薫り
部活終わりの放課後、ロッカーに戻っ俺は、高校の校章がでかでかとプリントアウトされているダサい体操着を脱ぎ捨てる。まだ5月だと言うのに湿った生ぬるい空気が肌にまとわりつき、ベタベタと不快だ。
「あちー、俺制汗シート忘れた」
「おれ、去年のあるわ、使う?」後ろでケラケラと笑い声が聞こえる。
「なぁ、俺にもくれよ」俺が振り向いてそう言うと、制汗シートの持ち主の岡田は一瞬嫌そうに顔をしかめたが、
「なんだよ、西嶋、おめーもかよ。しゃーねーな、こんどジュースおごりな」そう言って気前よく、シートを取り出す。
「さんきゅー、...つかこれほとんど乾いてんじゃん」長い間放置されていたシートはその水分をほとんど失い、乾燥していた。
「文句言うなよ、ないよりマシだろ?」岡田はそう言って笑い、ガシガシと首をシートで拭きはじめた。俺もそのミントの匂いが辛うじてするシートで汗を拭う。部室の男臭い汗の匂いがミントの香りで多少ましになる。
「西嶋またなー」先に着替えた岡田達がカバンを乱雑に抱え出ていく。荒々しく開かれたドアの向こうにふと細身の影があることに気づいた。岡田たちと入れ替わるように入ってきたその人物は俺の存在に気づき小さく頭を下げた。横を通り過ぎる時ふと香る清潔で清浄な石鹸の薫り。その人物、和泉京は先程の岡田達とは比べ物にならないくらい静かにテキパキと着替え始めた。俺達と同じ練習をしていたはずだがその顔には汗ひとつ浮かんでいない。ふと和泉が体操服のシャツに手をかける。光に照らされた白い肌が薄く発光しているような錯覚を覚える。ぞわりとなにかが肌を這い上がるような感じがして思わず息を飲んだ。その事を気取られないように止めていた手を動かす。隣を気にしてのろのろと着替えている俺をよそに和泉はもう着替え終わったようだった。その完璧に整えられたブレザーのえりを鏡で一度確認し、ロッカーの鍵を閉める。そして、また俺に向かって一礼し、颯爽と通り過ぎた時だった。ふわりと、さっきの石鹸の匂いとは明らかに変わった薫りがした。どこかで嗅いだ記憶のある薫り。俺の中の記憶と、その正体が結びつく。
部活の後輩からタバコの臭いがした。優等生を地で行くようなこいつから。
「なんか、お前...タバコ臭くね?」
俺の突然の問いかけに和泉はこちらを振り返った。しかし、その表情はなんの感情も悟らせない。そして、ふと何かを隠すように視線を逸らす。
「...あぁ、そういえば、昼休みに化学準備室に行ったんです。森先生がタバコを吸われていて、その時にブレザーに、臭いがついたのかもしれないです」
なんでもないようにそう言って、そして彼はまた前を向きドアに向かおうとする。その背中に向けて急いで声をかける。
「あぁ!なるほど。てかやっぱ森セン、タバコ吸ってたんだな、学校で。女子が化学準備室が煙草臭いって騒いでたんだよ」
あの不真面目教師。どこかで隠れて吸ってるんだろうとは予想はしていたが、なるほど、あんな北舎の奥まったところにある場所、絶好の喫煙スポットだろう。
「...そんなに、においましたか?」
ふと、ポツリと呟くような小さな声で和泉がそう言った。
「え、あ、いや今通った時に一瞬。ここ来た時は気づかんかったわ」
俺の言葉に和泉は一瞬考えるような間を置いた。
しかしすぐに、それならよかったです、とまた感情を悟らせない平坦な声で言った。
「にしても、森セン、タバコ吸うとか顔に似合わずギャップ萌えーとかなんとか女子はさわいでるけどさ、職場ですら我慢できないなんて相当なニコチン中毒やろうだよな?」
そう言って笑いながら和泉の顔を見ると思いがけず静かで凪いだ横顔を見てしまい、思わず面食らう。
「...でも、タバコを吸っている人って少しかっこいい感じがしませんか?」
和泉のその言葉に一瞬、自分の顔から表情が抜け落ちた感覚がした。和泉はそういう不真面目なことを嫌うと思っていたからだ。
「へー意外。なに?吸うつもりあんの?」
俺の言葉に和泉は背中を向け答える。
「いえ、吸わないと思います。... 合わなかったので」
...なんだよ、そのいかにも試したことのある口振。どこまでも静かで、淡々とした口調にすっと腹の底が冷える。
「おい、お前...」
「お先に失礼します。」
立ち去る彼からまたふわりとタバコの匂いがした。
着崩すことも無く完璧に着た制服で去る彼の、しかしタバコの匂いが濃くついたブレザーだけがアンバランスだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます