第14話

 失われた時間を取り戻すかのように、侑作は麗奈を抱きしめる腕に力を込めた。


 彼女の体温が、指輪をはめた指先から伝わる温もりが、ここにある現実こそが真実なのだと告げていた。過去の悪夢は、この腕の中のぬくもりによって浄化されていく。そんな確信があった。


 ふと、侑作の視界の端でカーテンの隙間から見える向かいのマンションの窓が、一瞬だけ鈍い光を反射したような気がした。


 気のせいか……?


 脳裏に警鐘が鳴る。だが、腕の中で安堵のため息をつく麗奈の存在が、その小さな違和感をすぐに打ち消した。もう何かに怯える必要はない。


 彼は静かに立ち上がると、外の闇を遮断するようにゆっくりと厚手のカーテンを引ききった。


 これでいい。この部屋はもう誰にも汚させない。二人だけの聖域(サンクチュアリ)なのだから。


 だが、その壁一枚を隔てた世界で悪意の残滓がまだ燻り続けていることを、彼は想像すらしていなかった。


 その日から数日後のことだった。


 プロジェクトリーダーとして多忙な日々を送る侑作は、帰宅中の電車の中でスマートフォンを確認していた。同僚からの業務連絡や、麗奈からの「今日は豚の生姜焼きです」という心温まるメッセージに目を通し、自然と口元が緩む。


 そんな彼の指が、不意に止まった。


 見慣れないSNSアカウントから一件のダイレクトメッセージが届いていた。アイコンは真っ黒で、名前は意味のないアルファベットの羅列。嫌な予感が、冷たい手で心臓を撫でる。


 タップするのを躊躇ったが、無視することもできず、侑作は意を決してメッセージを開いた。


 そこに現れたのは、一枚の写真だった。


 侑作の部屋のリビング。ソファの上で、彼が麗奈を優しく抱きしめている姿。それは数日前にペアリングを渡した、あの夜の光景だった。窓の外から望遠レンズで撮影されたことが一目でわかる、悪意に満ちた一枚。麗奈の髪が少しだけ乱れ、二人の私的な瞬間を意図的に切り取ったような構図だった。


 心臓を氷のペンチで掴まれたような衝撃。血の気が引き、指先が急速に冷えていく。


 写真の下には、短いテキストが添えられていた。


『おめでとう。新しい女は、さぞかし気持ちがいいだろう』


 全身の毛が逆立つような感覚。スクロールすると、メッセージはさらに続いていた。


『その女のこと、本当に信じているのか? お前はまた、女の嘘に気づいていないだけじゃないのか?』


『小笠原麗奈の過去を知っているのか?』


『お前はまた騙されている。救いようのない馬鹿だな、西浦侑作。あの女も、お前の前では純真なフリをしていたじゃないか』


 最後の言葉が、錆びたナイフのように侑作の心の古傷をこじ開けた。


 月島学人。


 その名前が呪いのように脳内で反響した。あいつだ。社会的に抹殺されたはずの男が、まだ地獄の底から自分を睨みつけている。


 愛奈に裏切られたあの夜の絶望が、鮮明に蘇る。彼女の嘲笑うような顔、月島に抱かれていた姿……。俺はあの時、何も知らなかった。信じきっていた。


 麗奈の過去……?


 一瞬、本当に、ほんの一瞬だけ。黒い疑念の芽が心に生えた。理性ではありえないと分かっている。だが、トラウマに焼かれた魂は、いとも簡単に過去の悪夢に引きずり込まれそうになる。


 また、俺だけが知らない真実があるんじゃないか? この幸福も、いつか崩れ去る砂上の楼閣なのではないか?


