第6話
夜が明けるまで、西浦侑作は一心不乱にキーボードを叩き続けた。
モニターの光だけが煌々と灯る部屋は、まるで深海に沈んだ作戦司令室のような静けさと緊張感に満ちている。
響くのは、規則正しい打鍵音と、侑作自身の荒い呼吸だけだ。
彼はまず、デスクトップに新しいフォルダを作成した。
フォルダ名は、『プロジェクト・リベンジ』。
あまりにベタすぎる名前に、乾いた自嘲の笑みが漏れた。だが、今の自分にはこれくらい単純な旗印が丁度いい。
その中にさらにいくつものサブフォルダを作る。『時系列整理』『証拠資料』『月島学人_SNS』『百鬼愛奈_言動記録』。
これは、砕け散った心を繋ぎ止めるための唯一の方法だった。
いや、違う。
これは散らばった記憶の破片を一つ一つ拾い集め、その全てが月島学人という毒に侵されていたことを確認し、憎悪を焼き付けるための儀式だ。
IT営業として叩き込まれたスキル――情報収集、データ分析、課題の可視化、そして解決策の立案。
顧客の課題を解決するために磨いてきたそれらの能力を今、侑作は自分自身の人生を破壊した男を社会的に抹殺するために、初めて総動員しようとしていた。
最初に手掛けたのは、時系列の整理だ。
表計算ソフトを開き、横軸に日付、縦軸に『侑作の行動』『愛奈の言動』『月島のSNS投稿』『物証(レシート等)』といった項目を並べていく。
あの日、愛奈が「友達とご飯」と言って出かけた夜。はにかむような笑顔が脳裏をよぎる。その笑顔の裏で、彼女は月島が行きたがっていた恵比寿のイタリアンの写真をSNSにアップする男の隣にいたのだ。
あの日、愛奈が「体調が悪い」と寝込んでいた週末。「侑作に移したくないから」と、心配する俺を優しく拒んだ。その裏で、月島は彼女が好きだと言っていたブランドの新作バッグの写真を、意味深なコメントと共に投稿していた。『俺だけが与えられる特別なもの』。
ゴミ捨て場から拾い集めたレシートの束には、そのバッグを購入した日付と店舗名が鮮明に印字されていた。
一つ、また一つと、幸せだったはずの記憶が、汚泥にまみれた偽りの光景へと書き換えられていく。
入力作業を進めるうちに、侑作の指の震えは止まっていた。代わりに、背筋を氷のような絶望が駆け上っていく。
これは衝動的な過ちなどでは断じてない。
偶然が重なった悲劇でもない。
そこには明確な『意図』があった。
愛奈の虚栄心や承認欲求をリサーチし、それを餌に少しずつ懐柔していく周到さ。
侑作の「平凡な」愛情では得られない「特別な快楽」をちらつかせ、侑作との間に小さな嘘を積み重ねさせ、罪悪感を背徳的な共犯意識へと変質させていく狡猾さ。
そして、侑作の心を最も効率的に破壊するために、あの最終プレゼン直前のタイミングを選んで寝室に踏み込ませるという、悪魔的な計画性。
これは侑作という人間を社会的に、そして精神的に抹殺するために設計された、完璧な悪意の産物だ。
全ての情報を入力し終えた頃、窓の外が白み始めていた。
完成した年表を眺めながら、侑作は確信する。もはや疑う余地はなかった。
「……愛奈は、操られていただけじゃない」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「俺を嵌めるための、重要な駒だったんだ」
かつて深く愛した人間が、自分を陥れるための道具として完璧に機能していた。
彼女は単なる被害者ではない。俺を裏切り、あの男の計画に加担した加害者の一人だ。
月島学人という脚本家が描いた筋書きの上で、愛奈は完璧にその役割を演じきった。罪悪感に苛まれながらも、月島が与える刺激と優越感に溺れていったのだろう。
もはや、彼女に対する感傷はなかった。
あるのは、巨大な悪意の全体像を捉え始めたことによる、冷たい興奮だけだった。
その週末、侑作は麗奈に連絡を取った。
『お話したいことがあります。週末、少しだけお時間をいただけないでしょうか』
メッセージを送ると、数分で返信があった。
『土曜の午後なら。駅前のカフェで』
簡潔な文面がいかにも彼女らしかった。
土曜の午後三時。桜新町駅前のカフェは、穏やかな喧騒に包まれていた。
窓際の席で向かい合って座ると、侑作はノートパソコンを開き、USBメモリから読み込んだ資料を彼女に見せた。
「……これが、ここ数ヶ月の出来事をまとめたものです」
麗奈はフレームの細い眼鏡の奥の瞳で、静かに画面に視線を落とした。感情の読めない横顔。
彼女は一言も発さず、侑作が作成した時系列表や、証拠としてスキャンしたレシートの画像、月島のSNSのスクリーンショットなどを指でスクロールしながら丹念に確認していく。
その沈黙が、侑作にはまるで最終プレゼンの審査結果を待つような、息苦しい時間に感じられた。
全てのファイルに目を通し終えると、麗奈はふぅ、と小さなため息をついた。
「……なるほど。状況は理解しました」
「どう……思いますか?」
侑作は思わず身を乗り出して尋ねた。
「これだけのものがあれば、月島を……!」
「客観的証拠としては、まだ不十分です」
麗奈の言葉は、期待に燃え始めていた侑作の心に、氷水を浴びせるように響いた。
「不十分……? でも、レシートもSNSの投稿も、日付は完全に一致している。これは偶然じゃ説明できないはずだ」
「ええ。ですが、相手はこう主張するでしょう」
麗奈は人差し指を立て、淡々と、しかし的確に弱点を指摘し始めた。
「まず、SNSの投稿。これは単なる偶然の一致であり、あなたの恋人との関連性を示す直接的な証拠にはならない、と。次に、レシート。これも彼が個人的に購入したものであり、それを誰に渡したかを証明するものではない、と」
「そんな……!」
「そして最も厄介なのが、百鬼さんの証言です。彼女が月島さんの指示で動いていたというあなたの主張に対し、月島さんは『西浦さんの妄想だ』『失恋のショックで、記憶が混濁しているのではないか』と反論するでしょう。そうなった場合、あなたの主張は嫉妬による思い込みだと判断されかねません」
彼女のロジックは完璧だった。感情が一切排除された法と事実に基づいた冷徹な分析。ぐうの音も出ない。
胃が締め付けられるような感覚に、侑作は奥歯を噛み締めた。頭が真っ白になり、視界がぐにゃりと歪む。吐き気がこみ上げてくる。
ようやく見えたと思った光が、幻だったと突きつけられた。反撃の意思すら失いかけるほどの、圧倒的な無力感。
「今のあなたの手札は、状況証拠の積み重ねに過ぎません。それだけでは用意周到な相手を追い詰めることは難しい。特に、社内での立場が強い相手なら尚更です」
「じゃあ……どうすれば……」
光が消えた暗闇の中で、分厚い壁が再び立ちはだかる。
その時、麗奈はカップのコーヒーを一口飲むと、まっすぐに侑作の目を見て言った。
「第三者の証言が必要です」
「第三者……?」
「はい。あなたや月島さん、百鬼さんのような直接的な利害関係のない人物の証言です。それがあなたの主張の客観性を担保します」
麗奈は少し考えるそぶりを見せ、言葉を選びながら続けた。
「例えば……月島さんという人物が、過去にも同じような手口を使ったことは考えられませんか?」
その言葉は、侑作の頭の中に稲妻のように閃いた。
そうだ。あの男の完璧すぎる手口は、一朝一夕で身につくものではない。あれは何度も繰り返され、研ぎ澄まされてきた『型』だ。
成功体験に裏打ちされた、他人の心を破壊することへの揺るぎない自信に満ちていた。
もし、過去にも同じような被害者がいるとしたら……?
