1-3 父と子
天を轟かさんばかりの大歓声を遠くに聞きながら、神界長執務室へと続く長い廊下を、一人の少年が息を切らせながら走っていた。
衛兵に就いている者以外の誰もが、第三隊の凱旋にいても立ってもいられなくなったらしく、廊下はほぼ無人であった。白い柱の間に所々立ち、そわそわと落ち着きのない衛兵たちの中を、少年の足音が無機質に響く。
紅蓮の髪。長いそれを一本の三つ編みにして背に垂らし、走る度に揺れている。興奮に上気した顔は幼く、見た限りでは十にも届いていないだろう。だがその銀の瞳に輝く光は英明で、まるで少年が成人、あるいはそれ以上であるかのように思わせる。
わあああ、わあああ……
遠くに聞こえる歓声が少年を急がせた。身に纏っているのは神界長の親族にのみ許された、銀糸の縫い取りをしたものだ。だが走るのには邪魔にしかならず、少年は苛々と裾を掴んで走っていた。それでも歓喜は隠しきれず、あどけない顔には自然と笑みが洩れる。
ようやく辿り着いた扉を、少年は破らんばかりの勢いで開けた。
「父上!」
威勢のいい声に、書物に視線を落としていた男が顔を上げた。肩を上下させ、上気して嬉しそうな顔で扉の前に立っている少年を見て、ふと微笑む。
「ハミルカル。どうした、騒々しい」
やはり紅蓮の髪に銀の瞳の、目も醒めるような美丈夫であった。手にしていた書物にしおりを挟んで机の上に置き、音もなく立ち上がる。すらりとした長身は、黒いコートの上からでも分かるほど鍛えられ、引き締まっている。
「ディアネイラが凱旋いたしました!」
「そのようだな、歓声が聞こえる」
銀の瞳が扉の向こうへと向けられる。歓声はほんの僅かしか聞こえないが、それでもその熱気を伝えるには十分だ。
「そうか。ディアネイラが帰ったか」
「早く参りましょう!」
少年は焦れたように男へと駆け寄った。男は分かった分かったと苦笑いし、はだけていたコートの襟を閉じる。少年の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやってから、ついとその横を通り抜け、颯爽と歩き出した。
男の背中を視線で追いかけて、少年の顔は見る見るうちに怒気に染まる。
「父上! 余は子供ではありませぬ!」
「では子供のように駆け回るでない」
にやにやと笑われ、少年は反論の行き場を失って唇をわななかせたが、それでも男の後について歩き出した。
この男こそ、第475代、戦乱の世となった神界を治める神界長クリストフだ。彼は身に宿す力が余りにも強大すぎるため、齢は五百近く数えるであろうに、未だに若い男の姿のままなのだ。腰まで届く紅蓮の髪は無造作にひとつに束ねられ、星屑のような光を帯びた銀の瞳は、宇宙の真理をも見据えているかの如き深い叡智を孕んでいる。面差しは研ぎ澄まされた刃のように鋭く美しく、彼ほど長身でなければ女と見まごうほどだ。その長身の体躯は先にも述べたとおり鍛えられ、引き締まっている。神界において剣術でクリストフよりも右に出るものはなく、戦闘科では最強とされる第二隊隊長をも数刻とかからずに打ち負かしてしまう。魔界との戦が始まって以来、第一隊を率いて親征すると共に、神界軍の総指揮官も兼ねている。クリストフのみが使うことの出来る神剣、
「父上」
長く続く廊下の一角から、呼びかけと共に痩身の男が現れた。クリストフや少年と同じ銀色の瞳で二人を一瞥し、慇懃な物腰で礼をしてみせる。
「第三隊の凱旋、おめでとうございます」
「グラゴスか」
クリストフは足を止め、相好を崩した。男は灰色の髪を短く刈り込んでいて、全身の無駄な肉という肉をそぎ落としてしまったかのように痩せていて、そのせいでまるで老人のような印象を受けるが、実際はもう少し若いのかも知れない。だが、銀色の瞳だけが飢えた野獣のようにぎらぎらと光っていて、近寄りがたい威圧感を生み出していた。
