1-2 凱旋

 神が先に存在したのか、神界が先に存在したのか、はっきりと言える者は、もはや誰もいないだろう。神が地上を創造した後、安住の地として地上から切り分けたとも、人間を住まわせるために神界に似せて地上を築いたとも言われているが、それはもはや伝説、神話の世界であった。

 大気は澄み、海原は穏やかで、大地は豊かな世界。地上と何ら変わらぬ、あるいは地上よりも遙かに美しい神界。そこに住まうのは、神の末裔と言われる神界人だった。人の姿をした者もいれば、人間たちに神獣と崇められるような半身半獣の者、あるいは全く異なる姿の者もいる。その中でも最も力が強い一族が代々神界長として神界を治め、その下には情報科、指示科などが機能的に運営されていた。彼らは皆、楽園のような神界を愛し、恩恵に感謝し、脆くか弱い地上の生き物たちにもそれらを分け与えようとした。

 だが、それと対を成すように生まれたのが、魔界と呼ばれる暗黒の世界だった。悪しきもの、不浄のもの、忌むべきもの全てを孕んだ世界は、恒久にどす黒い、硫黄のような臭気のする空気に覆われていて、海は粘液であるかのように粘つき、大地は腐り、あるいは溶岩に覆われていた。だがその闇を好んで住まう者もあり、彼らは己が欲望のままに互いに争い、血を啜り、裏切りながら混沌とした秩序を築き上げた。その姿は力を欲するままに変えられ、仲間や他の生物との合体を繰り返し、完全に人の形をしていることは稀であであった。魔界人は地上も手に入れようと目論み、悪事を働くように人間たちをそそのかし、疫病を、災害を起こし、地上を混乱させた。

 光と闇、善と悪、陰と陽、相反する運命の二つの界が、相手を滅するべく混沌とした地上で幾度となく対立し、ぶつかり合い、時に勝ち、時に蹂躙されながら激しく戦って来た。しかし、それぞれの界に直接侵入することはなく、地上を完全に支配する者こそが真の勝者、という暗黙の了解があるかのようだった。

 しかし、この細い糸一本で保たれていた運命の天秤は、あっけないほど脆く崩れ去った。

 第475代、紅蓮の髪に銀の瞳の神界長クリストフの治世下、魔界の勢力が突然増大し、次元を超えて次々に神界へと侵入した。美しい神界は黒い異形の者たちに踏み荒らされ、平和を愛する神界人たちは次々とその犠牲になった。神界長は急ぎ戦闘科を設置し、魔界の侵入に対抗し得るだけの戦力を鍛え上げた。神の末裔と言われる彼らは、戦を好みこそしないが、戦が苦手なわけではない。そうしてじりじりと戦力を培っている間に、神界中が魔界軍らのおぞましい手で蹂躙され、破壊された。

 その間、およそ百年。

 寿命の短い者たちは次々に息絶え、赤ん坊だった者も老人となる。語り継がれるのは平和ではなく惨禍の炎、蹂躙された故郷、死に絶える同胞。人々は魔物に怯え、神界殿の周囲に築かれた中央の街セントリアへと逃げ延びた。中央の街セントリアは、神界殿と共に強力な結界が張られているので、魔物が近づくことが出来ないのだ。それでも魔界軍の侵攻は日に日に激しくなり、中央の街セントリアと言えど必ずしも安全とは言い切れぬ。力ある者は戦闘科に志願し、戦うことの出来ぬ女、子供や老人は、家の奥で身を震わせながら肩を寄せ、明日も無事に生きられることを祈るしかなかった。

 その、常に怯えながらひっそりと日々の生活を営んでいた中央の街セントリアは、遠征軍から出された指示科の早馬の報を聞いて、にわかに活気づいた。

 女将軍、ディアネイラ率いる戦闘科第三隊が、みごと魔界軍を殲滅、凱旋帰路で遭遇した別の一軍も撃破したという勝利の知らせだった。

 久々に聞く朗報に、人々は涙を流して歓喜し、忘れかけていた希望を見出した。この華々しい勝利を収めた美しい女将軍を最大の祝福でもって出迎えようと、街中が彼女に恋い焦がれているかのように浮き足立ち、あちこちがきらびやかに飾り立てられた。神界を讃える赤い垂れ幕や旗があちこちに掲げられ、中央広場では凱旋トランペットの練習が賑やかに行われている。女将軍の金髪と、黄昏の空のような紫の瞳に準えて、黄色と紫の花もたくさん飾られた。彼女たちが到着する日を今日か明日か、と指折り数えて待ち、その頃にはいくつもの武勇伝が繰り返され、神界の栄光を、勝利の希望をふくらませた。

「そこでディアネイラ様は、軽々と剣を振るってあっさりとその包囲を突破して、取り残された小隊を救い出したそうだ」

「第三隊の副将四人は、一人百体ずつ倒したんだって!」

「知ってるか? 今戦闘科の中で、ディアネイラ様に勝てるのって第二隊の隊長だけなんだってよ!」

「ディアネイラ様が持ってる剣、凍てつく心臓フロズンハートっていう名前の邪剣で、使えるのはディアネイラ様だけなんですって! ディアネイラ様が使うと、緋色に光るそうよ!」

「そうそう、ディアネイラ様はたった一振りで三体も魔物を倒せるんだって!」

「第三隊はディアネイラ様が特別に訓練したから、ものすごく強いんだろ?」

「さっき聞いたんですけど、ディアネイラ様を庇って重症を負った兵が高熱で苦しんでた時に、一睡もしないで看病なさったんだそうですよ」

 あるいは本当に、街中が彼女に恋い焦がれているのかも知れなかった。報が来てからというもの、人々が口にするのは女将軍と、彼女の率いる第三隊の話で持ちきりだった。

 戦闘科は大きく四つの隊で構成されている。第一隊は神界長直属軍であり、神界長自らがその采配を握る。第二隊は神界殿と中央の街セントリアの護衛隊であり、神界長の近衛も務めている。第三隊、第四隊が現在活躍している隊で、第四隊はしばらく前にやはり遠征から凱旋したばかりであった。第三隊、第四隊はいずれは神界長の二人の息子が采配を握るはずで、現将軍は新たに第五隊、第六隊に就任する予定である。

