第1章:映画館での密約
第4話 私が『お子様』で、あんたが『保護者』
あの衝撃的な出会いから数日後。俺は再び、途方に暮れていた。
場所は、みなとみらいに鎮座する商業施設、ウールドボーダーズ。
自動ドアをくぐると、外の熱気が嘘のように消え、冷房の効いた空気が汗ばんだ肌に心地よくまとわりつく。
しかし、その快適さも束の間。目の前に広がる光景が、俺の心を再び灼熱の地獄へと突き落とした。
シネマコンプレックス・レオンシネマのロビーは、休日特有の喧騒に包まれていた。バターたっぷりのポップコーンの芳ばしい香りが鼻腔をくすぐり、人々の弾んだ声が天井高く響く。
壁という壁を埋め尽くすアイリズのポスター群。パステルカラーの衣装を纏ったキャラクターたちが、これでもかというほどの笑顔で来場者を出迎えている。
俺の目的は、本日公開の劇場版アイリズの入場者特典カードだ。鈴の指令によれば、これが二つ目のミッションになる。
しかし――。
『入場者プレゼントは、中学生以下のお子様と保護者の方、のみとさせていただきます』
チケットカウンター横に掲げられた告知板。几帳面な明朝体で印刷されたその一文が、俺の甘い計画を見るも無残にぶち壊した。
お子様、および、保護者。
この絶対条件が、越えられない壁となって俺の前に立ちはだかる。
「……聞いてないぞ、鈴」
ポケットから折りたたまれたリストを取り出す。何度か開いたせいで、折り目が白く擦れている。妹の丁寧な丸文字で『映画特典』とは書いてあるが、同伴必須なんて注意書きは影も形もない。昨夜コンビニで購入した前売り券が、急に無価値な紙切れに成り下がった気がした。
改めてフロアを見渡す。
どこを向いても親子連ればかりだ。スタンプラリーの台紙を大事そうに抱えて走り回る子どもたち。「これ買って!」とパンフレットを指差し、親の袖を必死に引っ張る姿。キャラクターのパネルの前で記念撮影に興じる家族。
誰もが当たり前のように、この場所を楽しんでいる。
そんな幸福に満ちた空間の中で、俺だけが、絶望の淵に立たされていた。
看板の文字は見なかったことにしよう。直接聞けば、ワンチャンあるかもしれない。ほら、バイトがルールよくわかってないパターンとかあるし。
ダメ元でシアター入口へ向かってみる。赤いベストを着たスタッフが、特典の入った段ボール箱を脇に置いて立っていた。
「すみません、これ、一人だと貰えないんですか?」
「申し訳ございません。お子様同伴キャンペーンとなっておりまして……」
二十代半ばと思しき女性が、マニュアル通りの、しかし「察してくれ」と言わんばかりの困り顔を浮かべた。
「映画は見れますけど、特典は……」
「むしろ、特典が欲しいんです!」
正直すぎる告白に、お姉さんの口元が僅かに引きつった。十七歳の男が女児向け映画の入場者プレゼントを血眼になって求める絵面。どこからどう見ても社会的にアウトだ。
「も、申し訳ございません」
それ以上の言葉は、お互いに不要だった。
俺はとぼとぼとロビーの隅へ退散した。人目につきにくい場所のベンチに腰を下ろし、天井を仰ぐ。蛍光灯の白い光が、妙に目に染みる。
「……どうしよう」
そのまま頭を抱えていると――。
「あ」
聞き覚えのある、透き通った声が耳に届いた。
ゆっくりと顔を下げる。視界に映ったのは、忘れようにも忘れられない少女の姿だった。
磨き抜かれた黒髪を、見覚えのある林檎色のカチューシャが飾っている。今日は浅い海を思わせる、優しい色調のセーラーワンピース。清楚な雰囲気と上品な仕立てが、彼女の育ちの良さを無言で物語っていた。
この前とは服装こそ違えど、凛とした佇まいは変わらない。あの日、ゲームオーバー寸前の俺を救ってくれた女の子だった。
「……クソ転売ヤー」
開口一番それかよ、と内心で突っ込む。だが、辛辣な言葉とは裏腹に、表情には明らかな困惑の色が浮かんでいた。
見れば彼女もまた、一人で館内をさまよっていたらしい。右手にはスマホと前売り券。左手には、なんとアイリズ仕様のタンブラー。首からはキャラクターがプリントされたポップコーンバケットまでぶら下げている。
準備は完璧、いや完璧すぎるほど――なのに。
「まさか、お前も貰えないのか」
「……うるさい」
図星だなこりゃ。
少女がスマホの画面を俺の目の前に突きつけてきた。『アイリズ公式』のSNSアカウント。ピンクと水色を基調にしたタイムラインに、一つの投稿が表示されている。
『親子でレッツ、アイリズ! お子さんと一緒にアイリズを始めよう☆ 映画を見に行って合言葉を言うと、特別なカードが親子揃ってもらえるよ♡』
