第5話
「あ、まって……せっかくならこっちの花にしましょうよ。ここをこうして……」
「まぁよろしゅうございますわね、姫様」
「私の装飾品箱持って来てちょうだい。紅玉のがほしいの」
「動かないで下さいましね」
「まぁ綺麗な肌ですこと。信じられませんわ殿方だなんて」
「見て見て、この紅玉の耳飾り! この子に合うと思わない?」
「「合いますわぁ~」」
侍女達が溜め息まじりにそんなことを言っている。
(鎧に比べれば遥かに軽いはずなのに)
なんだろう。
腕とか首とか耳とか、とにかく全体的に重い気がする。
差し出された鏡を覗くのを断固拒否して女達をぶーぶー言わせていると、そのうち扉が叩かれた。
「陸遜、お前【
銀麗、という単語に陸遜が反応し声の方を振り返った。甘寧がいる。
早く愛剣を手にして自分の感覚を取り戻したい、と手を伸ばそうとすると
「駄目よ陸遜暴れちゃ」
「銀麗剣」
「甘寧分かるでしょ? 今支度中なの。動けないから貴方がここに持って来てちょうだい」
甘寧はこっちまで歩いて来て、わざわざ正面に回って女に化けさせられている陸遜をじっと見下ろした。
「化けたなぁ」
「……穴が開くからそんなに見ないでくれませんか」
「どう? 可愛いでしょう!」
なぜか
そこは威張るところではないと思うんだが……陸遜は複雑な表情している。
しかし甘寧はつま先から頭のてっぺんまで一通り鑑賞すると、にやにやと意地悪そうに笑った。
「この俺でもなかなかお目にかかった事無いな」
陸遜がさすがに甘寧を睨みつけ、その手から愛剣を奪った。
ああ、この剣だけがどんな姿の手の平にもなじむ、と胸にかき抱く。
「賢いわ双剣は使うわおまけに別嬪さんか。嫁にすんならこんな女がいい」
陸遜は口元を歪めた甘寧の脇腹を銀麗剣の鞘で突ついた。
甘寧はそれを避けながら笑っている。
「こりゃ豪勢すぎるぜ」
着飾った陸遜を首で示して甘寧が言うと、孫黎も自分の髪に花を挿しながら笑った。
「いいのよ、このくらいで。女だけの宴ですもの。
それに
女の宴なら、美しさで負けるわけにはいかないでしょ?」
頑張らなくっちゃ、と気合いを入れる孫黎に陸遜は苦笑するしか出来ない。
頭についた花にちょっかいを出して遊んでいる甘寧の手を邪険にしつつ、陸遜は護衛兵、護衛兵、と心の中で何度も唱える。
コンコン、とまた扉が鳴る。
「大忙しね」
「姫君、周瑜様が最終の確認をしたいそうなので……」
侍女頭の女性が入って来て、言った。
「今行くわ。大丈夫陸遜、立てる? 格好つかないから転ばないでね」
「……、善処します」
「まぁ陸遜様ですの?」
侍女頭は目をぱちぱちさせて陸遜の方を見た。驚いた顔をしている。
「姫様、おしとやかになさりませんと。これはどちらが姫君か分かりませんですわね」
「どういうことよォ~~」
甘寧が吹き出した。
「さすがは周瑜さま。妙案ですわね。どこからどう見ても女にしか見えませんわ。
他の殿方ではこうは参りません」
「……。」
もはや抵抗をするのはやめた。
「さ、いきましょ陸遜。出陣よ。今日一日は貴方は私の護衛兵長。
常に私の後ろにいてちょうだいね」
「はっ!」
とにかく集中しなければと思って声を出すと、早くも孫黎が頬を膨らませる。
「そんな男らしい声出しちゃ、だめ!」
「あ、す、すみません……」
おもわず身を縮こめると、私達の遣り取りを脇で見ていた甘寧が無遠慮に吹き出して笑い声を立てている。
「しずしず歩いてね」
◇ ◇ ◇
「周瑜さま、姫君をお連れしました」
間を置かず扉が中から開かれる。
顔を上げた淩統と陸遜がたまたま目が合うと、淩統はぎょっとした顔で一瞬で赤面すると、逃げるようにササッと部屋を出て行ってしまった。
周瑜だけは陸遜を見てもいつも通りの静かな表情だった。
