3-9
樹は途端に俯いてしまった。何か嫌なことを言ってしまったのだろうか。耳の赤らみを見ていなかった朗義はいらぬ不安を少し感じていた。
「城戸さん」ふと、真智が声をかけてきた。「書類の記入終わりましたので、こちらに」
「ああ、はい。どうもありがとうございます。確認させていただきますね」
渡された二枚の書類を確認する。
真智の字は、気品を感じさせた。
朗義が辰良に師事して得たのは技術だけではない。依頼者との打ち合わせに同席しては、その人となりや性格、立ち振る舞いを多く見てきた。そして文字というのはその人間性を大きく映し出す。
その上で朗義が今不思議に思っているのは、真智の字からは一片の悪意も感じられないということだ。朗義や樹に対しての苛立ちも失意も感じない。あるとすれば、諦めのような感情である。決められたコースをなぞったような、無機質な字であった。
朗義は、真智という人間に少し踏み込んでみることにした。
「真智さま、失礼ですがお仕事は何を? とても綺麗に字を書かれているので」
「銀行で役席に就いておりました。樹が病気になった折に退職して専業主婦に」
役席と言えば幅広いが、おそらくは部長か支店長だろう。真智のまとうオーラのようなものが、そう告げているような気がした。
女性で管理職、それも銀行という職場を考えれば途方もない努力をしてきたことは想像に難くない。激務の中、おそらくは旦那と共働きで娘二人の世話をするというのは──。
ふと、気がついた。この家庭には、旦那の影が見当たらない。
「旦那さまはどのようなお仕事を? こんな豪邸ですから、さぞお忙しい──」
朗義の目の端で、樹が動きを止めたのを見て、口を噤んだ。
「今は家におりませんの。出て行ってしまいまして」
しまった。
「……失礼いたしました。関係のないことを」
「いえ。お気になさらないで」
そこから数分、会話はなかった。先ほどまでの樹の喜びようはどこかに消え、真智は素知らぬ顔で紅茶を淹れている。朗義はといえば、どこにも問題のない書類を何度も読み返して、耐え難い時間を過ごしていた。
「城戸さん」沈黙を破ったのは樹であった。ダイニングテーブルから離れた姿鏡の前で、手招きをしている。
「どうかしましたか」
朗義が近くによっても、樹は手招きをやめない。首を傾げていた朗義だったが、何となく耳を貸して欲しいのだと解釈をして、その距離を縮めた。
樹は小声で、
「お母さんがすみません、怒ってる訳じゃないので」
不意の耳打ちに、電流が走る。叫び出しそうな喉を、間一髪でせき止めた。飲み込んだ生唾の音は、聞こえてしまっただろうなと朗義は思った。
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