 違う。


 侑作は奥歯を強く噛み締めた。


 俺は、もうあの頃の俺じゃない。


 彼はスマートフォンの画面を閉じると電車を降り、逸る心を鎮めながら桜新町のアパートへと急いだ。


「ただいま」


 ドアを開けると、香ばしい匂いと共に出迎えてくれた麗奈の顔を見て、侑作は大きく息を吐いた。心が安息の地へと帰還するのを感じる。


「おかえりなさい、侑作さん。顔色が優れませんが、何かありましたか?」


 彼の些細な変化も見逃さない、冷静で、それでいて優しい眼差し。


 侑作はもう一人で抱え込むことはしなかった。彼は麗奈をダイニングテーブルの椅子に座らせると自分もその向かいに腰を下ろし、先ほどのメッセージを見せた。


 麗奈は眉一つ動かさず、スマートフォンの画面を静かに見つめた。彼女の表情からは動揺も恐怖も読み取れない。ただ、その黒い瞳の奥で無数の情報が高速で処理されていくのが分かる。


 数秒の沈黙の後、彼女は顔を上げた。


「……やはり、これで終わりではありませんでしたか」


 その声はどこまでも落ち着いていた。


「これは月島学人による最後の攻撃でしょう。目的は明白です。一つはあなたへの精神的揺さぶり。過去のトラウマを刺激し、再び自己不信に陥らせること。そしてもう一つは、私たちの関係を内部から破壊することです」


 淡々と事実だけを分析するその言葉が、侑作の心を覆い始めていた不安の霧を払っていく。


「私の過去、などと仄めかしているのは、あなたの中に疑念の種を植え付けるため。彼が最も得意とするガスライティングの手法です」


「……ああ、分かっている」


 侑作は頷いた。心の奥で芽生えかけた醜い感情を恥じる。


「一瞬、本当に一瞬だけ、あの夜のことが頭をよぎった。でも、すぐに違うと思えた。麗奈さんがそんなことで揺らぐはずがないって。俺たちの関係は、あんな嘘で壊れるほど脆くない」


 彼の正直な告白に、麗奈はほんの少しだけ目を細め、微かに微笑んだように見えた。


「ええ。その通りです」


 彼女はきっぱりと言った。


「感情的になるのは相手の思う壺です。私たちはこれまで通り、事実と論理でこれに対処します」


 その言葉はまるで暗闇に灯された灯台の光だった。かつて絶望の淵にいた侑作を導いてくれた、あの光。


「まず、このメッセージと写真は脅迫およびストーカー規制法に抵触する可能性がある、極めて悪質な証拠です。スクリーンショットを複数保存し、クラウドにもバックアップを取ってください」


「分かった」


 侑作はすぐさま指示に従った。


「次に、発信者の特定ですが、これは専門家の領域です。明日朝一番で警察署のサイバー犯罪対策課に相談に行きましょう。私が付き添います」


「ありがとう、麗奈さん。心強いよ」


「それから……」


 麗奈は立ち上がると窓の外、向かいのマンションに視線を向けた。


「あの写真は数日前の夜に撮影されたもの。カーテンを閉める直前、一瞬だけ光が見えたとあなたが言っていましたね」


「ああ。気のせいかと思ったけど……」


「おそらく、あれがレンズの反射光です。撮影場所は向かいのマンション。私たちの部屋を真正面から捉えられる部屋は三階と四階の角部屋、二つに絞られます」


 市役所職員として常に地図や区画整理図に触れている彼女ならではの、正確な空間認識能力だった。


「犯人は月島学人本人か、あるいは彼が雇った人間でしょう。どちらにせよ、私たちの行動は監視されていると考えるべきです」


 その事実は恐ろしいはずなのに、麗奈が隣にいるだけで侑作は不思議と冷静でいられた。これはもう自分一人の戦いではない。信頼できるパートナーと共に立ち向かうべき、最後の試練なのだ。


