第4話




 扉を開くと中から入って、と声がした。


「失礼いたします、姫君」


 陸遜が丁重に頭を下げると、それを孫黎そんれいが見て大きな声で笑った。


「聞いたわ。陸遜が私を守ってくれるんですってね。ありがとう。私もそれなりには剣を使うけど……いざという時にはよろしくね」

「はい。必ずお守りいたします」

「女に化けるんですってね」

 くすくす、と悪意無く笑っている。

 陸遜も苦笑気味だ。

「お見苦しい姿をお見せしますが」

「ううん。陸遜って女の私から見ても顔も造りが丁寧だもの。似合うわよ」

 似合うわよ、と言われても素直に喜べない陸遜だったが、屈託ない笑顔でそう言われてしまうと笑うしかなかった。

 こういうところは本当に似た兄妹だな、と思う。


「それに私の娘子軍じょうしぐんには貴方の三倍は屈強な女がいるわよ」

「心強い限りです」

 微笑んだ陸遜に、孫黎は侍女を下がらせた。


「ね、陸遜私丁度貴方とは一度しっかり話をしてみたいと思ってたの。ちょっと座って?」

「あ、はいでは……」


 失礼しますと椅子に座ると、孫黎も向かい側に座って陸遜の顔を見ながらふふ、と笑った。

 陸遜はあまり女性との会話で話せばいいような内容を知らないため、孫黎の期待を含ませたような瞳に居心地が悪くなる。

 侍女がやって来てお茶を注いで行った。

 孫黎そんれいが飲んで「美味しいわよ」と言ったので、陸遜も茶器に手を伸ばしてこくり、と飲んだ。




「ね、陸遜は誰かに恋をしたことある?」




 いきなりそんなことを聞かれて、陸遜は驚きのあまりむせ返りそうになった。

「きゃー! やだ! 陸遜大丈夫⁉」

「あ、はい……ごほっ……! だい、じょうぶ、です……!」

 孫黎がよしよしと陸遜の背中をさすっている。

「ごめん、そんなに驚くと思わなくて」

「いえ、驚いたというか……考えおよびもしないことを聞かれて混乱してしまいました。すみません。もう大丈夫です」

 孫黎そんれいはそばに腰を下ろすと、首を傾げる。

 陸遜は答えの先を求められているのだと気づいて、こほん、と一つ息をついてから言葉を出す。


「……恋……、ですか……」


「そう、恋」


 陸遜の頭に甘寧の顔が浮かんで、自分が甘寧に抱く想いは恋なのだろうかとふと考えた。


 自分が甘寧に対して持つ感情は、きっと一言では言い表せない。


 陸遜にとっては友でもあるし、身内よりも近しい存在でもある。

 武将として憧れもあるし、軍師の自分にとっては有能な「剣」でもあった。

 もちろん軍師として認めさせたいという少年らしい挑戦も感じるし、何にも考えずに隣にいたいと思うこともある。


 うーん、と考えていた陸遜は孫黎が自分の方を見ているのに気づいてハッと頭を下げた。

「すみません、……なんか色々考えてしまって」

「ううん」

 孫黎は首を振る。


「いいのよ無理をして答えないで。分かるもの。恋を知ってる顔よ」


(私が?)


