知らない家の中

玄関のドアが閉まると、空気は一気に静かになった。夜の風が入っていた外のざわめきはもうなく、代わりに暖かい室内の空気だけが残る。蒼は玄関で小さく立ち尽くしていた。全身から力が抜けたまま、体を動かすのも億劫に感じていた。


男はそのまま足を止め、改めて蒼の顔を見た。

大きな瞳に、ほんのり青が混ざった透明感。

綺麗な二重の幅に長く綺麗なまつ毛。

ツンと上がった小さな鼻が柔らかい光を受けていて少しだけ鼻先に赤い血が僅かに滲んでいる。

サラサラの前髪は少しだけ目にかかって、

小さな口元には、切れた唇の痕と微かに残る血がある。


「……もったいない」


小さく呟いた。あまりに綺麗な顔立ちをしているのに、頬には大きなガーゼ、反対の頬には生傷がある。手を加えずに放っておくには惜しいと思った。



男は静かに足を動かし、廊下の先の救急箱が置かれた部屋に向かう。必要なものを取り出し、リビングから玄関に立ち尽くしている蒼に向かって低く呼ぶ。


「来い」


命令口調の冷たい声に震えながらも蒼は声に従い、ゆっくりと足を運ぶ。ソファを指さされソファに向かって腰を下ろすと、男はそっと隣に座り、手元の救急箱を開く。そして蒼の傷のある顔に触れそうなくらいの距離まで手を近づけて指さして、


「ここ、触れる」


頬に残った大きなガーゼを外し、傷口を丁寧に確認する。赤く腫れた部分を消毒し、新しい清潔なガーゼを貼り直す。反対側の頬の生傷も同様に処置し、今度は綺麗な絆創膏を貼って上から傷を労るように少しだけ指先で撫でる。

腕の小さな擦り傷や爪跡も一つずつ手当てしていく。


鼻の先に残った血は、冷たい濡れティッシュでそっと拭う。鼻先に突然冷たい感触がして蒼が少しだけ驚いた顔をする。

切れた唇には軟膏を少量塗り、軽く押さえて血を落ち着かせる。

手当の最中、蒼は視線を下に落とし、男の手の動きをなにかされた時にすぐに動けるように警戒して見つめる。警戒心はまだ完全には消えないが、路地裏での恐怖と比べれば、この静かな行為にどこか安心感を覚えていた。


手当がある程度落ち着くと、男は顔を上げ、蒼の目を覗き込む。


「……腹は減ってないか?」


その声に、蒼は一瞬答えに迷った。まだ怖さは残っている。けれど、体も心も少しだけ落ち着いているのを感じ、静かに小さく頷いた。



男は無言で立ち上がり、キッチンへ向かう。


大げさに料理をするわけではない。昨日の残りの食事を温め直し、簡単なサラダを皿に盛る。ご飯は炊き立てではなく、冷蔵庫にあった分をレンジで温めるだけだ。それでも、蒼が安心して口にできる状態に整える手つきは丁寧で、無駄がない。


数分後、男はリビングに戻り、蒼の前にトレイを差し出す。そこには温め直したご飯、味噌汁、少し冷めたおかずが整然と並んでいた。


「……これで足りるだろ」


蒼はしばらく見つめたあと、小さく頷き、手を伸ばしてトレイを受け取る。まだ警戒心は完全に消えていないが、無表情で手渡す男の姿に、どこか安心している自分を感じていた。


男は蒼を横目でちらりと見やりながら、自分の部屋に向かって樟をリビング置いて歩き出す。

二人の間には言葉はほとんどないが、静かな温もりだけが部屋を満たしていた。


蒼はソファに腰を下ろし、男が差し出したトレイの料理を膝の上に置く。華奢な指先で箸を握り、はふはふと息を吐きながら料理を口に運ぶ。

蒼の指先はぎこちなく動き、ちいさな口元にご飯粒をつけながらも、一生懸命に口に運ぶ。


その間、男は静かにクローゼットへ向かう。蒼を風呂に入れるためだ。

「……服は、これでいいか」

短く呟きながら、自分のクローゼットから、蒼が着られそうなかろうじてサイズが近いだろうシンプルなシャツとパンツを選ぶ。無造作に手に取る


戻ると、蒼はまだソファで一生懸命料理を口に運んでいる。男は一瞬微かに視線を落とし、はふはふと食べる小さな背中と手元を静かに観察した。言葉はなくても、二人の間には温かい空気が流れていた。


「終わったら、風呂に入れ」

そうだけ告げ、男は選んだ服を手に、蒼の様子をちらりと確認しながら控えめに待つ。蒼はまだ警戒しつつも、少しずつ安心を取り戻していくのがわかる。


蒼は食器を片付けるためにキッチンへと向かうとキッチンにたどり着くたまえに男がそのままトレイを受け取り、手がからになった蒼は男が差し出す服を受け取った。シャツにズボン、靴下___