「……会社に、記録が残っているかもしれません」
侑作は呟いた。
「過去のプロジェクトの……特に、学人が担当して、不自然な形で終わった案件が」
「それです」
麗奈は小さく頷いた。
「公的な記録や企業の業務記録は嘘をつきません。感情論が介在する余地のない、最も強力な武器になり得ます」
彼女の言葉が、侑作の目の前の霧を完全に晴らした。
進むべき道が見えた。次に打つべき一手が見えた。
「麗奈さん……ありがとう」
侑作が心からの感謝を伝えると、麗奈はわずかに視線を逸らし、事務的な口調で言った。
「言ったはずです。私は、秩序が乱されるのが嫌いなだけですから」
秩序。俺がやろうとしていることは、秩序を回復する行為なのか、それともさらなる混沌を生む破壊なのか。
だが、彼女はそれを承知の上で、俺を導いている。その事実に、侑作は背徳的な共犯関係の始まりを感じ取っていた。
彼女の口元が、ほんの少しだけ和らいだように見えたのは、気のせいではなかったかもしれない。
月曜日の朝、侑作はいつもより早く出社した。
まだ人のまばらなオフィスで、彼は自席のPCを起動し、社内の共有データベースにアクセスする。
営業部が管理する過去の全案件の契約情報と進捗履歴が格納されたサーバーだ。
検索窓に、『月島学人』と入力し、ステータスを『契約解除』もしくは『プロジェクト中止』に設定して検索を実行する。
数秒のローディングの後、画面に十数件のリストが表示された。
その一つ一つを、獲物を探す獣のように食い入るように見つめる。
ほとんどは、クライアント側の都合や市場の変化による正当な理由での中止案件だ。
だが、その中に、侑作はいくつかの『異物』を見つけた。
契約からわずか数ヶ月で、理由が曖昧なまま解除に至っている案件。
担当者の引継ぎ記録が不自然に途絶えている案件。
そして、その中でも特に侑作の目を引いたのは、二年前に月島が担当していたある中堅ソフトウェア開発会社の名前だった。
『株式会社サイバーフロント』。
確か、この案件は順調に進んでいたはずだ。それが突然、先方から一方的に契約を打ち切られ、当時の担当者が責任を感じて退職したと聞いている。
社内では「担当者の能力不足が原因」と噂されていた。
だが、その担当者は、誠実で優秀な人物として知られていたはずだ。
侑作はその案件の詳細ファイルを開いた。
そこに記されていた当時のクライアント側担当者の名前に、彼は息を呑んだ。
それは、月島によって社内の評価を落とされ、精神的に追い詰められ、結局退職に追い込まれたと噂されていた、あの先輩社員だった。
偶然か?
いや、違う。
これは月島が社内でライバルを蹴落とすために使ってきた、常套手段なのかもしれない。単なるビジネス上の排除ではない。相手のキャリアと精神を徹底的に破壊し、その過程に歪んだ愉悦を感じていたに違いない。
もし、そうだとすれば……。
サイバーフロント社は、月島の被害者である可能性が高い。
侑作はブラウザを開き、株式会社サイバーフロントの公式サイトにアクセスした。
会社概要のページを開き、代表電話の番号をスマートフォンに表示させる。
03-XXXX-XXXX。
無機質な数字の羅列が、まるで奈落への入り口のように見えた。
この電話一本で、全てが変わるかもしれない。
あるいは、ただの徒労に終わり、不審な電話をかけたとして自分の立場が危うくなるだけかもしれない。
心臓が、破裂しそうなほど嫌な音を立てて脈打つ。
スマートフォンを握る手が、汗でじっとりと湿っていた。
震える親指を、画面の発信ボタンの上で逡巡させる。
その時、彼の脳裏に、月島の嘲るような笑みが浮かんだ。
『……悪かったな』
あの言葉。あの表情。
俺の人生を、俺たちの部屋を、俺の心を土足で踏みにじっておきながら、あいつはたった一言、謝罪にすらなっていない言葉で全てを済ませた。
そして今頃、どこかでまた同じように誰かの心を弄び、俺の絶望を嘲笑っているのだろう。
許せるはずがなかった。
侑作は目を閉じて深く息を吸い込んだ。
これは感傷じゃない。正義ですらない。
内面で煮えたぎる嫉妬と屈辱を、憎悪という名の燃料に変えて突き進む、狂気の復讐劇だ。
この身が悪に染まろうとも、この道を往く。
目を開けた時、彼の瞳に宿っていた迷いは完全に消え去っていた。
あるのは、冷たく研ぎ澄まされた殺意にも似た決意だけ。
侑作は震えを意志の力でねじ伏せ、画面の緑色のアイコンを強く、強くタップした。
耳元で、電子的なコール音が鳴り始める。
プルルル……プルルル……。
三度目のコールで、機械的な音声ではない、生々しい人間の声が響いた。
「はい、サイバーフロントですが……」
その声に、侑作は息を呑む。
それは、予想だにしなかった人物の声だった。
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