第7話

 電話の向こうから聞こえてきたのは、少し疲労の滲む若い男の声だった。


 だがその声質には覚えがない。少なくとも月島と因縁のあった人物ではないように思えた。


「……あの、ご担当者様でいらっしゃいますか?」


 侑作は平静を装い、努めてビジネスライクな口調で問いかける。心臓が早鐘のように鳴っていた。これを逃せば、次はないかもしれない。


「はい、私が担当ですが……。失礼ですが、どちら様でしょうか?」


 警戒心を隠さない声。当然の反応だろう。侑作は一度唾を飲み込み、用意していた言葉を口にした。


「わたくし、株式会社ブレイン・スパートの西浦侑作と申します。突然のお電話、大変申し訳ございません」


「実は、以前御社を担当させていただいておりました、弊社の月島学人について、少々お伺いしたいことがございまして……」


 月島の名前を出した瞬間、電話の向こうの空気が凍ったのが分かった。


 数秒の沈黙。それは、肯定とも否定ともつかない、重苦しい間だった。


「……月島、さん」


 ようやく絞り出された声は、先ほどよりも数段低く、硬質な響きを帯びていた。


「申し訳ありませんが、その方とは既にお取引はございません。お話できることは何も……」


「存じております」


 侑作は、相手が電話を切る前に、食い気味に言葉を続けた。


「取引が既に終了していることは承知の上で、お電話いたしました。これは会社の業務としてではありません。……一個人の、西浦侑作としてのお願いです」


 感情を抑え、事実だけを伝える。麗奈に教えられた、交渉の基本だ。


「月島学人という人間によって、私の人生はめちゃくちゃにされました。おそらく御社の元ご担当者様が経験されたことと、同じ手口で」


 電話の向こうで、相手が息を呑む気配がした。


 侑作はさらに言葉を重ねる。それはもはや懇願に近かった。


「もし何かご存知のことがあれば、教えていただけないでしょうか。どんな些細なことでも構いません。これは、私の……私の正気を取り戻すための闘いなんです」


 再び、沈黙が落ちる。


 スマートフォンの無機質な感触だけがやけに生々しい。


 もうダメか、と諦めかけた、その時だった。


「……分かりました。ただし、ここでお話しできることには限りがあります」


 諦観と、わずかな怒りが混じった声だった。


「私の名前は高橋と申します。二年前に月島さんの後任として、あの案件を引き継ぎました」


「引き継いだ、というよりは……焼け跡の整理、とでも言った方が正確かもしれませんが」


 高橋と名乗った男は自嘲するようにそう言った。


「全てをお話しします。あの男が……月島学人が我々の仲間だった鈴木さんにした、全てのことを」


 高橋が語った内容は、侑作の想像を絶するほどに陰湿で、そして驚くほどに自分のケースと酷似していた。


 当時、サイバーフロント社の担当者だった鈴木という人物は、非常に優秀なエンジニア兼プロジェクトマネージャーだったという。月島がコンサルタントとして関わるようになった当初、二人の関係は良好に見えた。月島は鈴木の手腕を褒めそやし、プライベートでも食事に行くなどして、巧みに懐に入り込んだ。


「鈴木さん、人が良かったんです。だから月島のこともすっかり信用してしまって……。自分の恋人の悩みとか、プライベートなことまで、あいつに相談していたらしいんです」


 それが全ての過ちの始まりだった。


 月島は鈴木から聞き出したプライベートな情報を歪め、脚色し、社内のキーマンたちに少しずつ吹聴し始めた。


「『鈴木は最近、恋人との関係がうまくいってなくて精神的に不安定らしい』」


「『プロジェクトの重要な判断を、今の彼に任せるのは危険じゃないか』」


 まるで心配しているかのような口ぶりで、しかし確実に、鈴木の評価と信頼を蝕んでいった。


「同時進行で、月島は鈴木さんの恋人にも接触していたようです。どんな手を使ったのかは分かりませんが……気づいた時には、彼女は鈴木さんの元を去っていました。鈴木さんが月島に相談していた悩みを、そのまま破局の理由にしてね」


