夜しか会えない彼が、壊れた私の心を少しずつ癒していく

洸夜

第1話 夜に降る雨と、ひとつの傘

 雨の音が、街を包みこんでいた。

 アスファルトの上を細かな水の粒が跳ね、街灯の光が滲む。

 紗月は駅へと続く道の途中で、立ち止まった。

 自分の手にあるはずのものが握られていないことに気づいた。


 ――傘を、置いてきた。


 デスクの横のカゴに、きっと今も無造作に立てかけられている。

 今から来た道を戻る気力は、もう残っていなかった。

 今日一日で、すべてのエネルギーを使い果たしていた。


 残業続きで、頭の奥が鈍く痛む。

 携帯の電池は切れかけ、ハンドバッグの中には冷めたペットボトルの水。

 心まで湿ってしまいそうだった。

 信号の赤が、雨に濡れた路面に揺れている。

 少し俯いたまま、紗月はぼんやりと呟いた。


「……なんか、もう嫌になるな」


 吐き出した言葉は、雨音にかき消された。

 夜の街を歩く人はまばらで、傘の群れもとうに消えている。

 髪に雨粒が落ち、シャツが肌に張りつく。

 心の奥まで冷たくなるようだった。


 駅までは五分。

 それでも、その距離が永遠に思えるほど足が重い。

 最近は、こういう夜が増えた。

 仕事をして、帰って、眠るだけ。

 “ちゃんと生きてるはずなのに”という虚しさが、日々少しずつ胸の中に沈んでいく。


 ――このまま消えてしまっても、誰も気づかないんじゃないか。


 ふと、そんな考えがよぎる。

 そのとき、傍らで「パシャッ」と音がした。

 反射的に顔を上げる。

 そこに、ひとりの青年が立っていた。

 黒い傘を差し、柔らかく微笑んでいた。

 街灯の光が彼の肩に落ちて、雨粒を淡く照らす。


「よかったら、どうぞ」


 穏やかな声だった。

 まるで、音が雨の中をすり抜けて届いたような、不思議な響きだった。


「いえ、大丈夫です。すぐそこなので」


 紗月は慌てて言った。

 けれど、青年は首を小さく横に振る。


「この雨、止みそうにありませんよ」


 そう言って、傘を少し傾けた。

 彼が半歩踏み出した瞬間、紗月の肩が傘の中に収まる。

 雨音が遠ざかり、狭い空間に静寂が落ちた。

 距離が近い。

 けれど、不思議と息苦しくはなかった。

 むしろ、少し安心する。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 そう言って彼は、軽く笑った。

 笑うと頬の筋肉が少しだけ動いて、目尻に柔らかい影ができる。

 その表情を見て、胸の奥で何かが揺れた。


 二人で歩き始める。

 雨が傘を叩く音が、規則正しいリズムを刻んでいた。

 彼の歩幅は穏やかで、何故か息が合う。


「夜道をひとりで歩くの、怖くないんですか?」

「慣れちゃいました」

「そうですか」


 彼は少し俯いて笑う。

 その横顔を、紗月は横目で盗み見る。

 細い指先で傘の柄を支える仕草。

 時折、視線が遠くの街灯をなぞるように揺れる。

 言葉数の少ない人なのに、不思議と間が心地よかった。


「……最近、疲れてるんです」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


「疲れてるように見えません?」

「そうですね。でも、それを無理に隠してる感じもしないかな」


 彼の声は静かだった。

 否定もしない、慰めもしない。

 ただ、そこに“聞く人”として存在してくれるような。


「……仕事、頑張りすぎちゃうんです」

「ちゃんと頑張れる人なんですね」

「え……?」

「本当に壊れてる人は、自分が頑張ってることにも気づかないから」


 紗月はその言葉に、少しだけ息を飲んだ。

 他人にそう言われたのは、初めてだった。

 駅前に差しかかった頃、彼がふと呟く。


「コーヒーでも飲んで、少し温まりませんか」


 少しだけためらいながらも、紗月は頷いた。

 ファミレスの照明が柔らかく灯る。

 外の雨音が遠のき、窓ガラスに映る二人の姿が滲んでいた。

 湯気の立つカップを前にして、ようやく一息つく。


「雨の日の夜って、落ち着きますね」


 紗月が言うと、彼は微笑んだ。


「俺も好きですよ。夜は、余計な音が少ない」

「昼は?」

「俺には少し眩しすぎて」


 その答えが妙に印象に残った。

 彼の声には、どこか夜の匂いが混じっている気がした。

 沈黙が流れても、不思議と苦しくない。

 外ではタクシーのライトが流れ、雨粒が光っては消えていく。

 そんな景色を眺めながら、彼がぽつりと呟く。


「……そういえば、まだ名乗ってませんでしたね」


 少し照れたように笑う。


「俺、海斗って言います。海の“海”に、北斗七星の“斗”」

「海斗さん……」


 口に出してみると、その響きが胸の奥に残った。


「あなたは?」

「紗月。いとへんに少ないという字に、月の“月”です」

「海と月か。なんだか、いい組み合わせですね」


 その言葉に、なぜか心が少し温かくなった。

 名前というだけのものが、こんなにも近く感じるなんて。

 カップの縁に指を添えながら、紗月はふと海斗の手元を見る。

 長い指。白くて、少し冷たそうな肌。

 なのに、その仕草はとても柔らかかった。


「お仕事は……?」


 紗月がそう尋ねると、海斗は一瞬だけ間を置いた。


「そうですね……今は、夜の仕事みたいなものです」

「夜の、仕事?」

「うん。夜の間だけ、誰かのそばにいられる仕事」


 冗談のようにも、詩のようにも聞こえる。

 けれど彼の目は真剣だった。


「……変わってますね」

「よく言われます」


 そう言って笑う海斗の顔は、どこか寂しそうだった。

 店内の時計が零時を回る。

 外の雨は弱まったが、風の音が窓を揺らしている。

 海斗が立ち上がり、軽く頭を下げる。


「そろそろ、行かないと」

「もう帰るんですか?」

「ええ。また――夜に」


 彼の言葉が、胸に静かに落ちた。

 “夜に”という響きが、妙に深く残る。

 海斗は傘を置いていった。


 「これ、よかったら使ってください」とだけ言い残し、雨の街へと消えていった。

 追いかけるように外に出てみたが、海斗の姿はもうなかった。

 まるで夜の闇に溶けてしまったかのように。


 紗月は渡された傘を開く。

 まだ温もりが残る柄を握りしめ、空を見上げた。

 雨の匂いが、少しだけ優しく感じた。

 心の奥のどこかで、久しぶりに“何かが動いた”気がした。


 ――夜にしか咲かない花があるとしたら。


 それは、こんな静かな優しさの中で咲くのかもしれない。

 傘の下で、紗月は小さく息を吐いた。

 その音が、雨に溶けて消えていった。

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