お義母さん

鞄いっぱいの服がテーブルの上に並び、母親はすっかり上機嫌だった。


 父親も微笑んでいる。


 リビングには笑い声とティーカップの音が混じって、柔らかい空気が流れていた。


 「ほんとに似合うと思うの。恭弥が昔、気に入ってたやつばっかりだもの」

 「母さん、それ俺が気に入ってたからって似合うとは限らないだろ」

 「そう? でも2人とも雰囲気が少し似てるわ」


 そう言われて、蒼は照れくさそうに小さく笑った。

 その笑顔に、母親がさらに頬を緩める。

 「ねえ、蒼くんのご家族も、きっと可愛い蒼くんに色んな服買ってたでしょう?色々プレゼントしたくなるタイプだもんっ!」


 その一言で、空気がほんの少し変わった。


 蒼はカップを両手で包んだまま、目を伏せた。

 「……どうでしょう」

 言葉はやわらかいのに、その声だけが少しだけ重かった。


 「昔は、家に父も母もいましたけど」

 少し間を置いて、息を吐く。

 「怒ってるときしか、声をかけられなかった気がします」


 カップの中の紅茶がかすかに揺れる。

 「でも……それでも家族だったんです。

 だから、こうして皆さんと笑って話してるの、なんか……変な感じします」


 その言葉のあと、誰もすぐには何も言えなかった。

 母親は口を開きかけて止まり、父は手の中のカップを静かに置いた。

 恭弥だけが小さく息を吸い、視線を落とす。


 「……蒼」

 声をかけようとしたが、蒼は小さく首を振った。

 「大丈夫です。今は、ちゃんと笑えるから、恭弥さんのおかげです。」


 その笑みはほんの少しぎこちなかったが、確かにあたたかかった。

 母親は目尻をそっと押さえながら微笑み、

 父も静かに頷いた。



 恭弥は横目で蒼を見て、小さく肩をすくめた。

 「……だから、俺の母さんが泣くんだよ」

 「泣かせたのはあなたの服よ」

 母親が泣き笑いしながら返すと、空気がやっと少し和らいだ。


 沈黙のあとに、紅茶の香りが静かに満ちていく。

 蒼はまだ緊張していたが、もうその顔には怯えはなかった。


 その穏やかな空気を切り開くように、母親がぽん、と膝を叩いた。


 「もうっ!決めたわ!」


 唐突な声に、恭弥が「また始まった」とばかりに眉を寄せる。

 「……何を」


 母親は構わず、にこにこしながら蒼の方へ身を乗り出した。

 「蒼くん、あなた、今まで“怒ってるときにしか話しかけてもらえなかった”って言ってたでしょ?」


 「え、あ……はい」

 蒼が戸惑いながら返事をすると、母親はにっこり笑う。


 「じゃあ、今度は私が“どんなときでも話しかけるお母さん”になる!」

 「え……?」

 「嬉しいときも、悲しいときも、どんな日でもちゃんと話しかけて、ちゃんと愛するの。ね? 蒼くん、私、あなたのお母さんになりたいわ!」


 母親のあまりの勢いに、蒼の頭が真っ白になった。

 「えっ、えっ!? お、お義母さん……!?」

 顔が一気に赤くなり、言葉がつっかえる。


 「お、お義母さんって……そういう……」

 「そういうことよ」

 母親は悪戯っぽくウインクして、隣に座る息子を見た。

 「ねぇ恭弥、蒼くんと結婚しなさいよ!」


 「……は?」

 恭弥が一瞬固まり、目を瞬かせる。

 父は紅茶を吹き出しそうになりながら咳払いをした。


 「母さん……今、何言った?」

 「言葉の通りよ。私、蒼くんの“お母さん”になりたいの」

 「……勘弁してくれ」


 恭弥は頭を押さえ、顔を伏せる。

 耳の先が赤く染まっているのを、蒼は見逃さなかった。

 自分の方も、心臓の音がうるさいほど鳴っている。


 「け、結婚なんて……! そんな、急に……」

 蒼はしどろもどろに言葉を探し、ついにはうつむいてしまう。


 その姿を見た母親が嬉しそうに笑った。

 「ほら、照れてるのがまた可愛いじゃない」

 「母さん、もう黙ってくれ……」

 「だってあなたも照れてるじゃないの」

 「……黙れって」


 そのやり取りに、父が小さく吹き出した。

 「ふたりとも、顔が真っ赤だぞ」


 リビングの空気が、笑いと柔らかさで満ちていく。

 蒼は恥ずかしさで俯きながらも、心の奥では少しだけ、胸が温かくなっていた。


“お義母さんになりたい”なんて言葉、人生で初めて言われた。


 


 帰る時間になっても、母親は玄関から一歩も動こうとしなかった。

 「まだもう少しだけいなさいよ」と笑いながら、蒼の腕をぎゅっと掴んで離さない。

 蒼は困ったように笑い、ちらりと恭弥を見た。


 「……お義母さん、あの、そろそろ……」

 「“お母さん”って言った!」

 母親がぱっと顔を輝かせた。

 「もうそれ聞けただけで、今日一日が幸せだわ!」


 その勢いのまま、蒼を抱きしめる。

 「蒼くん、風邪引かないでね? ちゃんとご飯食べてる?蒼くんまだまだ細いから沢山食べてね!」

 「は、はい……!」

 蒼は完全に押され気味で、どうしていいかわからずに固まっていた。


 横で見ていた恭弥は額に手を当て、ため息をつく。

 「……母さん、もうそのへんで」

 「いいじゃない、息子が二人に増えた気分なんだから!」

 「増えてない。」


 そう言いながらも、母親は全く聞く耳を持たない。

 今度は蒼の頬に手を添えて、まるで本当の母親のように目を細めた。

 「あなた、笑うと目元が少し恭弥に似てるわね。あぁもう、本当に可愛い……」

 「そ、そんな……」

 蒼は頬を真っ赤にして、視線を落とした。


 父親が後ろで小さく笑う。

 「もう諦めたほうがいいぞ、恭弥」

 「わかってる……」

 恭弥は苦笑しながら、蒼の肩を軽く叩いた。

 「……うちの親は一回スイッチ入ると止まらない。我慢してくれ」


 「い、いえ…嬉しいです、安心します……」

 蒼は小さな声でそう言いながら、まだ母親に抱きしめられていた。

 母親はその言葉にさらに感動したようで、もう一度強く抱き寄せた。

 「やだもう、こんな可愛いこと言われたら泣いちゃう!」


 「母さん、そろそろ離せ」

 「もう、あなたも抱きなさいよ」

 「いや、俺はいい」

 「息子同士でハグくらいしなさい!」

 「誰が“息子同士”だよ!」


 そのやり取りに、玄関は一瞬笑いに包まれた。

 蒼は恥ずかしそうに笑いながらも、その温かい空気に少しだけ心を緩めた。


 家族って、こんなふうに人を包み込むものなんだ。


 外に出て車に乗り込んだあとも、恭弥はちらりと蒼を見て呟いた。

 「……母さん、完全に“お義母さん予行練習”してたな」

 「はい……びっくりしました」

 「だろうな、俺もだ」

 そう言いながらも、恭弥の声にはどこか笑いが混じっていた。


 エンジンの音が静かに響く中、蒼はシートベルトを握ったまま小さく笑った。

 「でも……なんか、あったかかったです」

 「……お前、ほんと素直だな」

 恭弥の目尻がわずかに緩んだ。


 夜の街へ走り出す車の中で、二人の胸の中には、同じようなぬくもりが残っていた。

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