「ねえ陸遜。その甄宓しんふつって人は……恋を知っているのかしら」

 陸遜は孫黎を見る。

「敵側の男に略奪されるなんて、きっととても辛いことよね」

「……。」


 陸遜は自分がこの話を聞いてはいけない気がした。


「私は自分が政に利用されても、別にいいの。孫家の姫として当然だもの。

 でも、それを嬉しいとは思わない。

 蜀になんか行きたくないわ。私は呉が好き。

 この豊かな江東こうとうの地が好き。大切な家族とずっと一緒にいたい」


「……。」


「そんな私がもし、蜀にいることを嬉しいと思えるのは、それはきっと蜀の誰かに恋をした時なのかしらね」


 孫黎は笑んだ。



「話してみたいの。甄宓しんふつという人と」



◇    ◇    ◇



 コンコン、と扉が鳴る。

 窓辺の椅子に寝そべっていた甘寧はその姿のまま返事をした。

 そっと扉から顔を見せたのは陸遜だった。

「今、よろしいですか?」

「よろしいぜ」

 動く気配もなくそう笑んだ甘寧に陸遜は頷いて部屋に入って来た。


 離れたところにある椅子に座ろうとすると、甘寧が手を上げて自分の方に来い、と手招きをした。

 陸遜は甘寧のそばにやって来て、地べたにそのまま座った。

 椅子に顎を預けた陸遜の顔を眺めながら、甘寧はその前髪の一房を指先でつまんだ。


「怒ってんのか?」

「え?」

「俺が昼間今回の戦お前には向いてねえとか言ったから」


 陸遜は目を瞬かせる。

 そういえばそんなことを言われた気がしたが、前回の戦のことを思うとあながち嘘ではない。別に怒ってはなかった。



「じゃあ、落ち込んでるのか?」



「……。甘寧殿」

「ん?」

「甘寧殿は、……恋を、したことありますか?」

「あ⁉」

 甘寧が眉を吊り上げ、変な声を出した。

 それが自分が孫黎そんれいに問われた時と似ていたので、陸遜は笑う。

「甘寧殿も驚くんですね」

「なんだそりゃ」

「実は姫様に同じことを言われて……」


 陸遜は孫黎が言っていたことを甘寧に話した。


「ふーん。あいつがそんなことをねぇ」

「なんか、私が聞いてはいけない話のような気がしたんです」

「なんで?」

「なんというか……。姫様の目が真っすぐすぎて……場違いな気がして。

 ……私は心のどこかで、きっと彼女の話を綺麗ごとだって軽蔑したようなところがあったから」


「軽蔑? お前が?」


「……女の悲しみが国を越えて理解し合えるとか、出来るわけない。

 そんなのは無意味だって、そういう気持ちがあるんです。

 女が悲しみを口にして、話し合って……それで何か変わるんですか?」


 甘寧は陸遜の話に耳を傾けて、その言葉の端に苛立を感じ取り、珍しいことだと思った。


「今回のことも。甄宓しんふつという女性がいかに曹操の息子の妻だと言っても、相手は帝に己の娘を作為的に嫁がせることに何ら恥じない男なのですよ。彼女に曹操を諌めるような力があるとはとても私には思えない」


「お前は今回のは罠だと思ってんだな」

「……多分、」

 陸遜は呟いたが、すぐに首を傾げた。


「その罠の中に、何故私は姫君を連れて行くんでしょう」


「……。」


「あの方は、嘘のない女性です。兄君がそうであるように。そういう方を敵の策略の中に投じて『必ず守ってみせる』? ……何を言っているんでしょう」


 陸遜が顔を俯かせて拳を握った。

「貴方が思っているよりも曹操は残酷なんです、と言いそうになったんです」

「……。」


「私も、と」


 陸遜の指先がせわしなく床を叩いている。



「……誰かに恋をしたら、辛くなくなるなんて、そんな単純じゃありません」



「……。」

「そういう考えだからまた悲しむことに」


「陸遜」


「何を話すことがあるんですか?」

 陸遜が俯いたまま手を動かすことを止めないので、甘寧は苦笑して、その手を掴み上げた。

「ぐるぐる回ってるぞ、お前」

 やめろ、と言われ、陸遜は我に返る。

「……ぐるぐるしてましたか?」

「うん」

「……もやもやするんです」

 甘寧は片肘をついて寝そべった姿のまま、頷く。

「要点まとめると、どーいう話だ」

「まとめると……」

「……」



「……すごく後ろめたくて」



 言えんじゃねえか、と甘寧は笑っている。

「……すみません。八つ当たってしまいました」

「お前はさ、孫黎の言ったこと、分かる気持ちと分かんねえ気持ち、どっちもあんじゃねえのか」

「……。」

「女が話し合って何になんだよって思ってるのも本当だし、誰かや何かを想うってそういう気持ちが無意味じゃねえって思ってるのも、本当」

「……。」


「お前は孫黎そんれいのまっすぐしたところ、好きなんだと思うぜ。でも仕事としてはそういう真っすぐな人間を罠のど真ん中に連れて行かないとなんねーし。あいつを嫌ってるっつーより、俺にはお前がそうする自分を嫌ってるように見えるけど」


 甘寧の言葉に陸遜は返す言葉はない。

 言われた通りだった。


 孫黎の言ったことが綺麗ごとだと思う一方で、本当はそういう悲しみや繰り返したくないという思いから世界が変わるのが一番いいのだと思う。

 でも決してそうはならないから、自分たちが戦うのだ。


「……。すみません」


 甘寧は陸遜の頭をくしゃ、とした。

「陸遜は矛盾抱えるとイライラするよなぁ。ちょっと分かって来た」

 笑っている。

「……。子供ですね、すみません……」


「別に。俺はお前のそういうところいいと思ってるしな」


「……?」

「子供らしい潔癖つーのか。俺にゃそういうのねえし」

「……。」

 甘寧の言葉を聞きながら陸遜は黙って頭を撫でられている。

 先ほどの混沌とした気配が消えていく。

 こういうところは全く素直だなぁと、甘寧は感心する。




◇    ◇    ◇



 呉の返書には、直ぐさま魏からも返書が寄越された。



 日時は定まったのである。




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