「タオルは……もう、洗面所に置いてある」

低く淡々とした声で男が教えてくれる。蒼は軽くうなずくが頭の中で用意されてない替えの下着を心配する、下着のこと……どうすればいいか分からない。恥ずかしさと緊張で、口に出す勇気はなかった。ほんの少し俯きながら、風呂場へ向かう。


家の中を歩くたび、蒼の胸は高鳴る。ここは想像していたよりずっと広く、静かで、空気が違う。ドアを開けた瞬間、息を飲む。


目の前に広がるのは、家から想像していたもののの、想像より何倍も大きな浴室。普通の家より高い天井に広いバスタブには十分すぎる水量が満たされている。


蒼は思わず体を縮めた。

「……す、すごい……」

小さく、声にならない声を漏らす。


手にした男から借りた大きな服を洗面所に置き、服を脱ぎそろそろと浴室に入る。大きな浴槽の存在感に圧倒されながらも、足元を確かめるように一歩ずつ進む。体の緊張が少しずつ溶けていくのを感じながら、浴槽へと近づいた。




蒼は風呂上がりの体にシャツを通した。

肩の片方がずり落ち、細く華奢な肩がちらりと見える。ズボンも大きく、腰の位置まで引き上げてもすぐにずるりと滑り落ちるため、蒼は両手で必死に握りしめていた。


ゆるゆるしたズボンを手で握りしめながら拙く男のいるリビングまで歩いていき、声をかける


「……あの……やっぱり……」

声が小さく、少し焦った響き。蒼は俯きながら、必死に両手でズボンを支える。


男はそんな蒼を無言で見下ろす。無表情のままだが、心の奥で「やばいな……」と思わず呟いた。


肩が片方見えているシャツ、ズボンの端を手で握りしめていて少しゆったりとしたズボンが腰を隠しきれずに肌を少しだけ覗かせる、小さな体も、全てが危なっかしく、放っておけない。体は小さく、力も弱そうで………思わず目線が下の方に行きズボンの隙間を除けば下着を履いていなくてハッとした。


このまま放っておけば過ごしているうちにズボンは落ちるだろうし、転んだら……と自然に想像が膨らむ。


「サイズが合うのは、この家にはない。とりあえず応急処置をして、今から用意する。」


男の声は低く淡々としているが、そこには迷いがない。


「そ、それは……いいです……」

俯き、震える声で答える蒼。男に手間をかけさせるのは申し訳なく、心の奥で拒む気持ちもある。


だが、男は蒼の言葉を軽くも受け流す。静かに、確実に告げた。

「下着もないんだろ。買わないとダメだ」


その瞬間、蒼は背筋にぞくりと冷たいものが走った。

無表情の男に、体の隅々まで見透かされている気がする。

――自分の弱さも、恥ずかしさも、何もかも。


反論する力は自然と消え、言葉は喉に詰まった。

ただ黙って小さく息を飲み、男の沈黙と視線に従うしかない。

怖い。けれど、逃げることはできない──それを蒼自身が一番よくわかっていた。


男は蒼の沈黙を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。

「……怖がるな」

低く、静かな声だった。けれどその響きには、逃げ道を許さない重みがあった。


蒼は小さく肩を揺らしながらも、顔を上げられずにいる。

男は無言のまま手を伸ばし、ソファの横に置いてあった細いベルトを取った。

蒼がびくりと体を硬くするのを横目で見ながら、言葉少なに言う。

「動くな。応急処置だ」


腰に回されたベルトが、少しだけズボンを締めた。男の手付きは冷静で、無駄がない。けれどその近さと静けさが、蒼には息苦しかった。

ベルトの音が「カチ」と鳴り、男は一歩離れる。


「これで、落ちはしないだろ」

そう言ってようやく視線を外した。


蒼は小さく頷く。まだ体の奥に残る緊張をどうすればいいのか分からない。


男は部屋の時計を見やり、低く告げた。

「夜も遅い。今日はもう休め」

蒼が顔を上げると、男は背を向けたまま続ける。

「俺の部屋を使え。ベッドはひとつしかないが…ソファで寝るよりはマシだろう」


思考が追いつかない。

「……そんな、僕なんかが……」

戸惑いが口をつくが、男は短く切った。

「いい。今は余計なことを考えるな」


その声音には拒絶の余地がなかった。

蒼はただ、小さく「……はい」と頷くしかなかった。


リビングに静寂が降りる。

重たい沈黙の中、蒼は胸の奥にまだ残るざらついた恐怖を抱えたまま、男に促されるように彼の部屋へと足を運んだ。

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