絵文字まみれの文章が、やけに能天気に見えた。
「去年までは一人でも貰えたのに」
少女は悔しそうに唇を噛んだ。その仕草に、単なるアイリズファン以上の執念を感じる。
「今年から仕様が変わったみたい。親子ムビチケさえ買えば、私一人でなんとかなるかと思ったけど……」
手元には、しっかり親子ペアチケットが握られている。二人分の前売り券を用意する周到さ、あっぱれだ。肝心要の〝親〟がいないけど。
「親はどうしたんだよ」
何気ない質問のつもりだった。でも、投げかけた瞬間、少女の顔つきが微妙に強張った。
「……仕事」
素っ気ない一言。それ以上踏み込むなという拒絶の意思が、全身から放たれている。そういえば、あの日もこの子は一人だった。
「友達は?」
「別に。関係ないでしょ」
さらりと受け流されたが、彼女の横顔に、陰が差したのを俺は見逃さなかった。特典の箱を見つめる眼差しが、どこか遠くの何かを見ているような気がする。
沈黙が二人の間に横たわった。周囲では相変わらず、親子連れの微笑ましい会話が繰り広げられている。幸せな賑わいが、今はひどく現実味のない音として耳を通り過ぎていく。
「なあ」
重い空気を破るように、俺から口を開いた。
「どうしても、特典欲しいか?」
「……当たり前でしょ」
「俺もだ」
二人して、深いため息が漏れる。それは落胆とも、決意とも取れる、どっちつかずなものだった。
しばらくの間、お互いに無言で床のタイルを見つめていた。規則正しく並んだ白と黒の市松模様が、いやに目に焼き付く。
「お互い、このままじゃ特典貰えないよな」
俺のボヤきに、少女がゆっくりと顔を上げた。
「……それで?」
「いや、だから……なんとかならないかなって」
歯切れの悪い俺を、彼女は鋭い視線で睨みつける。計算するような、査定するような目で。
「二人いれば、その……」
「私が『お子様』で、あんたが『保護者』」
俺が言い淀んでいた提案を、あっけらかんと言い切った。まるで、最初からその答えが用意されていたかのように。
「え、あ、そうそう。それ」
「最初からそう言えばいいのに。回りくどい」
的確な指摘に、返す言葉もございません。
いや、しかしこいつの頭の回転、マジではええな……。
「あ、でも、親戚でもなんでもないからバレるんじゃ……」
「わざわざ身元確認なんてしないでしょ。妹くらいにしか思われないって」
言われてみればその通りだ。
てっきり、身分証の提示みたいな厳密な検査があるやもと身構えたが、ここはただの映画館だ。そこまで厳しくチェックするわけがない。
論破された俺は「なら大丈夫か」と頷くが、当の本人の顔色は、なぜか晴れないままだった。
「でも……」
小さく、本当に小さく呟いた。
「でもなんだよ。名案だろ」
「名案……そんなのわかってる」
少女は手の中の前売り券を見つめる。ピンクの背景に、キラキラと踊るキャラクターたちが印刷されている。
「だけど、どうにもスッキリしない……なにかに負けた気分……」
なるほど、プライドね。この聡明な女の子にも、容易には曲げられない矜持があるらしい。見ず知らずの、しかもアイリズにわかの男と組むことへの抵抗感。
「なに言ってんだよ。欲しいんだろ、特典」
「くっ……」
悔しそうに歯噛みする音が聞こえた。
欲望とプライド。二つの感情が天秤に掛けられ、激しく揺れ動いているのが見て取れた。
数秒ほど悩み、やがて観念したように少女はうっすら息を吐いた。
「……仕方ない」
敗北宣言にも似た、苦渋の選択。それを合図に、俺は立ち上がる。
「俺は鳴海奏多。よろしくな」
「凛音……琴浦凛音」
凛音、か。ようやく、名前を知ることができた。
あの日、名乗ることすらせず去っていった彼女の輪郭に、一歩だけ近づけた気がする。
俺は証として、右手を差し出した。
「協定だ」
凛音は向けられた俺の手を一瞥し、あからさまに顔をしかめる。
「バカじゃないの」
毒づきながらも、渋々といった態度で華奢な手を伸ばしてきた。握手というよりか、指先でちょんとつつくだけの短い接触。彼女は素早く手を引っ込めると、これ見よがしにスカートで拭う動作をした。
「おい、人の手を汚いものみたいに」
「夏だからって汗かきすぎ。こんなクーラー効いてる室内で、どうしてそんなに濡れてるの。カエルの手かと思った」
「そこまで言うか……」
カエルは言い過ぎだろう、と思いつつも、実際、手のひらが湿っていたのは事実だった。
それにしたって、やっぱカエルは酷い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます