第6話
陽が落ちて来た。
曇り空の向こうが夕暮れに染まっている。
あれから何時間になるだろう。
まさに表も裏も何もない、宴席以外のなにものでもなかった。
舞いや奏楽を楽しみ、魏や呉では今何が流行っているのか、女性らしい話題をずっと交わし合っていた。
時折侍女なども混じって、それは賑やかな場だった。
話題が一区切りすると、孫黎が思い出したように言う。
「本当に美しい笛なのね。もう一度見せて下さる?」
「大切な方にいただいたものなのです」
甄宓は笛を大切そうに手に持った。
慎み深く大人びていた感じの彼女が、その一瞬だけ少女のような笑顔を浮かべたように思えた。
「それだけで一級品の装飾品のよう」
「音色も一級品ですのよ。……お聴きになります?」
「ぜひ聴きたいわ」
「喜んで吹かせていただきます」
甄宓は立ち上がった。
ずっと座っていたため気づかなかったが、彼女は背を伸ばして立ち上がると女性にしては背が高った。すらりとした全身を銀糸で牡丹の花をあしらった紫の衣装で包み込んでいる。
真珠を通した紐で長い黒髪の一房を、後ろで花形に結い上げていた。
立ち上がった姿はまるで女王のような気品があった。
陸遜はこういった話が苦手なので上手く表現出来なかったが、彼女が篝火の輝きの中で立ち上がった時、曹操か曹丕が呉の籠絡の為にこの女性を送り込んで来たという話は、あながち嘘ではないのかもしれないとすら思った。
甄宓の美貌は、それほど、他を圧倒するものだったから。
ここに周瑜や甘寧がいて、彼女を見たら何か別のことを感じ取ったような気がして、もどかしい。
彼女は舞台に上がって、孫黎に向き直る。
ふわりと座って笛を構えた。
音色を聴いた途端、ぞわり、と背中が粟立った。
多少たしなむ、と彼女は言ったがとんでもない謙遜だった。
高雅な彼女に相応しい優雅な音色。
よどみもなく流れる旋律は樹々の合間を縫ってたちまち森全体へと響き渡っていく。
呉では周瑜が非常に優れた楽の才を持っていたが、周瑜の笛の音を聴いた時にも、陸遜はその素晴らしさには胸が震えたものだが……。
これはまるで心を奪われるような。
(なんだろう……頭の奥がぼうっとする)
しかしそれがひどく心地いい。
彼女が吹き終わると、その余韻がしばらく場を支配した。
「なんて綺麗な音色なの」
孫黎が感動したように言った。
「さぞや有名な名器なんでしょうね。名は何というのかしら」
「【狂わせる月の光】――という名ですのよ」
フッ……、と舞台に灯っていた灯りが一つ消えた。
やけに冷たい風が通り抜けたのだ。
消えた篝火の煙を見遣った甄宓は再び静かに笛を吹き始めた。
風に揺らめく炎が地面に伸びた甄宓の影を妖しく揺らめかせる。
極上の笛の音に耳を傾けていた孫黎が呟いた。
「美しいけれど悲しい音色ね……」
「この宴の話が来たとき、多くの者が受けることに反対したわ。
でも私は……貴女に会ってみたかったの。
貴女の調べに宿る悲しみが、なんだか少し分かるような気がするわ」
陸遜は舞台の下に控えたまま、孫黎の声を聞いた
「貴女もこの戦乱の世で、男達の争いごとや計略の中で駒のように動かされている。
私もいずれは、そうなる身。いいえもしかしたら今この瞬間でさえ」
甄宓の調べは濁ることもない。
「貴女のように悲しみを感じる人が、魏の地にもいてよかった……」
俯いていた陸遜が少し顔を上げ、そこから見える孫黎の細い背中を見つめた。
「苦しみを知る人が……」
ふと、音が止まった。
「貴女は同情しておられるのですね、わたくしに……。……なぜ?」
「同情……ではないわ。違う。
夫と死に別れ、その夫の仇によって略奪された……。
人の思惑に翻弄されてもなお、貴女の心には静けさがある。
そのことを私は尊敬すらしているわ。
私も呉の姫として、いずれは計略に使われるでしょう。
私はそのとき、貴女のように心静かにありたいと思う」
孫黎は甄宓を真っすぐに見つめた。
「同情ではない。私と貴女は似ているもの……」
差し出された手の平をまさか本当に取るのかと甄宓を見た瞬間、陸遜はハッとした。
それまで優雅に笑んでいた甄宓の表情が一変していた。
彼女は笑いかけた孫黎を氷のような表情で見下ろしたのである。
「――私もお会いしたかったわ、呉の
彼女の声音から、一切の親しさが消えていた。
「貴女という人間が分かれば、私が貴女という人間にこれから先どのように相対すべきかが分かる」
「……甄宓様?」
孫黎が怪訝そうな顔を浮かべる。
「私と貴女は少しも似てなどいません」
陸遜ははっきりと甄宓の敵意を感じ、立ち上がった。
孫黎は立たない。座ったままだ。
虎の如き気性で知られる孫家の血筋――しかし、その末の姫は雄々しい魂の待ち主ではなかったのだ。
いきなり抜かれた刃に、戸惑っている。
分かり合えたと思った相手に突然刃を向けられる、彼女の激しい動揺が伝わって来た。
(むしろ虎の如き気性は――)
陸遜は仰ぐように舞台上で声を響かせる美姫を見上げた。
「わたくしの悲しみ?」
彼女は長い足を組み替える。
「夫を討たれ、その敵に略奪され……?
