第2話 夜だけの友達

 朝、目が覚めても、昨日の雨の匂いが部屋の中に残っていた。

 まるで夢の続きがまだ終わっていないようだった。


 シーツに包まれたまま天井を見つめる。

 ぼんやりとした意識の中に、昨夜の光景が何度も浮かんでは消えた。


 ――海斗。


 あのとき、確かに名乗り合った。

 「また夜に」と笑った彼の声が、耳の奥にまだ残っている。

 目を閉じると、あの穏やかな表情が浮かんだ。

 優しいけれど、どこか寂しげな眼差し。

 たった一晩の出会いなのに、妙に記憶に焼きついて離れなかった。


 もしかしたら、あれは夢だったんじゃないか――そう思う。


 けれど、現実のほうがずっと霞んで見える気がして、

 どちらが夢なのか分からなくなる。

 そんなことを考えながら、紗月はドアノブに手をかけた。

 

 会社の蛍光灯は、いつも通り冷たかった。

 画面に映る数字とメールの羅列。

 人の声が絶え間なく響くオフィスの中で、紗月だけが少し外れた場所にいるような気がした。


「紗月さん、それ昨日のデータだよね。今日中にお願いね」

「あ、はい。今、まとめてます」


 返した声は自分でも驚くほど淡々としていた。

 言葉を交わしても、心のどこかが水面下に沈んでいる。

 みんなの笑い声が遠くで響くたびに、

 その距離を痛いほど感じた。


 ――海斗みたいに、誰かがちゃんと自分の話を聞いてくれたら。


 そんなことを考えてしまって、慌てて首を振る。

 昨日のたった数時間で、何を求めているんだろう。

 けれど、あの夜の静けさを思い出すたびに、

 胸の奥が不思議と落ち着いた。

 夜だけが、自分をまっすぐにしてくれる気がした。

 

