不器用な男
蒼は促されるまま、男に案内された部屋の前で一度立ち止まった。
重たい扉を開けると、そこにはまるで雑誌から切り取ったような空間が広がっていた。
整然とした家具。無駄のない配置。
ガラスのテーブルや黒を基調としたベッドフレームが、夜の静けさを映している。
そして、ほのかに漂う香り──それは香水でも柔軟剤でもない、あの男自身の匂いだった。
落ち着いたウッディ調の香りに、蒼の胸の鼓動が少しだけ早まる。
(こんな部屋で……寝るのか)
床もベッドも、どこにも乱れがない。
そこに自分の足音を落とすのが恐ろしくて、申し訳程度に靴下についたゴミをはたいて、静かにベッドの端に腰を下ろした。
思っていた以上に柔らかい。沈み込む感触に、体の緊張が少しだけ緩む。
けれど、落ち着かない。
寝返りを打つたびに広すぎる空間が、やけに冷たく感じた。
天井を見上げても、誰の声も響かない。
(……あの人来ないな)
さっきまでの流れからすれば、同じ部屋にいるのが自然だと思っていた。
それなのに、時間だけが過ぎていく。
時計の針が小さく鳴るたび、不安が増す。
やがて、耐えきれなくなった蒼はそっとベッドを降りた。
足音を殺して廊下を抜け、リビングへ向かう。
その先に見えたのは、ソファの前でブランケットを手にしている男の姿だった。
「……あの」
蒼が声をかけると、男は振り返りもせず、「どうした」と短く返す。
蒼は少し戸惑いながら言葉を探す。
「……そっちで、寝るんですか?」
問いかけた瞬間、自分の声がやけに小さく響いた。
男は動きを止め、ほんの一瞬だけ蒼に視線を向けた。
その眼差しには、感情の色がほとんどなかった。
けれど、なぜかその無表情の奥に、蒼は妙な優しさを感じ取ってしまう。
男は、ソファに枕と毛布を広げながら淡々と答えた。
「お前が落ち着けないだろ。ここで寝る」
その声音には、命令のような冷たさと、どこか蒼を気遣う微かな温度が混じっていた。
けれど蒼には、その境界がうまく掴めなかった。
「……でも」
言葉が、唇の先で溶けた。
男は動きを止めず、ブランケットの端を整えながら視線を蒼から外した。
そこには「もうこれ以上話すな」と言わんばかりの圧があった。
蒼は小さく息を飲み、そのまま黙って立ち尽くす。
リビングの明かりが、男の肩を薄く照らしていた。
無表情な横顔の下に、何を考えているのか──それはやっぱり読めない。
男は、ソファに毛布を広げていた手を途中で止めた。蒼がずっとそこに居たからだ。
足音も声もない、けどそこに“いる”のがわかっていた。
男はしばらく無視をしていたがしばらく無言で立ち尽くしたまま考えたように肩を落とし、やがて諦めたように息を吐き「わかった」とだけ言ってそのまま用意していたブランケットを面倒そうに畳んだ。
「……ったく」
ぼそりと呟いて、ソファから離れる。
重い足取りで蒼を横切ってリビングを出ていくその背中に、蒼は思わず目を丸くした。
「え……?」
男は何も言わず、自分の寝室のドアを静かに押し開ける。
空気がわずかに揺れた。
「怯えるなよ」
その声は低く、冷静で、けれど少しだけ疲れていた。蒼が自信なさげに小さく肩をすくめるのを見て、男は軽く息を吐く。
「お前がそうやって不安そうに見てくると、落ち着かない」
それ以上言葉を続けず、ベッドの端に腰を下ろす。
シーツが沈む音がして、蒼は反射的に体を強張らせた。
「……寝るだけだ」
短くそう言い切ると、蒼を隣に呼んでそのまま男は枕元のライトを落とした。
薄闇の中、あの男の気配だけがすぐ隣にある。
鼓動がうるさいほど近くで鳴って、蒼は胸の奥が落ち着かなくなる。
それでも、どこかで安堵している自分に気づき、そっと目を閉じた。
静かな呼吸が二つ、暗い部屋に落ちていった
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