第9話

 決戦を三日後に控えた、静かな夜だった。


 愛奈から決定的な証拠である録音データを受け取った後、侑作は自室の息苦しいほどの静寂に耐えきれず、ふらりとアパートの外へ出た。桜新町の夜は、都心とは思えないほど穏やかで、しんと静まり返っている。


 当てもなく歩く足が自然と向かったのは、アパートからほど近い呑川緑道だった。


 かつては愛奈と手を繋ぎ、他愛ない話で笑い合ったこともある、緩やかに蛇行する散歩道。今はその記憶さえ、遠い異国の物語のように色褪せて感じられた。


 川面に映る不規則な街灯の光をぼんやりと眺めていると、背後から静かな声がした。


「……西浦さん」


 振り返ると、そこには小笠原麗奈が立っていた。


 部屋着の上にカーディガンを羽織っただけのラフな格好だが、その佇まいはいつものように凛として、夜の闇にすっと溶け込んでいる。


「麗奈さん……。どうしてここに?」


「ベランダから、あなたが出ていくのが見えました。少し、気になったので」


 淡々とした口調。だが、その言葉には確かな気遣いが滲んでいた。


 彼女は侑作の隣に並び、同じように川面を見つめる。しばらく、二人の間に沈黙が流れた。それは気まずいものではなく、互いの存在を確かめ合うような、心地よい沈黙だった。


 先に口を開いたのは侑作だった。


「あの……本当に、ありがとうございました」


 心の底から、自然とこみ上げてきた言葉だった。


「麗奈さんがいなければ、僕は……今頃どうなっていたか、分かりません。きっと、自分がおかしいんだって思い込んで、会社も辞めて、全てから逃げ出していたと思います」


 彼女が投げてくれた「見慣れない革靴があった」という、客観的な事実。


 あのたった一言がなければ、侑作はガスライティングの深い沼に沈められ、自分自身を見失っていたはずだ。


「あなたは、僕の……恩人です」


 侑作の真摯な言葉に、麗奈はゆっくりと首を横に振った。


「恩人、というわけではありません。私はただ、観測した事実と、そこから導き出される論理的な可能性を提示しただけです」


「それでも、です。僕にとっては、それが暗闇の中で見つけた、唯一の光でした」


 侑作の真っ直ぐな眼差しを受けて、麗奈は少しだけ視線を逸らし、細いフレームの眼鏡の位置を指で軽く押し上げた。


「……それにしても」


 侑作は、ずっと胸の内で燻っていた疑問を口にした。


「どうしてあそこまで僕を信じて、助けてくれたんですか? 会ったばかりの、ただの隣人だったのに」


 彼女の行動は、単なる親切心だけでは説明がつかない。あまりにも献身的で、そして的確すぎた。


 麗奈はしばらく黙って夜の川の流れを見つめていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。それは侑作が今まで聞いたことのない、彼女自身の物語だった。


「……私は、区役所の市民課で働いています」


 その声は、いつもより少しだけ柔らかく響いた。


「毎日、色々な人が窓口に来ます。住民票を取りに来る人、届け出を出しに来る人……。その中には、本当に助けを必要としている人も大勢いるんです」


 彼女は一度言葉を切り、夜の冷たい空気を静かに吸った。


「夫から暴力を受けているのに、どこにも相談できずにいる女性。悪質な業者に騙されて、どうすればいいか分からず震えているお年寄り。理不尽な理由で仕事を解雇され、生活の術を失った人……」


 彼女の脳裏には、今も助けを求める人々の顔が浮かんでいるのだろう。その横顔には、普段の冷静さとは違う、深い共感の色が刻まれていた。


「法律や規則は、人を守るためにあります。でも、その網の目から、どうしても零れ落ちてしまう人がいる。声が小さくて、自分の正当性をうまく主張できない人が、巨大な悪意や理不尽の前に泣き寝入りさせられるのを、私は何度も見てきました」


 悔しさを噛みしめるような、静かな声だった。


「そういう時、私はいつも無力でした。規則の範囲内でできる限りの案内はしますが、それ以上のことはできない。公務員として、踏み込んではいけない一線があるからです。それが、ずっと……歯がゆかった」