 帰り道、ビルの谷間を抜けると雨が降っていた。

 昨日と同じ冷たい匂いがした。

 思わず空を見上げる。

 街灯に照らされた雨粒が白く光り、まるで無数の時間が空から降ってくるみたいだった。

 胸の奥で、小さく何かが跳ねた。


 また会えるかもしれない――そんな予感がした。


 傘を開いて歩き出す。

 交差点の信号が青に変わる。

 ふと、反対側の歩道に人影が見えた。

 黒い傘、少し濡れた髪に落ち着いた立ち姿。

 あの日と同じ姿勢。


「……海斗さん?」


 声に出した瞬間――海斗が顔を上げた。

 少し驚いたように目を見開いて、すぐに柔らかく笑う。


「こんばんは、紗月さん」


 胸が一気に熱くなった。

 本当に、また会えたんだ。

 言葉を探しても、喉の奥が詰まって出てこない。


「偶然ですね」

「ええ……偶然、ですね」


 海斗が傘を少し傾けた。

 また、ふたりの世界ができあがる。

 雨音の膜の中に、ふたりだけが閉じ込められる。


 歩きながら、紗月は小さく息を吐いた。

 現実感がどこか遠のいていく。

 目の前にいる彼は確かに人間の姿をしているのに、その存在がどこか、この世界の外側にあるように感じられた。


「昨日、帰りはどこまで行ったんですか?」

「秘密です」

「秘密?」

「うん。俺、昼の場所にはあまりいないから」


 紗月は言葉の意味を理解できずに眉をひそめる。

 でも、海斗の声にはどこか悲しみが混じっていて、それ以上問い詰めることができなかった。


「じゃあ、夜にしか出てこないんですか?」

「そうかもしれないね」

「まるで幽霊みたい」

「それでもいいですよ。夜の幽霊って、意外と悪くないんです」


 彼がそう言って笑ったとき、胸の奥にじんとした熱が広がった。

 冗談に聞こえないのに、怖くなかった。

 むしろ、そんな風に夜に溶けてしまいたいと思った。


 少し歩いたあと、海斗が立ち止まった。


「そうだ。ねえ、あそこに寄っていきませんか」


 指差した先には、小さなカフェがあった。

 窓越しに見える灯りが、雨に滲んで優しく揺れている。


 店に入ると、カウンターには店主ひとり。

 静かなピアノの音が流れていた。

 外が寒かったからか、温かい空気が肌に触れるだけで、ほっとする。


 紗月はミルクティー、海斗はホットコーヒーを頼んだ。

 席につくと、ふわりとコーヒーの香りが広がる。


「昼間は、どんな仕事してるんですか?」

「事務です。数字ばかり見てて、特に面白くもないですよ」

「でも、そういう毎日を続けられるのって、すごいと思います」

「え?」

「ちゃんと“生きてる”感じがするから」


 その一言に、なぜか胸の奥がきゅっとなった。

 自分の毎日を誰かが肯定してくれるなんて、いつ以来だろう。


「……そんなふうに思ったこと、なかったです」

「多分、気づかないだけですよ。“続けること”って、簡単そうで難しいですから」


 彼の言葉は静かだったが、その奥に強い温度があった。

 まるで、自分も何かを“続けられなかった”人みたいに。


「海斗さんは?」

「ん?」

「昼間は……何をしてる人なんですか?」


 少しの間を置いて、海斗は笑った。

 でも、その笑みはどこか影を落としていた。


「俺は、昼間の世界とは少し縁が薄いんです。だから夜にこうして、人と話すのが好きなんですよ」


 返す言葉が見つからなかった。

 その瞳には、深い孤独が宿っているように見えたから。

 それが痛いほどわかる気がした。

 沈黙が続く。

 けれど、それは不安ではなかった。

 紗月の心の奥で、似た孤独が共鳴していた。


「……不思議ですね」

「何がですか?」

「昨日会ったばかりなのに、こうして話してるのが」

「不思議なことなんて、夜にはよくありますよ」


 海斗は穏やかに笑った。

 その笑みがあまりに優しくて、それでいて眩しくて、紗月は少し泣きたくなった。

 

 外に出ると、雨はもう止んでいた。

 アスファルトに映る街灯の光が、濡れた世界を柔らかく照らしている。

 静かな夜に、通り過ぎる車の音だけが遠くで響いた。


「……紗月さん」

「はい?」

「ひとつ、お願いがあります」

「お願い?」


 海斗は少しだけ真剣な表情になった。

 唇が何かをためらうように震えていた。


「俺と会うのは、夜だけにしてください」


 その言葉に、空気が一瞬止まった。

 冗談じゃないことが、すぐにわかった。


「どうして……?」

「理由は言えません。でも、夜の間だけなら俺はここにいられるんです」


 悲しみとも安らぎともつかない声。

 海斗の目に、光が静かに滲んでいた。


「夜は嘘が少ないんですよ。だから、俺は夜が好きなんです」


 その言葉が紗月の胸の奥に深く沈む。

 何も言えずに頷くしかなかった。

 海斗は、ふっと微笑んで歩き出した。

 街灯の光が彼の背中を淡く照らす。

 その輪郭が少しずつ遠ざかり、やがて闇に溶けていった。


 ――夜だけに。


 残されたその言葉が、いつまでも心の中で揺れていた。

 けれど、不思議なことに怖くなかった。

 むしろ、胸の奥が静かに温かかった。

 彼の存在が確かに“生きて”いる気がした。


 たとえ、それが夢のような夜の出来事であっても。

 紗月は空を見上げた。

 雲の切れ間から、星がひとつだけ覗いていた。

 その小さな光を見つめながら、海斗の言葉を何度も心の中で繰り返した。


 ――夜の間だけなら、俺はここにいられる。


 その意味を、まだ紗月は知らない。

 けれど、その言葉が優しく響いているうちは、きっと夜を怖がらずにいられると思った。

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