2人の朝
朝の光が、薄いカーテン越しにゆっくりと差し込んでいた。
男はぼんやりと目を開け、無意識に隣へ視線を向ける。
そこに、蒼はいなかった。
掛け布団は整えられ、枕も静かに形を保っている。
男は眉を寄せ、上体を起こした。
まだ早朝。部屋は静かで、時計の秒針の音だけが響く。
だが、その沈黙を破るように
ふわりと漂ってきたのは、焼けたパンの良い香りだった。
男は無言のまま立ち上がり、寝癖を手で雑に整えながら寝室を出る。
廊下を抜けてリビングを曲がると、キッチンに小さな背中が見えた。
エプロンもない、蒼からしたら長い袖をまくった大きすぎるシャツ姿の蒼が。
丁寧にフライパンを扱っている。
「……何してる」
自分でも驚くほど低く響いた声に、蒼は肩を跳ねさせて振り向いた。
「あっ……あの、お、おはようございます。えっと……あ…朝ごはんを……」
フライパンの持ち手を強く握りしめたまま、
視線を泳がせて男の顔を見られずにいる。
テーブルには、簡単な朝食が並んでいた。
男は無言で椅子に座り、料理を眺める。
「……勝手にキッチンと食材使ってすみません」と小声で言った蒼に、
「別に構わない」とだけ短く返す。
ふたりの間に流れるのは、パンとバターの良い香りと、少しの沈黙。
蒼はおそるおそる顔を上げ、
「その……あなた、お名前って…」と尋ねた。
男は食べる手を止め、少しだけ目線を動かす。
(そういえば教えてなかったな。)
「早川 恭弥。」
「……早川さん。」
蒼はその名前を静かに繰り返す。
そして、もう一歩だけ踏み込んだ。
「あの……早川さんは、お仕事……何されてるんですか?」
恭弥はわずかに表情を歪ませ、
「知ってどうする」
「あ、ごめんなさい……」
それ以上、仕事に関する会話はなかった。
蒼はそれ以上聞けず、曖昧に笑って小さくパンをかじる。
ひと息ついたあと、蒼は顔を上げて
小さく息を吸い込んだ。
「あの……お世話になりました。昼には出ます。
泊めてくださって、ありがとうございました。」
その言葉に、恭弥は眉をひそめる。
「服も何もないのに、どこへ行く……外に行ってどうする。」
「いえ……その、なんとか……」
蒼が焦って言葉を探すと、恭弥の低い声が重なった。
「用意できるまで居ていい。」
短く、拒否を許さない声音だった。
だが蒼は首を振る。
「そんな、ご迷惑ですし……」
恭弥はわずかにため息をつき、
そのまま淡々とした調子で言った。
「現に今、下着も履いてないだろ。」
蒼は固まった。顔がみるみる赤くなる。
「それに、昨日のお前の服は洗いに出した。」
「……っ!」
蒼は口を開きかけて、何も言えずに視線を落とした。
耳まで赤く染まり、膝の上で手をぎゅっと握る。
恭弥はそんな様子を見ながら、
わずかに首を傾げ、無表情のまま小さく言った。
「落ち着け。別に変な意味は無い。」
それでも、蒼の心臓の鼓動はしばらく落ち着かなかった。
恭弥は午前を少し過ぎたころ、静かに家を出た。
何もどこに行くかも伝えずに、ただ「すぐ戻る」とだけ残して。
蒼はキッチンで食器を洗いながら恭弥の帰りを待つ。
見知らぬ家の空気は静かで、時計の音ばかりがやけに響く。
出ていけないことも、出て行かない自分も、もう分かっていた。そんな生活は慣れてる。
玄関の鍵が開く音がして、蒼ははっと顔を上げた。
恭弥が手にいくつもの紙袋を提げて戻ってくる。
「……服と、下着だ」
そう言って、ソファの上に紙袋を置く。
中には新品の柔らかそうなラフなシャツや、ゆったりしたパンツ、
そして小さくたたまれた下着類。
蒼は恐縮して両手を胸の前で合わせた。
「すみません、こんなに……お金は…」