 冷たい氷の棘が、背骨をなぞるような悪寒が走った。


 あの時、愛奈が俺に突きつけた言葉は、月島に吹き込まれた言葉の焼き直しだったのだ。


 俺が月島に吐露した弱さや不安。それをそっくりそのまま、愛奈は自分の言葉として俺にぶつけてきた。俺の愛奈は、あいつの操り人形になっていたというのか……。


 公私にわたる切り崩し。ターゲットの精神的支柱を破壊し、社会的に孤立させる。月島の常套手段なのだ。


「鈴木さんは完全に心を折られてしまいました。社内での立場も失い、恋人もいなくなり……。自信を失った彼は、重要な会議で簡単な質問にも答えられなくなり、やがて『能力不足』の烙印を押されました。そして、自ら会社を去っていったんです」


 電話の向こうで、高橋が悔しそうに歯ぎしりをする音が聞こえた。


「誰もが鈴木さん自身の問題だと思っていました。月島が裏で糸を引いていたなんて、気づきもしなかった。……俺は鈴木さんが辞めた後、彼の残した日誌を見て、初めて全てを知ったんです。そこには、月島に何を相談し、何を言われたかが克明に記録されていました。でも、その時にはもう手遅れだった」


 業務日誌……。侑作は自分のPCに記録し続けているファイルのことを思った。あの記録が、いつか自分を救う武器になると信じて、書き続けてきた記録が。


「西浦さん、と言いましたね」


 高橋の声が少しだけ熱を帯びた。


「もしあんたが本気であの男と戦うつもりなら……俺も協力します。鈴木さんの無念を晴らしたい。いざという時が来たら、俺が知っている全てを証言しますよ」


「……! 本当ですか!」


「ええ。もう二度とあんな思いをする人間を見たくないんでね」


 力強い言葉だった。


 侑作は暗闇の向こうに、確かな光が差し込むのを感じていた。


 これはもう、自分一人の戦いではない。


「高橋さん……ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」


 震える声で礼を告げ、侑作は電話を切った。


 スマートフォンの画面には、自分のこわばった顔が映っている。


 だが、その瞳の奥には、これまでにはなかった強い光が宿っていた。


 第三者の証言。反撃の重要なピースが今、確かに手に入ったのだ。


 週末の午後、侑作は麗奈と桜新町の駅近くにある隠れ家のようなカフェにいた。


 アンティーク調の家具で統一された落ち着いた雰囲気の店内。窓際の席に座った二人の間には、湯気の立つコーヒーカップが置かれている。


「……以上が、株式会社サイバーフロントの高橋さんから聞いた話の全てです」


 侑作はタブレットにまとめた時系列表とメモを見せながら、これまでの経緯を報告した。


 麗奈は黙って侑作の話に耳を傾け、時折、細いフレームの眼鏡の奥で、鋭く目を光らせていた。


 侑作が話し終えると、彼女はゆっくりと頷いた。


「なるほど。これで月島学人氏の行動パターンが明確になりました。手口は一貫しています。対象への心理的接近、情報収集、人間関係の破壊による孤立化、そして社会的な評価の失墜。非常に計画的で悪質です」


 感情の乗らない、淡々とした分析。だが、その言葉の一つ一つが、混乱していた侑作の思考を整理し、進むべき道を照らし出してくれる。


「高橋氏の証言は、『第三者による客観的な証言』として極めて有効です。これで、あなたの主張が単なる私怨や思い込みではないと公的に証明する道筋が立ちました」


「はい。高橋さんも、いざとなれば証言すると約束してくれました」


「それは心強いですね」


 麗奈はそう言うと、自分の手帳を取り出しペンを走らせ始めた。


「次のステップですが、これらの証拠を法的に有効な形にまとめる必要があります。まず、高橋氏の証言は、正式な陳述書として書面に起こしてもらうべきです。その際、公証役場で確定日付の付与を受ければ、証拠能力はさらに高まります」


「公証役場……」


「ええ。市区町村の役所とは少し違いますが、公的な手続きを行う場所です。必要であれば、手続きの概要をまとめた資料をお渡しします」


 市役所職員としての知識が、具体的な武器となって侑作に授けられていく。


 法律、手続き、公的な記録。感情論が一切通用しない、冷徹な論理の世界。


 麗奈は、その世界の歩き方を、侑作に教えてくれているのだ。


「麗奈さん……本当に、ありがとう。あなたがいなかったら、僕は今頃どうなっていたか……」


 心の底からこみ上げてきた感謝の言葉だった。


 絶望の淵で自分を見失いかけていた自分。愛奈の言葉に傷つき、月島のガスライティングによって自分が悪いのだと思い込まされていた自分。


 そんな泥沼の中から自分を引き上げてくれたのは、間違いなく目の前にいるこの女性だった。


「礼を言う必要はありません。私は秩序が乱されることが嫌いなだけです。そして不正な手段で他者を貶める行為は、社会の秩序に対する明白な挑戦ですから」


 彼女は顔を上げず、手帳に書き込みを続けながら答える。


 その素っ気ない態度が、逆に彼女らしい誠実さの表れのように感じられた。


 二人の間に心地よい沈黙が流れる。


 コーヒーの香ばしいアロマが店内に満ちていた。


 いつの間にか、侑作は麗奈といるこの時間を心から安らげるものだと感じるようになっていた。


 愛奈と過ごした、常に他人の目を意識するような華やかで、しかしどこか脆い時間とは違う。


 静かで、穏やかで、確かな信頼に基づいた時間。


 その時ふと、侑作の頭に根本的な疑問が浮かんだ。


 これまで怒りと復讐心に囚われ、見過ごしてきた、最も重要な問い。


「……なあ、麗奈さん。月島はどうしてここまでして俺を潰そうとするんだと思いますか? サイバーフロントの鈴木さんの件もそうだけど、ただ社内のライバルを蹴落としたいっていうだけにしては、やり方が執拗すぎる気がするんです。まるで俺という存在そのものを、この世から消し去りたいみたいだ」


 その問いに、麗奈は初めてペンを止め、まっすぐに侑作の目を見た。


「良い視点です、西浦さん。動機の解明は相手の最終目的を予測する上で不可欠な要素です」


 彼女は少し考えるように視線をさまよわせた後、静かに問い返してきた。


「では、逆に質問します。月島学人氏があなたを完全に排除することで得る最大の利益とは何でしょう? 彼が今、最も欲しているものは何だと思いますか?」


 月島が最も欲しているもの……。


 その言葉が、侑作の脳内で思考のスイッチを入れた。


 月島学人。


 社内トップクラスのエリートコンサルタント。高い評価、人望、そして野心。


 彼が次に狙うポジションは? そしてそのために邪魔なものは?


 侑作は今、自分がキャリアの全てを懸けて取り組んでいるあのプロジェクトのことを思い浮かべた。


 次世代AIを活用した大規模な業務効率化システム。社運を賭けた大型案件、『プロジェクト・ゼニス』。


 そのプロジェクトリーダーは、最終プレゼンを経て正式に決定される。


 そしてリーダーの最有力候補と目されているのが、自分、西浦侑作だった。


 もし自分が精神的に不安定になり、プレゼンで失態を演じれば?


 もし自分が不祥事を起こして、プロジェクトから外されれば?


 リーダーの座は、次に控える人間に渡る。その筆頭こそが、月島学人だ。


 だが、それだけだろうか? あの男の底なしの欲望は、ただ社内のポジションを得るだけで満たされるものなのか?