力の無い者が死んだ、ただそれだけのことですわ。
悲しみなど全くございません。
ましてや討った方に憎しみなど、とんでもない。
貴女如きに私の心がどうして分かりましょう。
ご自分のことさえ分かっておられないのに」
「……どういうこと……?」
「貴女は女が男に従うことを侮蔑的におっしゃるけれど、私はそうは思わない。
――女は宿命なのです、孫黎。
自由に生きようとなさるから悲しみ、苦しむ……果てもなく」
「……。」
「私の宿命は……お会いした瞬間に分かりました。
夫を討ち、その血で濡れたその刃の切っ先で、わたくしを指し示されたあの方を見た時……この方の為に生きこの方の為に滅びようと」
孫黎は立ち上がる。
「己の心の持ちようで、どれだけでも人は誇り高くなれるのです。
貴女はご自分でご自分を悲しい存在にしているだけですわ。
そのような人間とこの私が、同じであるはずが無い!」
怒りに満ちてもなお、美しさが曇ることが無い。
「計略によって動かされる駒であることくらい――屈辱でも何でもないわ」
「もう話すことはない。孫黎、貴女という人間が分かった。
貴女が悲しみに立ち止まる愚かな子供だということが。
その程度ならば、放っておいても自ら身を滅ぼすでしょう。
貴女のような子供が、この乱世において、呉と蜀。
二つの国を強固に結びつけるなど、到底無理な話だわ」
ボッ……、といきなり甄宓の背後で火の手が上がった。
陸遜は反射的に腰の【
甄宓は炎を背に婉然と微笑む。
「ああ、そうね。最後に教えて差し上げます。
この宴は形式上は曹操様も他の方々もご存知ありません。
今度の
万全な陣営に唯一の不安と言えば呉蜀の動向でした。
ですからその不安の糸を紡ぐ金具になる方が呉にいらっしゃるような気がして、
お会いしようと思ったのです。
手強い方かどうか確かめたくて。……でも、杞憂でしたわね」
(では、本当にこの女性の独断で⁉)
「私など、覇王の前には小さな存在なのです。
私の成すことが邪魔ならば、私は消されます。魏とはそういうところなのです」
「
「でも貴女は現れた。悲しみを語り合いたいという愚かな理由で――。
ですから、この場にいる時点で貴女の負けなのよ」
後方で裂くような悲鳴が上がった。
振り返ると、森の奥に控えていた
(――敵⁉ まさか……そんな気配はしなかった!)
「姫様! お逃げください!」
「どうしたのみんな!」
こっちへ駆け寄って来た女兵士が何かを言おうとした瞬間、後ろから大きな黒い影が彼女に襲いかかり、その衝撃に彼女は前につんのめり、地面に倒れ込んだ。
その背に鋭い爪を食い込ませる、大きな獣の姿……。
「きゃああああ――――!」
孫黎が悲鳴を上げ、口元を手で覆った。
『姫君を守れ』
陸遜の頭に突然閃いた、周瑜の言葉だった。
瞬間的に地を蹴る。
侍女の肩に獣の牙が食い込む光景に悲鳴を上げ、立ち尽くす孫黎の身体を、反射的に攫うようにして横に飛んでいた。
「きゃっ!」
勢い余って土の上に二人で転げ落ちたが、まさに一瞬の違いで丁度孫黎が立っていた場所に軽々とした跳躍で森の奥から飛び込んで来た虎が、四つ足で降り立つと、空へと突き抜けるような咆哮を上げた。
空に広く反響する。
答えるように遠くで、低い轟音がした。
空が鳴っている。
「姫! 立てますか!」
「あ……ああ……っ」
「姫君!」
こっちへ飛び掛かろうとする気配を見せた獣に、陸遜は咄嗟に側にあった篝火の柱を蹴り倒した。
地面に倒れた拍子に火のついた木の枝が跳ね、獣が一瞬たじろぐ。
陸遜は孫黎の腕を無理矢理引っ張ると、砦への道を走り出す。
侍女達の悲鳴が聞こえたが、立ち止まらずに森の中を駆ける。
――フォン……。
笛の音が耳をつく。
陸遜は肩越しに一度振り返った。
ザザ……、強風に煽られた枝の間から、今しがたその荒れ狂う性のままに孫黎たちに牙を剥こうとした巨大な二匹の獣が、紫水晶の美姫の前にゆっくりと平伏するのを見た気がした。
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