蒼は無一文で外に残されてたのを思い出して困った顔をする。恭弥はそんな蒼を見て軽く首を振る。
「お前の分だ。気にするな」
蒼は一つずつ袋をのぞいていくが──
出てくるのは全部、家で過ごすような楽な服ばかり。
薄手のスウェットに半ズボン、外に出るにはどれもラフすぎる。
「あの……これ、全部部屋着ですか?」
恭弥は淡々と答える。
「他に必要なものがあるなら言え」
「い、いえ……その、外に出られるような服が……」
一瞬だけ恭弥の目が動く。
無表情のまま、低く短く言う。
「悪い、忘れてた」
その声に、蒼の肩がぴくりと跳ねた。
胸の奥に小さく刺さるような沈黙。
絶対に嘘なことは分かってるけど恭弥の意図を読めず、ただ両手をぎゅっと握る。
「……い、いえ……」
蒼は小さく首を横に振った。
恭弥は視線を外し、持っていた袋の残りをテーブルに置いた。
蒼はその置かれた袋を覗いて「ありがとうございます」と笑ってみせた。
その笑顔を見た瞬間、恭弥の胸の奥で何かが弾けた。
気づけば、彼は蒼の方へ、ゆっくりと歩き出していた。
「……なぁ、蒼」
初めて彼からちゃんと呼ばれた
「え?」
恭弥は短く息を吐き、目を逸らさずに言った。
「出ていくな。ここにいろ」
「……え?、でも」
「付き合ってほしい」
その言葉は、低く、けれど迷いがなかった。
命令でもなく、懇願でもなく、ただ“本音”だった。
蒼は固まって、瞬きも忘れる。
恭弥の瞳には、初めて見る熱が宿っている。
「一目惚れだ、路地裏で見つけてからずっと好きだ。」
息が詰まるような沈黙。
蒼は胸の奥をぎゅっと押さえながら、小さく声を震わせた。いきなりすぎる告白に戸惑いが隠せない。
「……な、なんで……一目惚れって……」
恭弥は少しだけ目を細め、静かに答える。
「理由なんて、もう考えてもわからない。……ただ、そう思った」
蒼の視線が揺れ、頬がゆっくりと赤く染まっていく。目の前にいる訳の分からない男に対して恐怖しながらも蒼はさっきの言葉が冗談であったと願うように
「……い、いきなり……そんな!」
恭弥は静かに答えを待つ
その目には迷いのようなものが混ざっていた。
けれど、そこに迷いはあっても、冗談の影はない。
蒼は視線を落としたまま、小さく言う。
「…ほんとに急に言われても、困りますよ、ぼ、僕…あなたのこと、名前以外……何も知らないですし……」
すると恭弥は小さく頷いた。
「そうだな。じゃあ教える」
「早川恭弥、27、身長187、体重84kg」
「えっ?」
「靴のサイズは28.0、指の長さは左右で微妙に違う、ほくろは背中に1つ左ももに1つある」
「ちょっ!」
「睡眠時間は平均6時間半だが、体調によって前後する、俺は疲れると肩に張りが出て背中も硬くなる」
「あのっ!も、もういいので…」
突然の情報量に蒼は戸惑いを隠せずに恭弥の口の前に手を出してストップのポーズをとる、ようやく恭弥が口を止めて、
「……これでだいたい、俺のことはわかったな。付き合えそうか?」
蒼は顔を真っ赤にして大きなくりくりした目を見開いて心臓の音が耳まで響くのを感じながら自分から絶対に目を離さない恭弥に「この人は本気だ」と「これはもう冗談じゃない」とはっきりと理解した。そして俯いて固まってしまった蒼を見て恭弥が声を落として
「怖がらせるつもりじゃなかった。ただ、伝えたかっただけだ」
と言ってそのまま部屋を去っていく、その広い背中にはまるで蒼に考える時間をあげるように、蒼の気持ちを尊重する優しさが滲んでいた。
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