


 紗月はその言葉の意味を理解できずに、黙り込む。

 けれど、海斗の横顔がどこか切なくて、何も聞けなかった。


「紗月さん」

「はい」

「もし俺が昼の街に現れたら、そのときは笑ってください」

「笑う?」

「うん。きっと、それは“ちゃんと生きてる”ってことだから」


 静かな声。

 その瞬間、胸の奥に温かい何かが広がった。

 この人は、“いない”のではなく、

 “まだ戻れていない”だけなのかもしれない。


 家に帰っても、海斗の言葉が頭から離れなかった。


「昼間にも戻りたい」

「笑ってください」


 それはまるで、自分自身への言葉のようでもあった。

 昼の街が嫌いで、光の下では本当の自分を隠してきた。

 けれど、海斗は“昼に戻りたい”と言った。

 その言葉が、紗月の中の何かを静かに動かしていた。


 ベランダに出る。

 夜風が頬を撫でる。

 雲が流れ、星がひとつ瞬いた。


 ――もし、また夜に会えたら。


 今度はちゃんと、聞いてみよう。

 あなたが“昼”に戻れない理由を。

 心の中でそう決めたとき、

 どこか遠くで風鈴のような音がした。

 それはまるで、誰かの返事みたいに優しく響いた。

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