 だから、と彼女は続けた。


「西浦さん、あなたのケースは、私にとって他人事ではなかったんです。巧妙に仕組まれた嘘によって、あなたの現実が歪められ、奪われようとしていた。あなたの声が誰にも届かないまま、掻き消されそうになっていた。それを見過ごすことは、私にはできませんでした」


 彼女が侑作を助けたのは、単なる同情や憐れみではない。


 それは、幾度となく無力感に苛まれてきた彼女自身の、信念を懸けた闘いでもあったのだ。


「あなたの正義を支えることは、私がずっとしたかったことの延長線上にあった……。ただ、それだけです。だから、恩人だなんて思わないでください」


 そう言って、麗奈は侑作の方を向き、初めてはっきりと微笑んだ。


 いつものように感情を抑制したものではない。心の奥にある温かさがそのまま表れたような、優しく、そして美しい微笑みだった。


 侑作は、言葉を失っていた。


 胸の奥が、じんわりと熱くなる。彼女の強さと優しさが、傷だらけの心に深く、深く染み渡っていくようだった。


 この人は、なんて強い人なんだろう。そして、なんて優しい人なんだろう。


 気づけば、二人の間に流れる空気は穏やかで、どこか甘さを帯びたものに変わっていた。夜の冷気が少しも気にならないほど、温かかった。


 ふと、侑作は愛奈との日々を思い出していた。


 愛奈との関係は、きらびやかで華やかだった。流行りのレストランに行き、SNS映えする写真を撮り、互いの価値を高め合うような関係。それはそれで、確かに楽しかった。


 だが、今思えば、それはあまりに脆いガラス細工だった。


 僕の誠実さや努力は、彼女の虚栄心の前でどれほど無価値だったのだろう。月島が囁く甘い言葉と、きらびやかな虚飾の世界。彼女は、自分のSNSの『いいね』の数と引き換えに、僕たちの未来を、魂を売り渡したのだ。自ら進んで、あの男の道具へと堕ちていった。


 憎悪と軽蔑が、胸の奥で黒い炎のように燻る。だが、その炎の片隅で、かつて愛した者への、どうしようもない哀れみが揺らめいていた。


 そんな闇に沈みかけた思考を、隣にいる麗奈の静かな存在が、そっと引き上げてくれる。


 彼女との間に流れるこの時間は、全く違う。


 そこにあるのは、飾り気のない絶対的な信頼。そして、互いの人間性に対する深い尊敬。困難を共に乗り越える中で育まれた絆は、どんな嵐にも揺るがない、大地に深く根を張る大樹のような強さを感じさせた。


 これが、本当の繋がりというものなのかもしれない。


 並んで歩くうち、侑作の指先が、彼女のカーディガンの袖にそっと触れた。


 麗奈の肩が微かに揺れたが、彼女はそれを振り払うことはしなかった。


 もっとこの人のことを知りたい。もっとこの人の隣にいたい。


 その思いが、侑作の中で確かな形を結んでいく。


 だが、今はまだ、その時ではない。


 まずはこの戦いを終わらせなければ。自分の手で過去にけりをつけ、失われたものを取り戻さなければ。それが、僕を信じてくれた彼女に対する、最低限の誠意だ。


 侑作は心に固く誓った。


 全てが終わったら、必ず。


 この穏やかで聡明で、そして誰よりも優しい人に、自分の本当の気持ちを伝えよう、と。


 アパートに戻る短い道のりは、不思議なほど満ち足りた時間だった。


 ***


 そして、夜が明け、運命の日は訪れた。


 決戦の舞台は、渋谷の本社ビル、最上階にある第一会議室。


 ガラス張りの壁の向こうには、大都会のパノラマが広がっている。まるで世界の頂点にでも立ったかのような錯覚を抱かせる、傲慢なまでに美しい眺望だ。


 巨大な円卓には社長をはじめとする役員たちがずらりと並び、部屋の空気は重く張り詰めていた。会社の未来を左右する大型案件、『プロジェクト・ゼニス』の最終プレゼンテーション。その成否が、今日この場で決まる。


