第8話

 週明けの火曜日。昼休みをとうに過ぎた時間帯。


 渋谷のオフィス街に佇む、ありふれたチェーン店のカフェ。その一番奥まった二人掛けの席で、西浦侑作は静かにアイスコーヒーのグラスを傾けていた。


 数日前、月島学人の罪を確信してから、侑作の世界から色彩が消えた。


 怒りや悲しみといった原色の感情は鳴りを潜め、ただ目的だけがモノクロームの景色の中で冷たく鮮明に浮かび上がっている。


 やがて、店の入り口のドアベルがカランと乾いた音を立て、見慣れた姿が現れた。


 百鬼愛奈。


 彼女は店内を不安げに見回し、侑作の姿を認めると、躊躇いがちにこちらへ歩いてくる。


 侑作が同棲していた頃にプレゼントした、少し派手なブランドのバッグが肩で揺れていた。あの頃の自分には、分不相応な贈り物だった。


「……急に、どうしたの。こんなところに呼び出して」


 席に着くなり、愛奈は警戒心を滲ませた声で言った。その声色には、自分はもはや哀れな被害者ではなく、新しい人生を歩み始めたのだという、虚ろなプライドが透けて見えた。


「話がある」


 侑作はメニューに目を落とすこともなく、ただ短く告げた。その声は自分でも驚くほど平坦で、温度がなかった。


 かつて愛した女を前にしているという実感は、どこにもない。


 目の前にいるのは、これから動かすべき、ただの駒だった。


「話って……。もう私たちのことなら、終わったはずでしょ? 今さら何を……」


「俺たちの話じゃない。月島さんの話だ」


 侑作がその名前を口にした瞬間、愛奈の表情がこわばった。動揺を隠そうと、彼女は慌ててテーブルの上の水を手に取る。


「学人さんが、何……?」


「単刀直入に言う。君は、彼に利用されてるだけだ」


「は……? 何言ってるの、いきなり。嫉妬? 見苦しいよ、侑作。学人さんは、仕事ばっかりのあなたと違って、ちゃんと私のことを見てくれる」


 月島に吹き込まれたであろう言葉を、愛奈は必死に紡ぐ。それは彼女が信じたい現実であり、侑作を捨てた自分を正当化するための、脆い鎧だった。


 侑作はそんな彼女の脆弱な防御を一瞥すると、静かに自分のスマートフォンを取り出した。


「これを見てほしい」


 画面に表示されていたのは、先日確認した『プロジェクト・ゼニス』のサーバーアクセスログのスクリーンショットだった。


 赤いマーカーで囲まれた一件の記録。アクセスID、日時、そして対象ファイル名が明記されている。


「先月の十五日。金曜日の深夜2時17分。月島さんのIDで、会社の最重要機密データにアクセスした記録だ」


「……だから、何? 学人さんは仕事熱心だから。夜遅くまで働くことだってあるでしょ」


 愛奈は鼻で笑おうとした。だが、その笑みはひどく引きつっている。


 侑作は彼女の反応を意に介さず、もう一枚の画像を表示した。それは、侑作と月島が交わしたメッセージアプリのトーク履歴だった。


「同じ日の深夜2時半。月島さんから俺にメッセージが来てる。『今、愛奈ちゃんと一緒にいる。お前のことは残念だが彼女は俺が幸せにする』。……覚えてるか? この日、君は彼と港区のホテルにいたはずだ」