それだけが救いである。
バサ、と机の上に大きな地図が広げられる。
「この一帯の見取り図だ」
陸遜と
「砦を出たらすぐに森へ入る。
向こうが許可したのですでに伏兵の有無は確認を済ませた。
伏兵の気配はこの西の外壁からこちらの範囲まではない。
しかし思いの外森は深いようだ。
姫君、撤退時は迷わぬよう、注意して下さい。
万が一の時には砦の鉦も鳴らして誘導します。
陸遜ならば砦の方向を見分けるはず。
よいな、陸遜。何としても姫君を砦へお連れするのだぞ」
「はっ!」
「孫策はすでに江北で船団を率いて待機している。もし魏に不審な素振りがあれば伝令が動き速やかに進軍を開始する手はずは整えている」
「分かったわ」
「……本来ならば私もお伴するのが筋ではありますが、代わりに陸遜を向かわせます。
なにとぞお許しを」
周瑜が孫黎に頭を下げたが、孫家の姫は首を振った。
「ううん。魏との約束だもの、当たり前よ。気にしないで。
貴方はこの砦にいて、全体の指揮を執ってちょうだい」
「は。砦に常駐させている三百の兵はいつでも動かせるようにしておきます。
甘寧と淩統が控えているゆえ、いつでも指揮は執れますので」
「分かったわ」
甘寧の肩にいつの間にか黒曜の大剣が担がれていた。
「……では、そろそろ時間だ」
◇ ◇ ◇
砦を出てすぐに森に入った。
確かに深い森だ。
こんな森に入ると直ぐさま伏兵を警戒する構えになり、自分も戦に染まって来たな、などと感じる。
左右を気にする陸遜と違って、馬に乗って真っすぐ前方を見つめている孫黎の背は凛とさえしていた。
黙って歩いていると、不意に孫黎が振り返る。
「陸遜、双剣はちょっと目立つわね」
「……は? あ、は、はい……。そうですね」
「では私と一本ずつ分け合いましょう。私が一本持つから、何かあればすぐに私のもとに」
「分かりました。では、お願いいたします」
腰に下げていた【
十分ほどゆっくりと歩いただろうか。
突然目の前に茂っていた木々が開けた場所に出た。
空も見える。……曇っているようだ。
火が焚かれていた。
そこだけに敷かれた大きな敷物の上に、艶やかな黒髪を結い上げ垂らした女性が着物の裾を優雅に広げ、座っていた。
よく見れば奥に侍女らしき女が三人ほど座っていたが、そんな外気の人間など色を霞めて消えていきそうなほど、圧倒的な存在感だった。
孫黎は「女だけの宴ならば、美しさで負けるわけにはいかない」と言った。
それは本当のことであったのだと今更ながらに思い知る。
存在を霞ませられては話し合うも何もない。
陸遜が我が姫君は大丈夫だろうかと見遣ると、豪傑を父に持つ孫家の姫はこちらに宝石のような二つの紫の瞳を向ける美姫へ、こちらは彼女の生まれ持った気質である、相手の暗面を照らし出すような明るい色の碧を向けたのだった。
陸遜は高貴に向き合った二人の女性に気圧されて、その場にとりあえず足を止めた。
「そこに控えていなさい」
凛とした声で
陸遜は頷いて、連れて来た二十騎の
「孫黎さま」
魏の
姿が美しいものは声も美しいものなのかと思うほどに、美しい声だった。
甘やかではなく、澄んでいる。
陸遜もこれまでに高貴な女性はそれなりに見て来たつもりだったが、この甄宓という女性は間違いなく、これまでに会った女性の中でも最もと形容していいような紛れもない美女だった。
抜けるような肌の白さがその艶やかな黒髪をことさら引き立たせている。
少しのほつれもない。
彼女もまたこの自分の黒髪を、男が戦場に行く前に丹念に剣を磨き上げるように、整えて現れたに違いなかった。
「お待ちしておりました。……来ていただけて……嬉しゅうございます」
深く一礼したが、すぐに頭を上げた。
呉の王家の姫君にさえ、彼女は礼は示しても媚びることはしないと決めているらしい。