 二人はその夜、豚の生姜焼きをいつも通りに食べた。不安なそぶりは見せず、普段と変わらない会話を交わしながら。それは悪意に対する、彼らなりの静かな宣戦布告だった。


 翌日、二人は有給休暇を取得し警察署へと向かった。


 担当の刑事は、侑作が以前月島の不正を告発した際に話を聞いた人物だった。事情を説明し、メッセージの証拠を提示すると刑事は深刻な表情で頷いた。


「月島は保釈中の身ですが、これは悪質ですね。保釈条件にも違反する可能性が高い。直ちに捜査を開始します」


 警察が動いてくれたことに安堵しつつも、侑作は自分にできることを探した。ITベンチャーの営業として培った知識を総動員し、メッセージが送られてきたSNSの通信記録の痕跡を専門家の友人の助けも借りながら分析する。


 一方、麗奈は公的な情報開示請求などを通じ、向かいのマンションの所有者情報などを合法的な範囲で調査していた。


 二人の連携は完璧だった。侑作がデジタルの領域で糸をたぐり、麗奈がリアルの世界でパズルのピースをはめていく。


 そして三日後。事態は急展開を迎えた。


 警察からの連絡だった。サイバー犯罪対策課の捜査により、発信元が特定されたのだ。それは都内の安価なネットカフェからだったが、防犯カメラの映像からメッセージを送信した人物が割り出された。


 その男は小さな興信所の調査員だった。


 男は警察の任意の事情聴取に対し、あっさりと依頼主の名前を白状した。


 月島学人。


 彼は保釈された後、惨めなプライドと僅かな金で調査員を雇い、侑作への復讐を企てていたのだ。目的は侑作と麗奈のプライベートを盗撮し、それをネタに二人を引き裂き、侑作を再び精神的に追い詰めること。どこまでも粘着質で救いようのない悪意だった。


 月島はストーカー規制法違反、そして脅迫の容疑で即日再逮捕された。保釈も取り消され、今度こそ彼が社会復帰できる可能性は完全に絶たれた。


 全ての終わりを告げる電話を切った侑作は、隣で静かに成り行きを見守っていた麗奈と顔を見合わせた。


「……終わったんだな。本当に、全部」


 呟く侑作に、麗奈は静かに頷いた。


「はい。終わりました」


 刑事は電話の最後にこう付け加えていた。


『月島は取り調べに対し、一切反省の色を見せていません。むしろ、西浦さんへの恨み言を繰り返し叫んでいたそうです。「あいつはまた騙される」「俺は何も間違っていない」と。全く、救いようのない男ですよ』


 その言葉が、彼の悪意の根深さを物語っていた。


 侑作は、そんな消えない悪意ごと過去を振り払うように、麗奈の肩をそっと抱き寄せた。彼女の頬に安堵の涙が一筋、伝うのが見えた。彼が初めて見る彼女の涙だった。


 もうこの手を離すことはない。この穏やかな日常を何があっても守り抜く。侑作は心に固く誓った。


 ◇


 薄暗いワンルームのアパートで、百鬼愛奈はスマートフォンの画面をただ見つめていた。


『元上司・月島学人容疑者を再逮捕』


 その見出しが、彼女の終わってしまった人生に最後の一撃を加える。


 この男に唆され、侑作を裏切った。甘い言葉と刹那の快楽に溺れ、全てを失った。ブランド品も、高級マンションも、そして何より侑作の優しさも、もうどこにもない。


 自らの愚かさと裏切りの代償。その途方もない重さに、彼女はただ虚ろなため息をつくことしかできなかった。


 ◇


 それから一年が過ぎた。


 柔らかな朝日が差し込むリビング。テーブルの上では湯気の立つコーヒーとこんがりと焼かれたトーストが並んでいる。


「侑作さん、そのネクタイ、少し曲がっています」


「おっと、本当だ。ありがとう」


 麗奈が立ち上がり、慣れた手つきで侑作のネクタイを締め直す。その自然な仕草に、共に過ごしてきた時間の密度が感じられた。


 一年前と似た光景。だが、そこに流れる空気は恋人同士の初々しいそれとは違う、より深く温かい信頼に満ちていた。かつて愛奈との旅行パンフレットが置かれていたテーブルの上には、二人で選んだ小さな観葉植物が青々とした葉を広げている。


 週末、二人は連れ立ってサザエさん通り商店街を歩く。


「あら、西浦さんと麗奈ちゃん。今日も仲がいいわねえ」


 八百屋の店主が、おまけだと言ってトマトを一つ買い物袋に入れてくれる。


 ふと、向かいの歩道を歩く女性の横顔が、一瞬だけ愛奈に似ているように見えた。侑作の心臓が小さく跳ねる。だが、すぐに人違いだと分かり、彼は自嘲気味に息を吐いた。


 NTRが刻んだ傷は、今も心の奥で微かに疼く。完全に消えることはないのかもしれない。


 そんな彼の心の揺れに気づいたのか、隣を歩く麗奈がそっと彼の手に指を絡めてくる。その温かさが、過去の幻影を霧のように消し去っていく。


 ある晴れた休日の午後。


 二人はアパートのベランダで、買ってきたばかりのコーヒー豆で淹れた一杯を味わっていた。穏やかな風が桜新町の閑静な住宅街を吹き抜けていく。


「不思議だよな」


 彼がぽつりと呟いた。


「一年前……いや、もう二年近く前か。あの頃は自分のいる世界が全部嘘で、自分が信じてきたもの全てが砂みたいに崩れていくような感覚だった」


 その言葉に、隣に立つ麗奈は黙って耳を傾けていた。


「月島の最後の嫌がらせがあった時も、もし君がいなかったら、俺はまた疑心暗鬼の沼に沈んでいたかもしれない」


 侑作は麗奈の方に向き直った。その瞳は真剣な光を湛えている。


「君は俺のコンパスなんだ、麗奈。俺が道に迷ってどっちが前かも分からなくなった時、いつでも静かに、でもはっきりと真実の方向を指し示してくれた。君がいたから、俺は自分の足でもう一度歩き出すことができたんだ」


 彼の真摯な告白に、麗奈は少しだけ視線を伏せた。そして、ゆっくりと顔を上げると柔らかな笑みを浮かべた。


「コンパスが必要だったのは、侑作さんが自分の力で前に進もうとしていたからです」


 彼女は侑作の手にそっと自分の手を重ねた。揃いのペアリングがカチリと心地よい音を立てる。


「私はその進むべき道をほんの少し照らしただけです。暗闇の中を進み続けたのは、侑作さん、あなた自身の強さですよ」


 その言葉が侑作の胸に温かく染み渡っていく。


 そうだ。彼女は決して答えを押し付けたりはしなかった。ただ、事実を整理し、論理の光を当て、彼が自分自身の力で真実を見つけ出すのを隣で辛抱強く支えてくれていただけなのだ。


 麗奈は侑作の肩にそっと頭を寄せた。彼女の髪から優しいシャンプーの香りがした。


 二人はもう何も言わず、眼下に広がる桜新町の穏やかな街並みをただ静かに見下ろしていた。


 嵐は完全に過ぎ去った。


 誰かに与えられた、脆くて華やかな偽りの幸福ではない。


 幾多の絶望と悪意を乗り越え、時に傷つきながらも二人で手を取り合って築き上げた、真実の上に立つ幸福。


 あの裏切りを知ったからこそ、この何気ない日常の尊さがわかる。偽りの輝きを知ったからこそ、このささやかな光の本当の温かさが身に染みる。


 二人の左手の薬指で、揃いの指輪が太陽の光を受け、乗り越えてきた痛みを内包するように、未来を祝福するように、静かに、そして強く輝いていた。



≪完≫

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寝室のドアを開けたら恋人と尊敬する先輩がエッチしていた。全てを失った俺は知的な隣人の助けを得て法と論理で奴らを社会的に抹殺する。 ネムノキ @nemunoki7

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