第10話
張り詰めた沈黙を破ったのは、侑作の落ち着き払った声だった。
「これからお見せする資料は全て客観的な事実に準拠しています。皆様には先入観を排し、純粋な事実としてご覧いただきたく存じます」
彼は手元のノートPCを操作し、プロジェクターに最初のスライドを投影した。
スクリーンに映し出されたのは、とある企業のロゴ。『株式会社サイバーフロント』。二年前に月島が担当し、最終的に契約破棄に至ったクライアントだ。
「まず、月島さんが過去に担当されたサイバーフロント社とのプロジェクトについて。公式な記録では、クライアント側の都合による契約解除とされています」
侑作はレーザーポインターで、画面に表示された報告書の抜粋を指し示す。
「ですが、これは事実と異なります」
「西浦君! 一体何の話をしているんだ!」
たまらず声を荒らげたのは月島だった。その顔には先程までの蒼白さに加え、隠しきれない怒りの色が滲んでいる。
「これは『プロジェクト・ゼニス』の最終プレゼンの場だぞ! 過去の案件を持ち出して一体何をしようというんだ! 私的な恨みでこの場を混乱させるつもりか!」
芝居がかったその非難の声に、侑作の脳裏を忌まわしい記憶が過った。
会議室で孤立させられた屈辱。愛奈から一方的に別れを突きつけられた、あの雨の夜の無力感。
その全てを乗り越え、今、自分はこの場所に立っている。
侑作は微動だにせず、月島の言葉を待っていたかのように冷静に切り返した。
「私的な恨みではありません。これは、これからご説明する本件と密接に関わる、悪質な手口の『再現性』を証明するための前段です」
凛とした声が会議室に響き渡る。
「先日、サイバーフロント社の元プロジェクト責任者である高橋部長に直接お話を伺いました。彼は当時の担当者だった鈴木さんが、月島さんによる執拗な心理的圧迫……所謂ガスライティングによって精神的に追い詰められ、退職に追い込まれた事実を証言してくださっています」
侑作はPCを操作し、次のスライドへ移す。そこには高橋氏の名前で署名された証言記録の要約が表示されていた。
『月島氏は鈴木の提案を会議の場で意図的に貶め、彼の孤立を画策した』
『鈴木が不在の場で彼の能力不足を匂わす虚偽の情報を流布していた』
『結果、鈴木は自信を喪失し、自らプロジェクトを降り、退職した』
箇条書きにされた生々しい手口に、何人かの役員が息を呑む。
それはこの数週間、侑作自身が社内で経験してきたことと不気味なほど酷似していた。
「これは……」
議長である佐伯専務が低い声で呻く。
「月島君、何か反論は?」
「馬鹿な! 事実無根です! 鈴木君が辞めたのは彼自身の能力不足と精神的な脆さが原因だ! それを全て私のせいだと!? こんなものはただの言いがかりに過ぎません!」
月島は必死に否定するが、その額には脂汗が浮かび、声には焦りが混じり始めている。もはや、いつもの余裕綽々としたエリートの姿はどこにもなかった。
「では本題に入りましょう」
侑作は月島の醜い足掻きを意にも介さず、さらにスライドを進めた。
スクリーンに大きく映し出されたのは、侑作が心血を注いできた『プロジェクト・ゼニス』のロゴ。そして、その隣にはライバル企業である『ネクステラ・ソリューションズ』のロゴが並べられていた。
「皆様ご存じの通り、『プロジェクト・ゼニス』の根幹を成すのは我々が独自に開発したAI駆動型の需要予測エンジンです。これは我が社の今後十年を支える最重要の企業機密と言っても過言ではありません」
侑作は一度言葉を切り、会議室にいる全員の顔を見渡す。そして、その視線を月島に固定した。
「月島学人さんはこの重要機密を、ネクステラ・ソリューションズ社へ不正に漏洩させようと画策していました」
「なっ……!」
今度こそ月島は言葉を失った。会議室全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになる。
「西浦君、それは確かなのか!」
「証拠はあるのかね!」
役員たちから厳しい声が飛ぶ。企業スパイ行為。それは単なる社内トラブルとは次元の違う、会社の存亡に関わる大罪だ。
「はい。ここに」
侑作は動じない。スクリーンには社内サーバーのアクセスログが、タイムスタンプと共にずらりと表示されていた。
「これは先月十五日の深夜二時三分。月島さんのIDでプロジェクト・ゼニスの機密データが格納されている最重要ディレクトリにアクセスがあった記録です」
ログの一行が赤くハイライトされる。
「アクセス元は社外のIPアドレス。そしてこのIPアドレスを追跡したところ、ネクステラ社に所属するとある人物の個人契約回線であることが判明しています」
月島の顔が絶望に歪む。
「そ、そんなものは捏造だ! 俺のIDが盗まれたんだ! そうだ、俺はその時間家にいた! アリバイだってある!」
見苦しい言い訳。だが、侑作はその言葉すらも計画の内に織り込んでいた。
「アリバイ、ですか。ええ、存じています。あなたはその時間、百鬼愛奈さんと一緒にいたと証言するおつもりでしょう」
愛奈の名前が出た瞬間、月島の動きが凍り付く。彼はまさか侑作がそこまで掴んでいるとは夢にも思っていなかったのだ。
「彼女はあなたの共犯者ではない。むしろ、あなたの犯罪計画における最も重要な『道具』でした」
侑作の言葉は氷のように冷たい。