孫黎もそれを承知したようだ。
「まずはお迎えさせていただきます」
紫水晶の美女が頷くと、演奏が始まった。
(本当に始まった)
森に響く楽の音。
これが砦にいる周瑜の耳に届いていたなら、これを一体どんな気持ちで聞くのだろうか。
四人の娘達はそれも若い顔をしていたが、楽の音は見事だった。
孫黎は甄宓の側に座り、じっとその音色に耳を傾けている。
演奏が終わると、二人は改めて向かい合った。
「いかがだったでしょうか。王宮でも、最も腕の良い娘達を連れて参りましたの」
「素晴らしい演奏だったわ」
孫黎が素直にそう言うと、甄宓は満足そうに微笑み、少しこちらを見た。
「あちらが貴女様の
「ええ、そうよ」
「お噂ではその辺りの一隊よりもよほど腕が立つとか」
「獅子の心を持つ女達よ」
「まぁ、勇ましい」
裾で口元を隠し、美女は氷を溶かすような笑みを浮かべる。
「わたくしも、剣を持たせてはいませんけれど……実は楽師隊を育てているのです。わたくしも楽をそれなりにたしなみますから……」
「そうなの」
「綺麗な笛ね」
「はい。わたしの宝物なのです」
孫黎は少し緊張を解いて笑った。
「……貴女は本当の姫君なのね、甄宓様。実は私はそういうことにはどうも疎いの。
楽も聴くのは好きなのだけれど、自分では上手く吹けなくて。恥ずかしいわ」
「まぁ、恥ずかしいだなんて」
甄宓は目を瞬かせたようだった。
それから脇に瞳を反らす。
いつの間にか、静かな音に合わせて舞いが始まっていた。
灯りが増やされて、まさに女宴に相応しい華やかさとなる。
舞台の下に控えている陸遜は場違いな気持ちを感じながらも、始まってしまった今ではもう、この女宴の周りを囲むようにして、男達の暗い思惑が渦巻いていないことを祈るばかりだった。
「……あなたは……、袁家の」
孫黎が遠慮がちに言うと、甄宓の方が笑って気にしないで下さいと頷く。
「私はかつての夫にも楽の音で見いだされましたの。両親は喜んで
運命、を彼女が肯定的に言ったのか否定的に言ったのかは、側で聞いている陸遜にもよく分からなかった。
「……甄宓様。何故今回私を呼び出したの?」
「呼び出したなんて。お会い出来たら、とは思いましたけれど」
「……それは本気ではないわね?」
「まぁ。どうしてです?」
「曹操様はこの宴のことを何とおっしゃっているの?」
甄宓はすぐには答えなかった。
「曹操様がこの宴を提案されたのでは?」
もう一度孫黎が尋ねると、甄宓は今度はあっさりと首を振ってみせる。
「いいえ」
「曹操様はこの宴のことをご存知なの?」
「さあ、分かりません。ご存知かもしれないし、ご存知ではないかもしれませんし……」
「それよりも、私達は今を楽しみましょう?
素晴らしいことではありませんか……殿方は長江を挟んで魏も呉も睨み合っておいでなのに、わたくしたちはこんな側で向かい合って話すことが出来るのですから」
向こうの侍女が酒らしきものを運んで来る。
陸遜は反射的に少し腰を浮かしかけた。
するとそれを見た甄宓はふわりと微笑んだ。
「あら……そうですわね。では、私が毒見をいたしましょう」
杯を手に取ったが、孫黎がそれを制止する。
「その必要はないわ」
そう言って、ぐい、と酒を喉へ流し込んだのである。
何と危ないことをと陸遜は注意しそうになったが、孫黎は落ち着き払って、ことんと杯を盆へと元に戻す。
甄宓はそんな孫黎を優しい眼差しで見つめていた。
「飲む水が違うと同じ女でも全く異なる女が育ちますのね、孫黎さま。
……私達の国では貴女のように清々しい女性は存在しませんわ」
甄宓の両耳を飾った翡翠の耳飾りが、炎に照らされて美しく輝いた。
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