 侑作は、用意された席に静かに座り、ノートパソコンを立ち上げた。心臓は不思議なほど落ち着いていた。嵐の前の静けさ。全ての準備は、整っている。


 やがて、重厚な会議室のドアが開き、月島学人が入ってきた。


 イタリア製の最高級オーダースーツに身を包み、完璧にセットされた髪。計算され尽くした、冷徹な仮面を被ったカリスマ。彼は役員一人ひとりににこやかに会釈し、侑作の隣の席に腰を下ろした。


「侑作、準備はいいか?」


 耳元で囁かれた声。その湿った響きには、獲物を弄ぶような愉悦と、絶対的な優越感からくる憐れみが半々に混じっていた。口元の端が、微かに歪んでいる。


 彼は本気で、侑作がこのプレゼンのためだけに今日ここへ来たと信じている。自分が仕掛けた罠に気づくこともなく、ただ利用されるためだけの哀れな道化師だと。


 その声を聞いた瞬間、侑作の脳裏に、あの寝室の光景が鮮烈にフラッシュバックした。


 愛奈の嬌声、月島の嘲笑、そして自分に向けられた侮蔑の言葉。胃の腑を直接鷲掴みにされるような、生理的な嫌悪感がこみ上げる。


 だが、侑作はすぐに意識を現実に引き戻した。隣の部屋で、自分の戦いを見守ってくれている人がいる。彼女がくれた光を、無駄にはできない。


 燻っていた無力感の残滓を、冷徹な覚悟の炎で焼き尽くす。


 侑作は月島の方を見ず、ただ正面のスクリーンを見つめたまま、小さく頷いた。


 やがて、定刻。


 議長である専務が咳払いを一つして、場を仕切った。


「それでは、ただ今より、『プロジェクト・ゼニス』に関する最終プレゼンテーションを開始する。まずは、プロジェクトリーダーである月島君から、全体の概要を説明してもらおう」


「はい」


 月島は自信に満ちた返事をすると、優雅な仕草で立ち上がった。その顔には、勝利を確信した者の傲慢な笑みが浮かんでいる。彼にとって、これは輝かしい未来へと続く、最後のセレモニーに過ぎない。


 だが、月島が第一声を発しようとした、まさにその瞬間だった。


「――お待ちください」


 静かだが、会議室の全員の耳に届く、凛とした声。


 声の主は、西浦侑作だった。


 彼はゆっくりと席を立ち、役員たちが並ぶ円卓を真っ直ぐに見据えていた。


 突然の発言に、役員たちの間に困惑の空気が広がる。月島は一瞬、何が起きたのか分からないという顔で侑作を振り返り、その眉を顰めた。


「どうした、侑作。何か言い忘れたことでもあったか?」


 その声には、部下の唐突な行動に対する苛立ちが滲んでいた。


 侑作は月島の言葉を完全に無視し、再び議長である専務に向き直った。そして、深く一度頭を下げた。


「専務。大変恐縮ですが、このプレゼンテーションを開始する前に、皆様に緊急でご報告、そしてご審議いただきたい重大な案件がございます」


 その言葉は、爆弾だった。


「重大な案件」という響きに、役員たちの表情が強張る。ただ事ではない。侑作の纏う空気がそう告げていた。


 月島の顔から、ついに余裕の笑みが消えた。


 代わりに浮かんだのは、驚愕、不審、そしてほんのわずかな焦りの色。完璧な笑顔が瞬時に引き攣り、視線が定まらずに泳ぐ。


 彼はまだ、これから自分の身に降りかかる破滅の正体を理解できていない。


 だが、その完璧に計算された計画に、想定外の亀裂が入ったことだけは、本能で察知していた。


 侑作は、冷徹なまでの静けさで、断罪の口火を切った。


「この案件は、本プロジェクトの根幹、ひいては我が社の信頼そのものを揺るがしかねない、極めて深刻なコンプライアンス違反に関するものです」


 会議室の空気が、凍りついた。


 役員たちの息を呑む音だけが、やけに大きく響く。


 侑作の視線の先で、月島学人の顔が、みるみるうちに血の気を失い、蒼白になっていくのを、彼は確かに見ていた。


 その瞳の奥に宿るのは、これまで彼が他者に与え続けてきた、まさしく『破滅』という名の、本物の恐怖だった。

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