少年と男は、実の兄弟であった。ハミルカルが兄、グラゴスが弟である。ハミルカルがより父親の形質を強く受け継いだため、彼も成長が著しく遅いのだ。だが今年でもう七十、八十近くになるだろうか。依然として幼い子供のままであったが、英明な理性と強い正義感でもって、親征を繰り返す父が不在の時は、内政の補佐に就いている。母親と同じ髪の色をしたグラゴスもやはり内政を補佐しているが、大抵の神界人の成長とほぼ変わらなかったため、父親よりも遙かに年上に見える。その知謀はクリストフも一目置くほどであり、神界軍は彼の立てた作戦で幾度となく勝利を収めている。あまり喋らず、喋ったとしても皮肉気な笑みと共にであり、射抜くような銀色の瞳が他人に話しかけられるのを拒絶しているようだった。
「ちょうど良い、労いの言葉をかけに行くところだ。そなたも共に参れ」
「は」
グラゴスは恭しく頭を垂れ、背丈が自分の腰程までしかない兄の後について歩き出した。
歩くたびに、クリストフの背で、赤い髪が揺れている。ハミルカルもグラゴスも、それぞれの銀色の瞳で父の背中を見つめていた。
廊下の終わりが近づくと共に歓声は大きくなり、足音が掻き消される。わあああ、わあああと、終わることのない潮騒のように、心地良い騒音となって神殿の壁をびりびりと震わせている。
クリストフが目指していたのは謁見の間だった。近衛兵がずらりと並び、いくつもの柱で区切られた広い室内の中央にて、武装は未だに解かぬまま、将軍ディアネイラ、副将四人が赤い絨毯の上で畏まっている。茶色い外套に、ディアネイラの美しい金髪が映えていた。内政を司る情報科や指示科の高官たちも、祝いの言葉を述べるべく、あるいは女将軍の類い希なる美貌を一目見るべく参列している。
凱旋ラッパが高らかに吹き鳴らされる。
クリストフは謁見椅子には座らず、直接五人に歩み寄った。
「面を上げよ、勝ち戦の勇士たちよ」
「はっ」
声が重なり、ゆっくりと顔が上げられる。さすがに色濃く疲労が浮かんでいたが、五人の顔はそれ以上の歓喜に輝いている。戦の女神ディアネイラも、その美貌はクリストフの前でも色褪せることなく、むしろ艶やかなほどに美しい。
ハミルカルとグラゴスは、謁見椅子の横にそれぞれ控えた。
クリストフはそれぞれの顔をじっと眺め──にこりと、笑う。
「此度の勝利、必ずや神界の勝利の礎となるだろう。今宵は宴を催す、しばし勝利の美酒に酔うが良い」
「はっ」
代表としてディアネイラが頷いた。室内中にわあああ、と歓声と拍手喝采が響き渡った。クリストフはきびすを返し、謁見椅子へと歩み寄る。じっと父を見上げていたハミルカルは、無言で頷かれて顔を輝かせ、一歩前に進み出た。
「そなたらの活躍、余も耳にした。魔界軍の夜襲に難儀したそうだな」
期待に満ち満ちた少年を見て、ディアネイラは微笑を浮かべる。
「とんでもございません。戦闘科たる者、いつ如何なる時も戦に備えておくもの……我が第三隊は、夜襲如きで難儀するほど甘い鍛え方はしておりませぬ」
「そうか」
ハミルカルの言葉に、はい、とディアネイラが頷く。クリストフは謁見椅子に座りながら、形のいい口の片端を上げ、にや、と笑った。
「頼もしいな、ディアネイラ」
「光栄ですわ」
頭を垂れた女の耳元で、銀色の十字架がちりりと揺れる。以下、列席の高官たちが女将軍と副将四人の勝利を誉め讃え、その度に歓声が上がり、惜しみなく拍手を捧げ、このまま神界が勝利することを誰もが確信しているようだった。ディアネイラは何も言わずに嫣然と微笑んでいるだけであったが、誰もがその凛々しい姿に一度は目を奪わずにいられなかった。
ハミルカルの銀色の視線は、ずっとディアネイラに注がれている。だがしかし、女神の幻想的な紫の瞳は、時折控えめに神界長を見上げていた。
やがて、ハミルカルは沈んだ表情になり、女将軍から視線を逸らした。外見は幼くとも、人の心情が読み取れぬような子供ではない。
祝辞は、未だ続いていた。
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