 その中でも紅一点であるディアネイラは、その美貌、活躍、颯爽とした気質でもって、戦闘科でも圧倒的な人気、羨望の的であった。それは戦闘科の誰もが認めており、彼女に嫉妬──と言うよりはもっと熱っぽい感情を抱いている者も多々いるであろう。だが彼女には浮ついた噂もなく、そう言う話題には微笑を返すだけで、愛用の、凍てつく心臓フロズンハートという名の邪剣を変わらずに振るっていた。

 この邪剣は、持つ者の闘争本能を著しく増大させる。その本能を力に変換して敵に攻撃するため、威力は通常の剣の何倍にも及ぶ。だが生半可な者が手にすれば、野生の獣よりも激しい激情に流されて狂い死んでしまうのだ。ディアネイラは見事に激情を制し、日頃の鍛錬の賜物でもって、鬼神の如き活躍を見せているのである。剣を振るう時、彼女の燃えさかる激情の表れのように、刀身が緋色に透き通り、淡く光を発するのだ。

 と、町外れで、見張りをしていた情報科がけたたましく鐘を鳴らした。

「第三隊、到着!」

「第三隊、到着!」

 喜びを押さえ切れぬふれの声に人々はハッとし、歓声を上げながら我先にと駆け出した。

 町外れ、地平線の彼方に僅かに浮かんでいた砂煙が徐々に大きくなり、やがて茶色の外套を羽織った一団となる。近づくにつれて馬や鎧が見極められるようになり、その先頭で金髪を高く結い上げた女──ディアネイラが、大きく手を振っていた。

 情報科も見張り台の上から、落ちんばかりに身を乗り出して手を振り返す。

「無事の凱旋、心よりお祝い申し上げる!」

 声は届かぬが、ディアネイラはありがとう、と叫んだようだった。

「市内凱旋!」

「第三隊、市内凱旋!」

「第三体、指示科の後に続け!」

「了解!」

 今度は女の良く通る声ははっきりと聞こえた。情報科は何か叫んだが、その声は人々の大歓声によって掻き消されてしまった。

「ディアネイラ!」

「ディアネイラ!」

「邪剣将軍ディアネイラ!」

「第三隊万歳!」

「ディアネイラ万歳!」

「神界万歳!」

「ディアネイラ!」

「ディアネイラ万歳!」

 それらの叫びがわあああ、わあああ、と津波のように押し寄せ、第三隊の馬達が興奮していなないた。馬に乗った指示科がが先導のために道の中央に出て、一万人近い兵達が通れる為の道を確保するのに大忙しだ。

 やがて第三隊は到着し、割れるような大歓声と指示科に導かれ、堂々たる姿で凱旋行進を始めた。ディアネイラはその先頭を、微笑と共に進んでいく。行く先々でわぁっと大歓声が上がり、彼女も、隊の兵達も嬉しそうに手を振った。

「第三隊万歳!」

「神界万歳!」

「邪剣将軍万歳!」

 白馬の背の上で凛と背を伸ばしたディアネイラは、まさに勝利の女神そのものだった。太陽が顔を出したばかりの光のような明るい金髪は頭上でひとつに束ねられ、茶色の外套の上でさらさらと揺れている。今は優しい、そして快活な光を帯びた大きな瞳は、夕暮れの橙と紺の狭間に淡く浮かび上がる紫で染め抜いたような、幻想的で美しい色だ。顔立ちは美しく整っていて、顎は細く、唇は紅く、眉は繊月のように優雅で凛々しい。両耳に揺れているのは、繊細な銀色の十字架の耳飾りだ。馬が歩く度にちりちりと揺れ、時おり顎の付け根に当たっている。胴鎧をつけず、ズボン下履きの上から身に纏っているのは、深い切り込みの入った、彼女の瞳より濃い紫のドレス。描かれた曲線は無駄が無く、だが優美で、戦士としても女性としても申し分がなかった。そして全身から滲み出る颯爽とした彼女の気質が、男となく女となく、誰であろうと熱狂的にディアネイラの名を呼ばせ、一目その姿を見ようとさせているのだ。

 人々は戦の女神、勝利の女神と女神の率いる軍団を見ようと大通りに詰めかけ、吸い寄せられるようにその後をついて歩いた。その間じゅう口々に叫んでいるので、わあああ、わあああ、という歓声は次第に大きくなっていく。神界殿の奥にある界長殿までも轟きとなって聞こえるだろう。

 やがて、第三隊は神界殿前の大広場に到着した。

 華やかなファンファーレが高らかに吹き鳴らされる。

「ディアネイラ将軍率いる第三隊、大勝利をもっての帰還を祝福する!」

 わああああっ、と、民衆も第三隊も、神界殿の壁をびりびりと震わせんばかりに叫ぶ。

「ディアネイラ将軍の活躍を讃えて、万歳三唱!」

「万歳!」

「万歳!」

「ばんざーい!」

 三回と言ったはずなのに、皆はそれぞれ勝手に万歳を繰り返し、ディアネイラの名を呼び、第三隊を讃えた。わあああ、わあああ、という叫びはもはやうねりとなり、隣の者と会話をするのも困難なほどだ。

 勝利の女神は大歓声の中、黄昏の瞳に、僅かに緊張を孕んだ微笑を浮かべていた。






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