2人の気持ち
静かな午後だった。
一週間前、あの日恭弥から突然告白をされてからずっと答えを出せずに何も言わずに過ごしていた。
食事の時間も、同じ空間も、互いに淡々としていた。ただ、その沈黙がどこか安心するような、不思議な心地よさを持っていた。
けれど蒼の胸の奥には、ずっと小さな疑いが残っていた。
どうしてこの人は、ここまでして僕を置いておくんだろう。
もしかして、あの元彼みたいに……。
頭を振っても、消えないネガティブ思考。
恭弥の優しいようで、どこか相手を抑え込むような発言や口調、それを感じるたび、心臓が強く鳴った。
その日の夕方、蒼は洗濯物を畳みながら、不意に恭弥から距離を取るようにリビングの隅へ動いた。
いつものように視線を合わせない。
会話も、必要最低限。
「……何かあったのか」
あまりにもいつもよりあからさますぎる態度に恭弥も流石に反応せざるおえなくて、恭弥の低い声に、蒼は手を止める。
「い、いえ……別に。何も」
「嘘だな」
その静かな一言に、息が詰まる。
恭弥は立ち上がり、ゆっくりと蒼の方へ歩み寄る。
「俺が何かしたのか?」
「ちがっ……違います! そういうわけじゃ……」
蒼は慌てて首を振るが、目が合わせられない。
沈黙の中で、恭弥の目が少し細められる。
その視線に、心臓が跳ねた。
「……まさか、俺が“そういう目的”でお前を置いてると思ったのか」
全てを見透かしたような目、低く、静かな声。
怒鳴るわけでもなく、ただ鋭く突き刺さる。
蒼は、息を呑んだ。
何も言えない沈黙が答えになってしまう。
恭弥の顎がわずかに動く。
その目には、怒りよりも深い失望のような色が宿っていた。
「……勝手に怯えるのは構わないが、それ相応の事をした、けど俺をその程度で見るな。」
蒼はびくりと肩を震わせた。
「ち、違うんです……ただ、僕、前に……」
「過去の男と一緒にするな」
その一言に、蒼の喉が詰まった。
恭弥の声は低く抑えられているのに、胸に響く。
「俺は、お前を抱きたくてここに置いてるわけじゃない。……言っただろ、一目惚れしただけだ。お前が怖がってるのも、ちゃんと知ってる、それもどうにかしようとしてる。」
言葉の最後だけ、少しだけ息が揺れた。
怒りでも苛立ちでもない。
それは、抑えきれない本心の滲みだった。
蒼は、唇を噛んで俯く。
呼吸が浅くなって、何も言えなかった。
「……俺は答えを急がないと言った。だが、」
恭弥はまた少しだけ近づく。
「誤解されたまま黙っていられるほど、優しくもない。」
その距離の近さに、蒼は一歩後ずさった。
けれど恭弥は、それ以上追わなかった。
ただ静かに、目を逸らし、短く言う。
「……もういい。今日はもう、寝る」
それだけを残して、恭弥は寝室の方へ歩いていく。
扉が閉まる音のあと、リビングに残った蒼の耳には、自分の鼓動だけが響いていた、そのまま置いていかれないように少しだけ走って閉まったドアに向かう。
朝の光が、いつもより冷たく感じた。
蒼はほとんど眠れなかった。
夜のあの声が耳の奥で何度も反響して、目を閉じても消えなかった。
「誤解されたまま黙っていられるほど、優しくもない。」
ただの言葉なのに、鋭く胸を刺した。
怒っているのか、呆れているのか、それすらも分からない。
隣で寝ていた男の姿は無く、蒼は探すように部屋を出ておそるおそるキッチンの方へ目を向けた。
恭弥はもう起きていた。
白いシャツの袖を軽くまくり、コーヒーを淹れている。
その背中に声をかける勇気が出なくて、
蒼は小さく息を殺したまま、そっと視線を逸らした。
(怒ってる……きっと。)
何をしても怒られそうで、何をしてもしらけそうで。
恭弥に見つからないように足音を消して通り過ぎようとする。
だが、背後から低い声が落ちた。
「……朝食、食べるか。」
その瞬間、肩が跳ねた。
「ひ、い、いえ……あの……後で大丈夫です」
小さく首を振る蒼に、恭弥は視線を動かさないままコーヒーを一口飲む。
声の調子はいつもと変わらない。
怒鳴るでも、冷たくするでもなく、ただ淡々と。
それが逆に怖かった。
蒼は俯いたまま、
「昨日は……すみませんでした」と小さく言った。
恭弥はカップを置き、少しだけ眉を動かす。そしてようやく振り返って、
「何に対して謝ってる?」
「……わ、わかりません。ただ……怒らせた気がして……」
その言葉に、恭弥は小さく息を吐いた。
呆れたようで、けれどどこか苦笑に近い。
「怒ってない。……お前の勘違いが、少し悔しかっただけだ。」
蒼はゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
その瞳は冷たくなんかなくて、
ただ、静かに何かを我慢しているように見えた。
「……悔しい?」
「そうだ。俺が本気で言ったことを、冗談みたいに受け取られたような気がしてな。」
淡々とした口調なのに、
その一言が、蒼の胸に深く落ちた。ちょっと当たってる。
「そんなつもりじゃ……」
「そうか」
恭弥が短く遮る。
「でも、俺のあの伝え方は下手だった。」
静かに言って、もう一度コーヒーを口に運ぶ。
その姿に、蒼は言葉を失った。
あの人は怒ってなどいなかった。
ただ、誤解されたことが悲しかっただけ。
そう気づいた途端、胸の奥がぎゅっと痛くなった。
「……僕、怖かったんです」
蒼は小さな声で、やっと言葉を紡ぐ。
「誰かに優しくされると、何か裏がある気がして。だから、信じるのが下手で……」
恭弥はしばらく何も言わず、
ただそのまま蒼を見つめていた。
そして、短く言った。
「信じなくていい。無理にしなくてもいい」
「……え?」
「ただ、俺はもう一度言う。俺は蒼が好きだ。」
その声にはもう、怒りも苛立ちもなかった。
ただ静かで、確かな温度があった。
蒼は何も言えずに、唇を噛む。
胸の奥の警戒と不安が、少しずつ溶けていくような感覚。
きっとこの人は、優しいふりなんかじゃない。
ただ、不器用なだけなんだ。
そう思った瞬間、蒼の目の端が少し滲んだ。
怖くて、戸惑って、だけど……どこか安心した自分に気づく。
彼の視線は変わらず静かで、でも真剣で、自分だけに向けられている。
胸がじんわり熱くなり、心臓が少し早くなる。
「……本当に……本気なんだ」
小さく呟いた自分の声に、蒼は驚く。
まさか、こんな感情が芽生えているとは思わなかった。自分が、少しずつ、恭弥のことを好きになりかけていることを認めざるを得ない。
しかし、まだ怖さは残っていた。
過去の経験から、心を許すことが怖い。
けれど、彼の落ち着いた態度や誠実さに触れるたび、その恐怖は少しずつ薄れていった。
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