 愛奈の顔から、血の気が引いていくのが分かった。唇がかすかに震え、何かを言い返そうとして言葉にならない。


「おかしいと思わないか? 彼は渋谷のオフィスで会社のサーバーにアクセスしながら、同時に港区のホテルで君の隣にいたことになる」


 侑作は、断罪の言葉を淡々と続ける。


「答えは一つだ。彼は、君をアリバイの証人にしたかった。もしこの不正アクセスが後で問題になっても、『その時間は恋人と一緒にいた』と君に証言させるためにな」


「……そ、そんな……」


「君は、彼のアリバイを作るための完璧な道具だったんだよ」


 愛奈の瞳が、絶望に見開かれた。信じていた世界の足元が、ガラガラと音を立てて崩れていく。


 だが、侑作は攻撃の手を緩めない。追い打ちをかけるように、次の証拠を突きつけた。


「ついでに、これも教えておいてやる」


 画面をスワイプし、表示したのは匿名化された経費精算システムのスクリーンショット。そこには、月島が申請した接待交際費のリストが並んでいた。日付、金額、そして購入店舗名。


「君が彼からプレゼントされたバッグ。毎週のように連れて行ってもらった高級レストラン。全部、会社の経費で落とされてる」


 愛奈の視線が、自分が強く握りしめているバッグに落ちた。


 それは月島から「君に似合うと思って」と贈られた、特別なプレゼントのはずだった。この革の感触、ブランドロゴの輝き。それが自分の価値だと、錯覚していた。


「……うそ……」


 その価値が、会社の経費――接待費という冷たい文字に変わる。クライアントに渡される手土産と、何が違うというのか。


「月島さんにとって、君はクライアントを接待するのと同じだったんだ。会社の金で手に入れられる、都合のいい女。それだけだ」


「やめて……」


 か細い声が、愛奈の唇から漏れた。


 彼女が築き上げてきた虚構の世界。侑作との平凡な日常を捨ててまで手に入れたはずの、華やかで特別な自分。


 その全てが、冷たいデジタルの記録によって、無価値なガラクタに変えられていく。


「違う……学人さんは、そんな人じゃ……」


「目を覚ませ、愛奈」


 侑作の声に、初めてわずかな熱がこもった。それは怒りでも同情でもない。計画を遂行するための、冷たい叱責だった。


「君が信じていた男は、他人を利用して自分の目的を達成することしか考えていない。俺だけじゃない。君も、会社も、全員が彼の駒だったんだ」


 愛奈は俯き、両手で顔を覆った。その肩が小刻みに震えている。嗚咽が漏れ、テーブルにぽたぽたと涙が落ちた。


 自分が信じていたもの全てが嘘だったという事実。自分がただの道化で、都合のいい道具として扱われていただけだという屈辱。罪悪感、後悔、そして月島への恐怖。あらゆる感情が濁流のように彼女を飲み込んでいく。


