307号室

その日以来、田中さんは夜に時々あの杖の音を聞くようになりました。毎晩ではなく、何か、用事のある時に病院に来る関係者とか、誰かのお見舞いに来る家族。そんな感じの間隔のあき方でした。


最初は恐怖を感じていた彼女ですが、次第にその音に何か切実さを感じるようになりました。まるで、必死に何かを訴えかけているような…そんな気配がするのです。

ある夜、田中さんは勇気を出して、音が止まった場所に向かって静かに話しかけてみました。

「もしかして、何か伝えたいことがあるんですか?」

すると、杖の音が一度だけ強く鳴りました。まるで「そうだ」と言っているかのように。

田中さんは続けました。「でも、私には音しか聞こえないんです。どうしたら…」

その瞬間、杖の音がせわしなく動き始めました。3階の廊下を行ったり来たり。焦っているような、苛立っているような動きです。

見えない患者さんは、一生懸命に伝えようとしているのでしょう。でも田中さんには杖の音しか聞こえない。声も姿も見えない。

「カツン!カツン!カツン!」

音はどんどん激しくなります。まるで地団駄を踏んでいるかのように。

そして突然、廊下の突き当たりにある307号室の前で、音が止まりました。ドアを叩くような音が三度。

「コン、コン、コン」

田中さんがドアに近づくと、杖の音はまた廊下を戻っていき、また307号室に戻ってきます。何度も、何度も…

「307号室に、何かあるんですか?」

杖の音が一度、強く鳴りました。

でも、307号室には今、別の患者さんが入院しています。一体、見えない患者さんは何を伝えたいのか。先ほどの巡回でこの部屋の患者さんも問題ないことを確認していました。

「ごめん、何もわからないわ」


307号室には、ある美容クリニックが引き起こした薬害の被害者が入院しています。長らくその健康被害で苦しんできて、とうとう数年前に会社も辞めざるをえなくなり、さらに年を追うごとに容体が悪化し寝たきりとなったとのことです。最近になって顔面の腫れがひどくなり、精密検査の結果、薬害の影響が全身に及んでいることが分かって入院することになった患者でした。


カツンカツンと杖の音が続くが、田中さんは音のする方向に一礼して、戻りました。しかし、杖の亡霊がこの患者の苦しみを代弁しているような錯覚を覚え、少し不安な気持ちになりました。


翌朝、夜勤明けの田中さんが帰り支度をして私服に着替えたとき、病棟がにわかにあわただしくなっていました。

307号室の患者さんが、明け方に亡くなったのです。

田中さんは血の気が引きました。あの杖の音は、これを知らせようとしていたのか。でも、どうして?どうやって?


田中さんは意を決して古い記録を調べることにしました。5年前、杖をついていた患者さんについて。そして、307号室との関係を。しかし、どれだけ調べても、その患者さんが307号室に入院していた記録はありませんでした。


見えない患者さんの焦りと諦めきれない想いが、杖の音の一つ一つに込められているようでした。でも、田中さんには音しか聞こえない。その意味が分からない。

二人の間には、越えられない壁があったのです。

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