 侑作の脳裏にもう一つの情報が閃光のようにきらめいた。


 月島が外部コンサルタントとして深く関わっているライバル企業。


『ネクステラ・ソリューションズ』。


 彼らは我が社と全く同じ領域で、類似システムの開発に鎬を削っている最大の競合相手だ。


 まさか……。


「……プロジェクト・ゼニス」


 侑作はかすれた声で呟いた。


「月島の狙いは、俺を潰してプロジェクトリーダーの座を奪うこと。そして……プロジェクトの技術情報をネクステラに横流しするつもりなんじゃないか……?」


 言葉にした瞬間、全身の血の気が引いていくのが分かった。


 これはもはや、単なる社内での足の引っ張り合いなどという生易しい話ではない。


 会社全体を裏切る、重大な背任行為。産業スパイだ。


 俺の失恋も、絶望も、そのためのほんの小さな布石に過ぎなかったとでもいうのか。


「……仮説としては、筋が通っています」


 麗奈が冷静に告げた。


「もしそれが事実なら、相手は目的達成のためなら手段を選ばないでしょう。そしてあなたを潰すことが、その計画の第一歩だった」


 そうだ。だからこそ、あれほどまでに執拗で、完璧なまでに精神を破壊する手口が必要だったのだ。


 単にプロジェクトから外すだけでは足りない。侑作が二度と立ち上がれないほどに、その尊厳も正気も全てを粉々に打ち砕く必要があった。


 そうすれば、たとえ月島の不正に気づいたとしても、誰もおかしなことを口走る『壊れた男』の言葉など信じはしないだろうから。


 恐ろしい計画の全貌が、霧の中からその輪郭を現し始めていた。


「……証拠を掴まないと」


 侑作は決意を固め、席を立った。


「この仮説が正しいかどうか確かめる方法が、一つだけあります」


 カフェの会計を済ませ、麗奈に一言断って、侑作は会社へと向かった。


 休日のオフィスは平日の喧騒が嘘のように静まり返っている。


 自分のデスクに着くと、侑作はPCを起動し、社内システムにログインした。


 狙いは一つ。『プロジェクト・ゼニス』関連のデータが保管されている、最高機密レベルのサーバーへのアクセスログだ。


 幸い、侑作はプロジェクトの主要メンバーとして、一定レベルの閲覧権限を持っている。


 指が汗でわずかに湿る。


 ログの検索画面を開き、検索対象のIDに『tsukishima_g』と打ち込んだ。


 期間をここ一ヶ月に設定し、検索ボタンをクリックする。


 数秒の後、画面に結果が表示された。


 ほとんどは日中の会議や共同作業に関する、正当なアクセス記録だ。


 侑作は目を皿のようにしてそのリストをスクロールしていく。


 そして、心臓が凍りつくような一行を見つけてしまった。


 【アクセス日時:×月×日 AM 02:14:37】


 【アクセスID:tsukishima_g】


 【対象ファイル:ZN_Core_Tech_Spec_v3.1.docx】


 プロジェクト・ゼニスの中核技術仕様書。


 深夜2時過ぎという、ありえない時間のアクセス。


 これだ。これが動かぬ証拠……!


 しかし、侑作を本当の意味で戦慄させたのは、その日付だった。


 ×月×日。


 この日は、月島が愛奈を連れて港区の高級ホテルの最上階にあるバーへ行っていた日だ。


『愛奈と素敵な夜景を見てるよ。お前も仕事ばっかりじゃなくて、たまには息抜きしろよな』


 わざとらしく送られてきたメッセージと、愛奈が満面の笑みを浮かべてシャンパングラスを傾けている写真。


 あの屈辱的な記憶は、脳裏に焼き付いて離れない。


 アリバイ工作か……?


 いや、違う。違う。もっと悍(おぞま)しい。


 月島は愛奈との時間をSNSやメッセージで見せつけることで、侑作の心を破壊すると同時に、自身の完璧なアリバイをも作り上げていたのだ。


 あの男は、俺が絶望する姿を想像して、嗤っていたに違いない。愛奈の無邪気な笑顔の裏で、その残虐な愉悦を密かに味わっていたのか。


 おそらくホテルの部屋かどこかから、リモートでサーバーに不正アクセスを行ったのだろう。


 そして、もし万が一このログが問題になったとしても、隣には愛奈がいた。


 彼女は月島がずっと一緒にいたと、無邪気に証言してしまうだろう。


 その時、愛奈は月島の隣で、どんな表情で眠っていたのか。あるいは、起きていて、その作業を横で見ていたのか。まさか、手を貸していたわけではあるまいな……。


 あの女は……。


 百鬼愛奈は、ただ月島に誑かされた哀れな被害者などではなかった。


 月島の甘言と高級品に目がくらみ、自ら進んで利用される道を選んだ彼女の愚かさが、俺の全てを破壊する『凶器』となった。月島の腕の中で、俺を裏切った後の、あの女の恍惚とした表情が、脳裏にちらつく。


 彼女は月島の計画において、俺の心を折るための『凶器』であり、そして、月島の犯罪行為を隠蔽するための『盾』でもあったのだ。


 二重の意味で完璧に利用され尽くした、ただの道具。


 胃の底から熱いものがこみ上げてきた。吐き気がする。


 自分の人生の全てが吐き出され、汚泥となって流れ落ちていくような感覚。俺の愛、信頼、そして愚かさ。その全てが、月島の計画を完璧にするための燃料に過ぎなかった。


 月島の底知れぬ悪意と、愛奈の救いようのない愚かさに。


「……許さない」


 静かなオフィスに、地を這うような声が漏れた。


 それはもはや単なる怒りではなかった。もっと冷たく、もっと暗い衝動だった。


「お前たちだけは……絶対に許さない」


 侑作はログのスクリーンショットを撮り、暗号化して自身のクラウドストレージに保存した。


 これで決定的なカードが揃った。


 過去からの証言、そして未来を奪う犯罪の証拠。


 復讐の設計図は、今、完成した。


 決戦の舞台は『プロジェクト・ゼニス』最終プレゼンの日。


 彼らの全てを、最も残酷な形で奪い尽くしてやる。


 あの二人が手にするはずだった栄光の頂で、奈落の底へと突き落とすのだ。

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