早川恭弥の実家

週末の朝、曇り気味の空の下。

車のエンジン音だけが静かな住宅街に響いていた。


ハンドルを握る恭弥は、普段よりも無口だった。

隣の助手席では、蒼が両手を膝の上で組みながら、窓の外を見つめている。


「……あの……恭弥さん、お二人は、本当に僕のこと……怒ってないんですよね?」

蒼の声は、かすかに震えていた。


「怒ってない。むしろ気に入りすぎてる程だ」

恭弥が苦い笑いを漏らした。


「お前が泣いてた日のあと、母さんが“可愛い子だったね”とか言い出してさ。父さんまで“あの子は素直でいい”とか言い出したんだ」


蒼はぽかんと目を丸くする。

「……そんな……」


「おかげで、今度は家に呼びなさいって。……断るとめんどくさいんだ、あの人たち」


言いながら、恭弥はため息をついた。


「だからごめんな。俺も行きたくはないんだ、けど行かないと面倒な事になる」


「い、いえ……恭弥さんが謝ることじゃ……」

蒼は慌てて首を振る。

「ただ……少し怖くて……」


その言葉に、恭弥の横顔が少し和らいだ。

「だろうな…」


車内にはまた静けさが戻る。

ワイパーがフロントガラスをゆっくりと拭う音が、やけに大きく響いていた。


「でも、俺がいる。何か言われても、気にする必要は無い。必ず守る。」

恭弥は視線を前に向けたまま、低く落ち着いた声で言った。


「……はい」

蒼の返事は小さく、けれど確かに届いた。


そのあともしばらく、会話はなかった。

信号待ちのたびに、蒼はそっと深呼吸を繰り返していた。

車窓の外には、どんどん近づいてくる立派な門構えの家々。

その景色だけで、胸の鼓動が速くなる。


「……あの」

「ん?」

「手、少しだけ……握っててもいいですか」


恭弥は視線を前に向けたまま、短く息を吐く。

「運転中はダメだ。危ない」


「……ですよね」

肩をすくめる蒼の声が、少しだけ沈んだ。


それを聞いて、恭弥はふっと片方の口角を上げた。

「ふ、家に着いたら、いくらでも握らせてやる。だから、それまで我慢」


「……はい」

返事は小さかったが、その声には少しだけ安堵が混じっていた。


沈黙が続きそうになった瞬間、恭弥が話を振った。


「大丈夫だ。あの人ら、もうすっかりお前に興味津々だ」

「……プレッシャーかけないでください」

「励ましだよ。」


そんなやりとりをしているうちに、車はいつの間にか街中を抜け、早川家の門が見えてきた。

重厚な鉄の門が静かに開く。

蒼の喉が、無意識にごくりと鳴った。


「……ついたぞ」


車が止まると同時に、屋敷の玄関前にはすでに数人の召使いたちが整列していた。

車のドアが開けられ、冷たい外気が流れ込む。


「おかえりなさいませ、恭弥様」


恭弥は無言で軽く頷き、上着を脱ぐと、それを最初の一人に放るように渡した。

「これ、頼む」

それだけ言って、すぐに歩き出す。


蒼は一瞬、足を止めた。

天井の高い玄関ホール、飾られた絵画、深い青の絨毯、すべてが眩しく感じるほどだった。


「……恭弥さん、ここ……本当に家なんですね」

恭弥が軽く笑って振り返る。

「迷うなよ。廊下、やたら長いから」


そう言いながら、恭弥は慣れた足取りで廊下を進む。

蒼はその少し後ろを、小動物のようにおずおずとついていく。


やがて、重厚なドアの前で恭弥が立ち止まった。

「ここがリビングだ。」


ドアが開かれた瞬間、ふわりと紅茶の香りが広がる。

広いソファの上に座っていた恭弥の両親が、ほぼ同時に顔を上げた。


「まあ!本当に来てくれたのね、蒼くん!」

母親がぱっと笑顔を咲かせる。

その隣で、父親も口元をわずかにほころばせた。


「よく来てくれた。……恭弥が連れてくるとは思わなかったが」


「……おじゃまします」

蒼が小さく頭を下げると、母親が立ち上がり、嬉しそうに手を合わせた。


「そんなに緊張しなくていいのよ。今日はただ、あなたに会いたかっただけなの」


恭弥はその様子を少し離れた場所で見て、静かに肩を落とした。

(……やっぱり、こうなるか)