 侑作は、その姿を冷たい目で見下ろした。


 一瞬、脳裏をかつての笑顔がよぎる。二人で笑い合った、ありふれた日々の記憶。だが、それもすぐに憎悪の炎に焼かれて灰になった。


 この涙も、あの笑顔も、もはや俺の心を動かすことはない。


 彼女の心が完全に折れるのを、ただ待った。


 やがて愛奈が顔を上げた。涙とマスカラでぐちゃぐちゃになった顔は、もはや侑作の知っている彼女ではなかった。


「……私、どうすれば……。私も、共犯になっちゃうの……?」


 恐怖に怯えるその問いに、侑作は待っていましたとばかりに口を開いた。


「道は一つだけある」


 侑作は自分のスマートフォンをテーブルの上に滑らせ、録音アプリを起動した。赤い録音ボタンが無機質に光っている。


「君が、月島さんとの会話を録音するんだ」


「ろ、録音……?」


「ああ。彼を油断させて、本音を引き出す。俺のこと、プロジェクトのこと……そして、君のことを彼がどう思っているのか」


 愛奈は震える手でスマートフォンに触れようとして、ためらった。


「そんなこと……もしバレたら……」


「バレたらどうなる? 今の君に、これ以上失うものがあるのか?」


 侑作の言葉は、残酷な真実だった。彼女は既に、侑作からの信頼も、月島からの偽りの寵愛も、全てを失っていた。残っているのは、利用されたという惨めな事実だけだ。


「これは、取引だ。君が彼の罪を証明する証拠を手に入れれば、俺は君をこれ以上追及しない。君がただの被害者だったと、会社にも証言してやってもいい」


 それは、地獄の縁に立つ彼女に差し伸べられた、一本の蜘蛛の糸だった。


 たとえそれが元恋人からの冷たい命令であったとしても、今の彼女にはそれにすがる以外の選択肢はなかった。


「……分かった。……やる」


 愛奈は消え入りそうな声で、しかしはっきりと頷いた。それは彼女なりの、最後の贖罪の決意だった。


 三日後の夜。


 侑作のスマートフォンが短く震えた。愛奈からのメッセージだった。


『録れた。今から、渡す』


 場所は桜新町の駅前にある小さな公園。二人がまだ幸せだった頃、時々立ち寄った場所だった。感傷など、微塵も湧いてこなかった。


 指定されたベンチで待っていると、フードを目深にかぶった愛奈が影のように現れた。彼女は周囲を怯えるように見回しながら、小さなICレコーダーを侑作に手渡す。


「……これで、約束は守ってくれるの?」


「ああ」


 侑作は短く答え、その場でイヤホンを耳につけ再生ボタンを押した。


 最初に聞こえてきたのは、愛奈の不安げな声だった。


『ねえ、学人さん……。この前、侑作に会ったの。なんだか、色々調べてるみたいで……』


 それに答える月島の余裕綽々の声。侑作はその声を聞くだけで、腹の底が煮えくり返るのを感じた。


『はっ、あいつが? 何を調べられるって言うんだ。あいつは単純だからな。少し揺さぶればすぐに壊れる、使い勝手のいいサンドバッグみたいなもんだよ』


 ヘッドホンの向こうで、月島がせせら笑う声がする。


『プロジェクトの情報も、もうこっちのもんだ。最終プレゼンで俺が全てをひっくり返して、あいつは終わり。お前も俺の隣でその瞬間を見られるんだ。光栄に思えよ』


 続く言葉に、侑作は息を呑んだ。


『それよりお前さ、もう少しうまくやれよ。この前のホテルだって妙に挙動不審だったし。役に立つのは顔だけか? まあ、その顔もそろそろ見飽きてきたけどな』


 それは愛奈という人間の尊厳を根こそぎ否定する、残酷な言葉だった。偽りの優しさの仮面を剥ぎ取った、月島学人の紛れもない本性。


 侑作は再生を止め、イヤホンを外した。


 目の前で、愛奈が唇を噛み締め、無言で涙を流している。全身の血が凍りつき、氷の針で全身を刺されるような感覚に襲われているのだろう。彼女もこの地獄のような言葉を、録音しながら生で聞いていたのだ。


「……ありがとう。約束は守る」


 侑作はICレコーダーをポケットにしまい込み、立ち上がった。愛奈に掛ける言葉は、それ以上見つからなかった。


 同情も憐れみも、もはやない。彼女は彼女の罪を、これから一生背負って生きていくのだ。


 公園を背に歩き出す侑作の背中に、愛奈のかすれた声が届いた。


「……ごめんなさい」


 侑作は振り返らなかった。


 その謝罪は、俺にか? それとも、虚飾に溺れた自分自身にか?


 ……どちらでもいい。もう、関係ないことだ。


 ただ、夜空を見上げる。


 これで、全てのカードが揃った。


 過去からの証言。


 現在進行形の犯罪の証拠。


 そして、敵自身の口から語られた邪悪な本性。


 侑作の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。


 月島学人。お前が俺から奪った全てを、今度はお前が失う番だ。


 お前が最も輝くはずだった舞台で、人生最大の屈辱を味あわせてやる。


 プロジェクトの最終プレゼン。それは、月島が全てを手中に収めると確信している、まさにその場所だ。


 だが、そこで彼を待つのは、想像を絶する破滅。その時、彼の顔は、一体どんな表情を浮かべるのだろうか。


 決戦の日まで、あと四日。


 断罪のプレゼンテーションの幕開けは、もう間もなくだった。

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