第5話 声の届く距離
昼の街を歩くと、どこかが違って見えた。
陽射しは同じなのに、色がやわらかい。
人の声も、機械音も、以前より少しだけ遠く感じる。
まるで、世界の膜が薄くなって、自分の心が外側に透けているようだった。
あの夜、カフェで見つけたメモの文字。
――昼に見つけてくれて、ありがとう。
それを思い出すたび、胸の奥がふっと温かくなる。
海斗の筆跡。
海斗の声。
あの夜の微笑み。
全部、まだどこかで息づいている。
その日も、午前の仕事を終えたあと、紗月はまた外に出た。
行くあてもなく歩いているのに、足が自然と同じ道を選ぶ。
あのカフェの角を曲がる。
昼の風が頬を撫でた。
そして、次の瞬間――。
「紗月」
名前を呼ばれた。
その声は、確かに海斗の声だった。
思わず振り返る。
けれど、そこには誰もいない。
ただ、陽炎のように揺れる光だけがあった。
胸が高鳴る。
耳の奥で、まだ声が残響している。
空耳じゃない。
海斗の声が、本当に届いた。
「海斗さん……?」
囁くように呼ぶ。
返事はない。
けれど、風がふっと吹いて、スカーフの端を揺らした。
その風が、どこか懐かしい温度をしていた。
午後。
紗月は会社の休憩室で、机に突っ伏していた。
同僚たちは雑談しているが、耳に入らない。
“声”のことを考えていた。
幻聴、かもしれない。
でも、あの温度をどう説明すればいい?
海斗は――まだ、そこにいる気がする。
昼の中に、静かに混ざっている。
スマートフォンの画面を見つめる。
連絡先も知らない相手に、メッセージなど送れるはずがない。
それでも、指先が動く。
「会いたい」と打って、すぐ消す。
「どこにいますか」と打って、また消す。
言葉が空中に滲んでいくような感覚。
海斗に届くかもしれない、と馬鹿な期待を抱いて。
夜。
帰り道で、ふとカフェの灯りが見えた。
吸い寄せられるようにドアを開ける。
ベルの音が静かに響いた。
――そこに、彼はいた。
カウンターの席。
夜と同じ、黒のジャケット。
白いシャツの袖口をまくって、湯気の立つマグを手にしている。
ほんの一瞬、時間が止まった。
「……海斗さん?」
彼はゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に、あの穏やかな光が宿っている。
けれど、どこか――透けていた。
輪郭が、空気に滲んでいる。
「来てくれると思ってた」
「本当に……いるんですか」
「いるよ。今は、ちゃんとここに」
紗月は立ち尽くしたまま、涙が込み上げるのを必死にこらえた。
夢なのか現実なのか、もう区別がつかない。
でも、確かに“心”はここにあった。
「どうして……昼に、声が聞こえたんですか?」
海斗は少し微笑む。
「君が、昼の世界で僕を見つけてくれたから」
「……私が?」
「そう。僕はずっと夜に縛られてた。でも、君が昼にも僕を思い出してくれた。その想いが、夜と昼の境界を少しだけ壊してくれたんだ」
海斗の声は静かだった。
けれど、言葉の一つひとつが紗月の胸に深く刺さる。
「じゃあ、もう……昼にもいられる?」
「まだ、少しだけ。でも、このままじゃいられない。夜と昼の境界を越えるのは、長くはもたないんだ」
「そんなの、嫌です」
思わず声が震えた。
「もう会えなくなるなんて……やっと、見つけたのに」
海斗は何も言わず、席を立った。
そして、そっと紗月の髪を撫でた。
その指先はあたたかかった。
けれど、触れた瞬間に、空気がかすかに震える。
「大丈夫。君が昼を好きになってくれたなら、それでいい」
「……それで、いい?」
「僕はもう、夜に閉じ込められても構わない。でも、君はもう、光の中にいられる」
言葉が喉で詰まる。
どうして、そんなに優しく笑えるのだろう。
「ねえ、紗月。もし昼の空を見上げて、少しでも僕を思い出したら――そのとき、僕はちゃんとそこにいるから」
海斗は微笑んだ。
その笑みが、滲む光の粒になって消えていく。
「海斗さん、待って……!」
手を伸ばした。
でも、紗月の指先が届くより早く、海斗の姿は夜の光の中に溶けていった。
翌朝。
紗月はカーテンを開け、窓の外を見た。
雲一つない青空。
強い日差しに、思わず目を細める。
机の上には、一枚の紙切れがあった。
――あのとき、カフェで見つけたメモ。
夜に置いて帰ったはずなのに、なぜか家の机にある。
そこに、新しい一行が書き足されていた。
――「やっと、昼がきれいだと思えた」
涙が頬を伝った。
でも、それは悲しみの涙ではなかった。
光の中で、心が溶けるような感覚だった。
空の青さの中に、彼の声が微かに混ざっている気がした。
“昼にも戻りたい”――彼の願いが、ようやく叶ったのだと思う。
紗月は窓を開けて、風を吸い込む。
その風は、どこか懐かしく、優しい匂いがした。
「……おはよう、海斗さん」
光の中で、彼の名前が静かに響いた。
もう夜ではなく、昼の世界で――その声を聞いた。
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