母の上機嫌な笑みと、父の穏やかな視線。

そのどちらも、かつての冷たさとはまるで別人のようだった。


そして、その真ん中で、蒼はまだ少しだけ緊張したまま立っていた。



「まあ……やっぱり思ってた通りだわ」

母親が頬に手を当てて、蒼をじっと見つめていた。

「蒼くん、すごく整ってる顔してる。ねえ?あなた。」


「ふむ、確かに。骨格が綺麗だ」

父親が紅茶を口にしながら、微笑ましげに頷く。

「あー、母さんの“観察癖”がまた始まった……」

恭弥がぼそりと呟いたが、誰も聞いちゃいない。


母親はすっかり上機嫌で、椅子から立ち上がる。

「そうだわ、ちょっと待ってて。恭弥が若い頃に着てた服、まだ取ってあるの。サイズもそんなに変わらないし、きっと似合うわ!」


「えっ、あの、僕そんな……」

蒼が慌てて手を振る。

「いいのいいの、遠慮しないで!」


母親はまるで可愛いペットに服を着せるかのように、楽しそうに蒼のそばへやって来た。

「はいっカーディガン脱いでごらんなさい」


「え、あ……、や…はい……」

蒼は断り切れず、少し戸惑いながらゆっくりとカーディガンの袖に手をかけた。

柔らかな生地が肩から滑り落ちる。


 その瞬間、母親の動きが止まる。


白いシャツの袖口から、細い手首と古い傷痕が覗いていた。


腕も肩も、服に隠されていた以上に痩せ細っている。


蒼は、空気が変わったのをすぐに察した。

息が詰まり、全身が強張る。

「……あ……っ」

喉が詰まって、声にならない。

視線を落とし、両手で胸元を押さえる。


  (見られた)


その感覚だけが、頭の中で何度も反響した。


母親が何か言いかけた瞬間


「触るな。」


低い声が、部屋の空気を一変させた。


恭弥だった。

いつの間にか立ち上がり、蒼のそばまで来ていた。

ジャケットを脱ぎ、そのまま蒼の肩にすっぽりとかける。

それは蒼の身体には明らかに大きく、まるでそのまま隠すための布のようだった。


「蒼は……そういうの、簡単に見せられるやつじゃない」


母親がはっと息を呑む。


恭弥は蒼の肩を軽く押してソファに座らせ、母親を少し離れた場所へ呼んだ。


「蒼は体のこと、気にしてる。誰かに見られるのも苦手なんだ。……だから、次からはやめてくれ。」


その言葉には怒りではなく、静かな“守る意志”が滲んでいた。


母親はゆっくりと口を押さえたまま、目を潤ませた。

「……ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。怖がらせるつもりなんて、全然なかったのよ」


そして、次の瞬間には蒼の前に膝をついていた。

「本当にごめんなさい、蒼くん」


「や、やめてください……! 僕なんかに頭を下げないで……」

蒼が慌てて両手を振る。


母親は首を横に振って、小さく笑った。

「“僕なんか”じゃないでしょ」

その声は、柔らかく、優しかった。


蒼の目に、じんわりと涙が滲む。

隣で恭弥は、息をつくように静かに呟いた。


「……母さん、そういうとこ、変わんないな」




その日、早川家のリビングに流れていた空気は、前よりもずっと柔らかかった。


 母親はしばらく蒼の前で頭を下げたまま動けなかった。

 けれど、次の瞬間、ふと顔を上げて何かを思いついたようにぱっと立ち上がる。


 「……そうだわ!」


 その声に、恭弥が眉をひそめる。

 「はぁ、嫌な予感しかしない……」


 母親はまるで聞こえていないふりをして、召使いの一人に声をかけた。

 「ちょっと、大きめの鞄を用意して!」


 召使いが慌てて走り去るのを見届けると、母親は勢いよくリビングを出ていった。


 「……母さん、何をする気だ」

 恭弥が小さく呟く。


 数分後。

 ドタドタと足音を立てて戻ってきた母親は、両腕に服の山を抱えていた。


 「はいっ、これ全部!」

 テーブルの上にどさっと置かれたのは、ジャケットやシャツ、ニット、カーディガン……色も素材も様々な“恭弥の服”だった。


 「……え?」

 蒼は目を丸くして固まる。


 「全部、昔恭弥が着てたものなの。今は着てないから、蒼くんにあげるわ!サイズは保証できないけどっ」


 母親は息も切らさずに言い切った。


 「は、はあ!?」

 恭弥が思わず声を上げる。

 「ちょっと待て、俺のだぞ、それ」


 「いいじゃないの。あなたもう着てないし!」


 母親はまるで“善行”を積むような勢いで笑う。


 「それにね、罪滅ぼし!蒼くんを驚かせちゃったから。せめてプレゼントの服を持って帰ってもらわないと!」


 召使いが運んできた大きな大きな鞄がテーブルの横に置かれた。

 母親はそこにどんどん服を詰め込み始める。

 「これも似合うと思うのよね、あっ、それも可愛いかも!」


 蒼は完全に呆然としていた。

 「い、いえっ、そんな、僕なんかが恭弥さんの服なんて……!」


 「“僕なんか”はもう禁止!」

 母親がにこっと笑って言い切る。

 「遠慮しないで、持って帰って。ね?」


 恭弥は頭を押さえ、深くため息をついた。

 「……母さん、俺の服、なんで保管してたんだよ」


 父親が横でくすっと笑う。

 「まあいいじゃないか。服くらい、また買えばいい」


 「そういう問題じゃ……」

 恭弥が何か言いかけたが、もう母親は止まらない。


 「はい、これで完了!」

 大きな鞄いっぱいに服を詰め終え、満足げに手を叩く。

 「ね、蒼くん。よかったら今度、どれが似合うか見せに来て?」


 「……え、えっと……が、頑張ります」

 蒼は顔を真っ赤にして答えるしかなかった。


 恭弥はというと、肩を落としてぼそりと呟く。

 「……俺の服、全部お前に嫁いでったな……」


 その言葉に、父が堪えきれず笑い、母も嬉しそうに微笑んだ。

 その光景に、蒼もつい口元を緩めた。

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