「あなたは意図的に百鬼愛奈に接近し、甘い言葉で籠絡した。私がプロジェクトで多忙な時期を狙い、私たちの部屋で逢瀬を重ねた。それは単なる情欲のためではない。彼女をあなたのアリバイを完璧に証明するための『証人』に仕立て上げ、同時に、プロジェクトリーダーである私の精神を破壊し社会的に抹殺するための『弾丸』として利用するためです」
サイバーフロント社の時と同じ手口。だが、今回はさらに悪質だ。人の恋愛感情すら己の野望のための駒として使い潰す。その非道な計画の全貌が、役員たちの前で無慈悲に暴かれていく。
「ふざけるな……! 憶測で物を言うな! 愛奈は俺を愛していた! お前との関係に嫌気がさして俺を選んだんだ! それを、こんな……!」
月島はほとんど絶叫に近い声で反論する。
その言葉に、侑作の胸の奥が鋭く痛んだ。かつて愛奈と共に夢見た未来、交わした愛の言葉。その全てが、この男の汚れた唇によって穢されていく。
だが、その痛みに耳を貸す者は、もう誰もいなかった。会議室の空気は完全に月島を断罪する方向へと傾いていた。
「憶測、ですか」
侑作は静かに呟いた。
「では、最後の証拠をお聞かせしましょう」
彼はノートPCに小さなICレコーダーを接続する。そして、再生ボタンをクリックした。
会議室のスピーカーから、ノイズ混じりの音声が流れ始める。それは、愛奈が震える手で録音した月島との会話だった。
『……本当に、俺の虜になったんだな、愛奈。あいつの温もりなんて、もう忘れちまっただろ?』
甘く、しかし冷酷な支配者の声。
『……本当に、侑作をこのまま潰しちゃうの?』
愛奈の不安げな声が続く。それに応える月島の嘲笑に満ちた声が、クリアに響き渡った。
『潰す? 人聞きの悪いこと言うなよ。あいつが勝手に自滅するだけだ。あいつは単純だからな。少し揺さぶればすぐに壊れる。お前みたいな女にうつつを抜かしてた時点で、俺の相手じゃなかったんだよ』
ぞっとするような冷たい響き。スピーカーから流れる自分の声に、月島は顔面蒼白になり、わなわなと震えている。
音声は続く。
『プロジェクトの件だってそうだ。俺がリーダーになれば、ネクステラへの『手土産』もスムーズに渡せる。あんな価値の分からない馬鹿がリーダーのままじゃ宝の持ち腐れだろ? ……そうだ、思い出した。あいつが残したコーヒーカップがまだそこにあったのに、俺の腕の中で喘いでいたお前は最高だったな』
『私……利用されてただけなの……?』
か細い愛奈の問い。それに対する月島の返答が、とどめの一撃となった。
『ハッ、今更気づいたのか? 当たり前だろ。役に立つのは顔と、その体だけか? まあ、俺のアリバイ証言さえちゃんとしてくれれば、用済みになった後も少しは可愛がってやるよ。お前の、あの安っぽい快楽に溺れる顔も、捨てがたいからな』
音声が途切れた。
後に残ったのは、墓場のような静寂。
スピーカーから流れた声は紛れもなく月島学人のものだった。その声が語った内容は、彼の人間性の根幹がいかに腐りきっているかを雄弁に物語っていた。
誰もが言葉を失っていた。あまりの醜悪さに、吐き気を催している役員さえいる。
侑作は静かにICレコーダーを取り外すと、議長である佐伯専務に向き直った。
「以上がご報告すべき重大な案件の全容です。ご判断を、お願いいたします」
その言葉が、役員たちの意識を現実に引き戻した。
佐伯専務はゆっくりと立ち上がった。その顔には怒りと失望、そして経営者としての厳しい決意が浮かんでいた。彼は、もはや人間としての尊厳すら失った残骸のように椅子に座り込む月島を、侮蔑に満ちた目で見下ろした。
「……月島君」
地を這うような低い声。
「君の言い分はもう聞く必要もないようだ。君が我が社に与えた損害は計り知れない。信頼を裏切り、同僚を陥れ、会社の財産を私物化しようとした。鈴木君や西浦君、そして君の私欲のために駒として利用された百鬼さんの心を弄んだ。断じて許される行為ではない」
専務は一度言葉を区切ると、最終宣告を言い渡した。
「よって、会社は君を本日付けで懲戒解雇処分とすることを決定する。なお、本件における背任行為、及び不正アクセス禁止法違反の疑いについては、直ちに社内のコンプライアンス委員会で調査の上、刑事告発を含めた厳正な法的措置を取らせてもらう」
懲戒解雇。
刑事告発。
その言葉は、月島学人が築き上げてきた全て――キャリア、名声、プライド――を完膚なきまでに破壊する鉄槌だった。
「あ……あ……」
月島の顔に、一瞬だけ、かつて侑作を愚弄し愛奈を支配していた頃の傲慢な笑みが歪んで浮かび、次の瞬間には醜悪な絶望へと変わった。
彼は意味のない音を漏らし、椅子から崩れ落ちた。
床に四つん這いになり、だらしなく開いた口から涎を垂らすその姿に、かつて誰もが羨望したエリートコンサルタントの面影はどこにもない。
ただの、全てを失った哀れな男がそこにいるだけだった。
侑作は、その無様な姿をただ冷たく見つめていた。
あの時の惨めな自分も、愛奈を寝取られ精神を破壊されかけた絶望も、全てこいつが仕組んだ地獄の一部だったのだ。
憎しみも憐れみも、もはや湧いてこない。
ただ、長い悪夢がようやく終わったのだという、静かな実感だけが胸に広がっていた。
歪められた現実が正され、奪われたはずの日常が確かな輪郭を取り戻し始める。
長かった戦いの、完全な勝利の瞬間だった。
悪夢は終わった。
次に俺が手にするのは、麗奈さんと共に築く、偽りのない未来だ。
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